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父は川の向こうの、人が寄り付かない、不便な小さな家に母と私を住まわせた。
母の顔が腫れているのは、近所で有名だったようだ。それによく食器の割れる音や、父が母を罵倒する声も。
時々母を心配した近所のおばちゃんが警察を呼んでくれていた。
同居していたおばあちゃんは「なんでもない。不出来な嫁が食器を落とした」「嫁が粗相をした」と言って、近所の人や警察に話をしていたけれど、近所の人たちはみな知っていたようだ。
「さきちゃん、大丈夫? けがしてない?」
わたしにも父が殴る蹴るをしているんじゃないかと近所の人たちは心配していたが、わたしは全然怪我をしていなかった。
それから、だんだん警察が来る頻度が高くなり、父はうっとうしかったのだろう、ある日突然引っ越すといいはじめた。
父は私たちを小さな川の向こうの家に閉じ込めると、あの女を実家に住まわせたようだ。
わたしが町を歩いていたら、近所のおばちゃんが最新の父の実家ニュースを話してくれた。
わたしが川の向こうに引っ越ししたと言うと、おばちゃんは「さきちゃん、早く大きくなるといいね。お母さんを助けてあげてね」といった。
川向うに引っ越してから10年。
もうわたしは小さくない。
とはいえ、母は全く出ていく気配はなかった。何を待っているのだろう。
全くわからなかった。自分から行こうとしなければ、でていくことはできないのに。
18歳になったわたしは少し母にイラついていた。
台風の日。
わたしが家の中で窓の外をみていると、男性がこちらへ歩いてきた。
父とさほど年恰好は違わない。
――なんだ、このおじさんは。
わたしがそう思ったのは内緒だ。
おじさんはチャイムを鳴らした。
母はいつも通りドアを開けた。
「あ」
母は小さな驚きの声を上げた。
おじさんも「あ」と驚いた。
――おじさんは母の殴られたあとをみて、おどろいたんだと思うけど。
おじさんはわたしをちらっとみて「こんにちは」と言った。
「こんにちは」
おじさんはやさしい目をしていた。母が私を抱きしめるときにした目に近い。
この人は母の敵じゃない。
そう直感した。
「どうして……どうしてここに来たの?」
母はおじさんを責めた。
父の理不尽な暴力にじっと耐え、表情を見せない母が動揺していた。
いつも投げやりに生きている感じがしていたのに、おじさんの前ではそんな気配はまるでない。感情のあるヒトになっていた。生きているヒトになっていた。こんな母を見たことがなかった。
ああ、このおじさんは母の大事な人なんだと私は思った。
「君が困っていると聞いて……」
「わたしはあの人と結婚して、子どももいるのよ」
「……」
おじさんは黙っていた。
「いまさら、もう変えられないわ。無理よ。もうわたしのことは忘れて」
「君を忘れるなんてできないよ」
玄関の向こう側におじさんを追いやろうと、母がおじさんの背中を押す。
おじさんは母の手首をつかんだ。
「痛い」
母がいうと、おじさんは手をすぐに放した。
おじさんは驚いた顔をしている。
それから急いで母の袖をまくった。
母の腕には青あざや黄色いあざがたくさんあった。手首には強く圧迫された跡も残っていた。
本当は体中にあるの。お母さんの。お母さん、助けてあげてとわたしは言いたかったけれど、黙っていた。
おじさんははっと息をのんだ。
「見ないで」
母は言った。
「さあ、もう向こうへ行って。ここへはもう来ないで」
母は泣きながら言う。
おじさんは母に一歩近づいて、母を抱きしめようとしたが、その手を宙にあげたまま考え込んでいる。
――わたしがいるから抱きしめないんだろうか……
「おじさん、母を連れて行ってくれる?」
わたしは思わず聞いた。
***
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