第四話

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第四話

「お前は暖かいな……」  少女に優しく抱き締められたまま、魔王は静かに呟いた。  今まで魔王はどんなに力を抑えようとしても声に漏れ出す威圧の為、誰かと話をする事などは殆どなかった……ましてや感情のまま声を出し、これほど長き時間に渡り話をする事など有り得る事ではなかった。  魔王にとって人間とは、自分が死を得るために必要な存在……ただそれだけの筈だった。  いや、むしろ己の欲望の為だけに争い事を起こし、殺戮や強奪をする姿に嫌悪感を抱いていた。  己の保身の為に生贄などと言う存在を作り上げ、弱き者に全ての責を負わせる態度に怒りさえ覚えていた。  だからそんな人間に対して自分が特別な感情を持つ事はないと、今まではそう思っていた。  だが、少女に抱かれている今は魔王に不思議な感情が芽生えていた。 「俺は、お前を手放したくはない……」  今まで生贄として捧げられてきた娘達は、皆一様に遠く離れた村でその生涯を全うしている。  元々暮らしていた村へと返せば、それは魔王の怒りを買ったのだと村人に判断されてしまう。  その結果、どんなに小さな災害が起こっても全ては娘の責任なのだと断罪され、処刑されてしまうのが目に見えていたからだ。  だからこそ、誰一人として娘と関わりのある者が居ない場所へ……娘が魔王への生贄になった事など誰も知らない場所へと送り届けていた。  しかし、この少女に対する想いは全く違っていた。  本当に少女の幸せを願うならば、人間から忌み嫌われている魔王の城になど居るべきではない、他の娘と同様に遠い村へ送る事が正しいのは分かっている。  分かってはいるが、その答えに素直にしたがう気持ちにはなれない。  もちろん、少女は耳が聞こえず声も出せないのだから、どの村に送り届けても苦労をするかもしれないと言った心配もあった。  だが、魔王にはそれ以上に、自分にはこの少女が必要なのだと……自分の心の隙間を埋める事が出来るのはこの少女しか居ないのだと……そんな想いの方が大きかった。 (ここに居る事で、この者が辛い思いをしているのだと分かったらすぐに別れを告げよう……この者がこの城から出たいと願うのなら、すぐに遠い村へ送り届けよう……だから今は……)  魔王は自分の頭に触れている腕を優しく振り解き、少女の目を見つめながら話した。 「俺と一緒にこの城で暮らして欲しい……」  少女は魔王の言葉に答える事は無かったが、何かを感じ取る事が出来たのかもしれない。  その表情にはもう怯えの感情は少しも見られなかった。  二人の間には静かな時間だけが過ぎていく……。  そして暫く見つめあった後、少女は優しい微笑みを浮かべながら、魔王の胸にそっと寄り添った。  そのあとの魔王は少女が辛い想いをせぬように、城を嫌う事がないようにと色々と思案した。 「まず誠実なるお前には、この俺がアリシアの名を授ける事にする!」  威厳を持って言い放ったが、言葉が分からない少女は首を傾げたまま魔王の顔を見つめている。 「そ、そんな目で見るな! 聞こえぬお前には名前など意味のない物かもしれぬが、いつまでも『お前』と呼ぶのもなんだし……その……」  先程までの威厳は何処へ行ったのか、魔王は必死に取り繕うと焦っている。  少女はそんな魔王の感情を読み取ろうとしているのか、今まで以上に真剣に見つめ続けた。 「お、俺が名前を呼びたいから、そう呼ぶと決めたのだ! アリシアは別に深く考える必要などない!」  魔王は照れる表情を見られたくないのか、少女に背を向けた。 (しかし意思を伝える事が出来ないのは思った以上に不便なものなのだな……これは何か対策を考えないと……)  少女が生きてきた『聞こえない世界』と言うのは、魔王が耳を塞げば理解できると言った簡単なものではなかった。  聞こえない事、それは言葉を理解出来ない事……。  言葉を理解出来ない事、それは文字を覚えられない事……。  他人の想いや言葉が一切伝わらず、物に付けられた名称が一切の意味を持たず、書物に書き残された文字が意味を成さない記号にしか見えない世界……それは、ただ『音が無い』だけの世界ではなく、少女の周りにある『人との関わりの全て』を遠ざけてしまう世界だった。   (そうだ! ならば文字ではなく絵を描けば良いのではないか?)  魔王は急いで自室に戻り、石板と石筆を持ち出して来た。 (まずはアリシアに床ではなくベッドで眠るように伝えなくては)  部屋に戻って来た魔王は石板に、ベッドで眠る少女の絵を描き始めた。  しかし今まで絵など描いた事がない魔王は思いのほか苦戦を強いられる。 (な、なかなか難しいものだな……)  描きあがった絵はお世辞にも上手いとは言えず、例えるなら幼児の描いた落書きのようであった。  魔王はその絵を見せ、一つ一つ指さしながら一生懸命に説明をする。  しかし少女はその絵が何を意味しているのか、あまり理解はできていない様子だった。   「これがここに有るベッドで、ここにいる少女がアリシアだ……今日からアリシアは床ではなくベッドで眠れと言いたいのだ! 分かるか?」  首を傾げたまま少し悩んだ様子だったが、暫くして少女はまず絵に描かれたベッドを指さしたあと、部屋にあるベッドを指さした。 「そうだ、この絵はそのベッドだ」  魔王は大きくうなずきながら答える、  次に少女は絵に描かれた人物を指さしたあとに自分の事を指さした。 「そうだ、分かってるではないか! このベッドで寝ているのがアリシアだ」  しかし、幼児の落書きが自分の姿だと言われた少女は思わず吹き出してしまった。  声のない笑いだが、少女は今まで見せた事のない笑顔になった。 「な、何が可笑しい! どう見てもアリシアがベッドで寝ている絵であろうが!」  少女の笑顔を見ていると魔王も嬉しい気持ちになってくる。  魔王は続けてその絵の隣にもう一つ、床に寝ている少女の絵を描き始めた。   「良いか! 床で眠るのは駄目だ! アリシアはこれからはベッドで眠るようにしろ」  魔王は少女が床で寝ている絵にバツを書き、ベッドで寝ている絵の方に丸を書いた。  少女は落書きの様な絵がツボに嵌ったのか、涙を流して笑っている。  それでも魔王は何度も何度も床で眠る絵にバツを書き、ベッドで眠る絵に丸を書き続けた。  少女は涙を拭いながらも、ようやく絵の意味を理解したのか頷いてみせた。  ほんの些細な事かもしれないが……伝えられたのはたった一言だけなのかもしれないが、自分の想いが少女に伝わった事に対し、魔王はとても嬉しく思っていた。  そして少女もまた、生まれて初めて人から想いを伝えられたと言う事に喜びを感じていた。  
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