第10章 赤い衣の

5/6
前へ
/53ページ
次へ
殊更に長い一日だった。 いつものように途切れることなく忙しく仕事を片付けた筈だったのに、これほど一日が長いと感じたのは、待たせている存在が居ると思うからだろうか。 渡津依は、少しだけ幸せな気持ちになって微笑むと、仕事場を後にした。 渡津依の家は昔から海の国で一番財力のある商家で、海運や貿易の元締めもしている。 その当主としての渡津依は、商家の主人とは言っても店に出て客相手に商売をする訳ではない。 この海の国での全ての商売が滞りなく回るように、気を配り、諍いが起これば調停し、ここでの商売を荒らす者が現れた場合はそれを取り除くのも役目の一つだった。 そんな訳で、毎日持ち込まれる厄介事を捌いていくのが仕事だといえた。 昨晩漸く戻った花嫁とは、めでたく和解してしっかりと結ばれた。 その余韻がまだ身体に残っているような気がする。 結婚にも、妻という者にもそれ程興味があった訳ではない渡津依だが、一月しっかり焦らされてたっぷり考えさせられた所為か、昨晩は殊更に妻の莉堵と深く解り合えたように感じた。 夫婦というのは、良いものだと噛み締めながら、渡津依は屋敷の食卓に向かう。 昼食は一人にしてしまったが、夕食は共にしたいと朝の内から告げてあった。 一日、屋敷の中を見て回った筈の莉堵はどう思っただろうか。 何か希望があれば、彼女の望むものを用意させる事もやぶさかではない。 本当は、心根も、全くなにも纏わない彼女も美しいのだが、それを更に飾り立てたい気持ちにもなる。 自分がこれ程、誰かを特別に愛おしく思う日が来るとは思ってもいなかった。 夕食の席で、彼女と何を話そうかと考えながら入った屋敷では、家人や女中達が落ち着きなく動き回っていた。 渡津依が戻った事に気付いた家人が飛んでくる。 「旦那様! 大変です。莉堵様が、奥方様が。」 上擦った家人のその言葉に、渡津依は堪らなく胸が騒ぎ出した。 「どうした? 何があった?」 真剣な顔で訊き返すと、家人は唾を飲み込んでから、こちらにぴたりと目を向けてきた。 「出て行ってしまわれたのです。」 渡津依は目を見開く。 「何?」 「深都波と何か言い争いながら、最初はお一人で歩いて出て行かれようとなさるのを、付添が共にと言い張るので、馬車を所望されて、止めようとした深都波がそれに無理矢理同乗した形で。お出になったのは、昼過ぎでしたが、まだお戻りになりません。」 鉛を飲んだように身体が重くなった。 「何が、気に入らなかったのだ?」 呟くように口にすると、家人が躊躇いがちな視線を向けてくる。 「その、深都波殿は皆を代表して、あの方が本当に地の国から来られた花嫁様ご本人か問い詰めて下さったのです。」 渡津依はそれに眉を顰める。 「正直に申し上げて、あれはあの赤い魚の変化ではないかと皆が恐れておりましたから。」 「そんな訳はないだろう。何故、彼女にそんなことを言った? 深都波の独断か?」 渡津依は深々と息を吸って、気持ちを落ち着けようとする。 「でも、海に落ちた者が一月も無事など有り得ない。失礼ながら、旦那様は騙されてらっしゃるのではないかというのが、皆の意見です。」 渡津依は頭を抱えたくなった。 そんな話しを聞いて、あの莉堵が黙っている筈がない。 「深都波は莉堵とどんなやり取りをしたんだ?」 渡津依が問い掛けると、家人は困ったように首を傾げた。 「それは・・・、深都波殿は後で旦那様にお叱りを受けるなら自分一人で良いからと仰って、お一人であの方とお話し合いを。」 渡津依は横を向いて深々と溜息を吐く。 「何故、私のいない間にそんなことを。」 「旦那様は、外見は美しく取り繕っているあの方に騙されてらっしゃって、あの方が泣き付かれたら、あの方をお庇いになるかもしれないからです。」 家人は、意を決して硬い口調でそう言い募る。 「それで? 莉堵は何と? 化け物だと認めたのか?」 溜息混じりに問うと、家人はまた首を傾げた。 「どういった話しになったのかは分かりませんが、最後は出て行くの一点張りで、深都波殿のどんな問い掛けにもお答えにならず。」 溜息が止まりそうもない。 「それはそうだろうな。彼女は賢い。そんな侮辱を受けて黙ってはいないだろう。それに、行動も早いし、思考も明確だ。」 渡津依は額に手を当てた。 「ただの女子と舐めて掛かっては、深都波でも立ち打ち出来なかっただろう。」 「旦那様?」 訝しげに問い掛ける家人に、渡津依はまた溜息を吐いた。 「迎えに行こう。馬を用意してくれ。」 「なりません、旦那様! 深都波が只今正体を暴こうとしている筈です。お任せになるべきです。どの道、今から追われたところで、馬車に追い付くには夜通し駆けねばならなくなります。旦那様のお身体にもお仕事にも差し障ります。」 必死で止める家人に、渡津依は誰の所為だと居並ぶ家人を見渡す。 「今後、私の居ない間に勝手は慎め。莉堵は私の妻だ。この家の女主人でもある。彼女は間違いなく、地の国から嫁いで来た姫その人だ。」 渡津依はそれだけ言い渡すと屋敷の中に進んだ。 深都波は莉堵の気が済むまで、引っ張り回されることになるかもしれないが、それは深都波の自業自得だろう。 渡津依としては、誠意のある手紙を送って戻るように説得するしかない。 「莉堵に宛てて手紙を書く。誰か追い掛けて渡して来てくれ。お前たちと深都波や莉堵の気が済むまで、私はここで待つことにする。」 そう告げると、追い掛けてきた家人が深々と頭を下げてきた。
/53ページ

最初のコメントを投稿しよう!

157人が本棚に入れています
本棚に追加