第一話 美術の時間

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第一話 美術の時間

 真っ白な紙に描かれた絵。その絵の向こうで、一人の少女が蕾が綻んだように笑っている。  何となく、懐かしく感じて。胸が締め付けられるような感じがして。  その瞬間、僕は彼女を本当の意味で認識したのだ。    *  高校生になって、浮き足だったクラスの雰囲気が少しずつだが落ち着いてきた頃のこと。  それは、美術の時間の出来事だった。  愛知県の壱木宮市にあるこの高校では、美術・書道・音楽の中から芸術科目を選ぶようになっている。  僕が第一希望に選んだのは美術。第二は書道。第三が音楽。  因みに、希望順位の理由は至って簡単。絵を描くのが好きだから第一が美術で、歌うのが苦手だから第三が音楽、必然的に第二が書道となった。  一応どれも定員があるため、必ずしもその希望が通るとは限らない。しかも、美術は定員が少なかった。  だから、無事希望が通った時はほっとしたものだ。週に一度しかない授業だとしても、やはり興味があることをやりたかったから。  ――もし音楽になっていたら……いや、考えるのはやめておこう。  まあ、楽器を演奏するのは苦手ではなかったので、何だかんだやっていけたとは思う。僕も人間だから苦手なことは勿論あるが、それでも何でもそつなくこなすのが僕の取り柄でもあったから。  閑話休題。今は、美術の時間である。  教壇の上に置かれたのは真っ白い箱。ぽんぽんと軽くそれを叩いて、美術の先生が言い放つ。 「今日のお題は人物画だ。黒板の数字は見えるな?君たちには今からくじを引いて貰うから、そこに書かれている番号の席に移動して、隣に座る人とペアを組んでくれ。それで、ペアになった相手を描いてもらう」  先生がそう説明した瞬間、室内に「えー」という不満げな声が木霊した。 「先生ー。自分たちでペアぐらい決められますよー」  一人の生徒の声を皮切りに、「そうだそうだー」と複数人が後に続く。  仲の良いグループが決まってきた今、確かにあまり話さない人よりも仲の良い者同士で組みたいと思うだろう。  だが、僕はどちらでも良かった。同じ中学出身でも特別親しい人はクラスにはいなかったし、かといって仲が悪い人もいなかった。席が近い人たちとは適度に会話もしているし、これといって人見知りもしない方だし、言ってしまえば誰と組もうがどうでもよかった。変にちょっかいを掛けてきて、絵を描く邪魔をしてくるような人はごめんだけど。 「静かにしろー。それじゃあ、窓側の方から引きに来いー」  先生は生徒の不平不満なんて痛くも痒くもないらしく、みんなの声を無視して声を張り上げた。  渋々といった様子でみんなが席を立ち、教壇にある箱へと向かう。くじを引いた人たちは、「何番だった?」とお互いに訊き合っていた。  僕も腰を上げて、教壇へと歩いて行く。手に触れる何枚もの中から一つ選んで、番号を確認した。 「えっと……」  黒板の数字と照らし合わせて、番号の示す席に移動する。  隣の席はまだ空席だった。頼むから騒がしい人はやめてくれよと願いつつ、画用紙をセットした画板を机の上に置き、ペンケースから鉛筆を取り出して描く準備する。少し経ったら、隣の椅子が引かれた。  隣に座ったのは女子だった。  僕が記憶の中からその女子の名前を引き出そうとしたその時、鉛筆を手に取った彼女がこちらを見て丁寧にお辞儀した。 「香宮です。よろしくお願いします」 「あ、高瀬です。こちらこそよろしくお願いします」  礼儀正しい子だなと思った。  香宮さんにつられるようにして僕も挨拶をする。人間関係において挨拶は大事だ。  そっと僕は顔を上げる。すると、目に映ったのは香宮さんの何処か驚いたような顔だった。  しかし、それも一瞬の事で。  どうしたんだろうと思った時には、その視線は既に白い紙に向けられていた。  不思議に思いつつも、絵を描き始めた彼女に倣って僕も白い紙へと向かう。  ――そう言えば、香宮さんと話したことはなかったな。  僕は目の前の少女のことを考える。  香宮日咲。  教室での席が近い訳でもなく、特にこれと言って接点もなく、今まで話したこともなかった。男子と女子だから余計に話す機会などなくて。  周りを窺えば、「えー、お前とペアかよー」なんて軽口を言い合っているペアもいる。女子同士、男子同士のペアは気軽に話し合っているが、男女ペアになってしまったところは何処か気まずそうにしているのが大半だ。尤も、僕たちもその中の一組であるのだが。  誰でもいいなんて言っておきながらも、やはり女子と組むとなると少しは緊張する。  ――全く、何が楽しくて高校生にもなって男女ペアを組まされなければならないんだ……。  そんなもの、中学生の時のフォークダンスで十分だ。あの時は、やけに気恥ずかしかったのを覚えている。  でも、今回は手を繋ぐなんてことしなくていいからまだいい。触れ合わなくてもいい。ただ相手の顔を見て、描くだけでいいのだから。  とは言っても、やはり多少の照れ臭さや気恥ずかしさはある訳で。  ――ただのデッサンだ、デッサン。  心の中で自分に暗示をかけるように唱える。一つ深呼吸して、僕は目の前の彼女を――香宮さんを観察した。  第一印象は大人しそうな子。  瞳は大きく、眉はやや太め。顔の輪郭はシャープというよりは少し丸く、その顔は美人系というよりはかわいい系の部類であろう。だが、右目には泣きぼくろがあって、それが少し色っぽくてギャップがある。  ――って、いやいやいや、何を考えているんだ。今は観察することに集中しろ自分。  前髪は眉より少し下で切りそろえられている。髪を巻いている女子生徒もいるが、肩まで伸びた彼女の黒髪は真っ直ぐで、それがセーラー服によく似合っていた。  色白で、強いて言うのなら血色が悪い肌と華奢な体から、ああ、きっとこの子は文化部だろうなと勝手に思った。  ――これで運動部だったらどうしよう。いや、どうもしないけど。それはそれでギャップが……いやいや、今は描くことに集中しろ自分。  一つ息を吐いて気持ちを落ち着かせる。そして、僕は真っ白な紙に線を描き始めた。  視界の隅で彼女も鉛筆を走らせているのが見えた。  描いて、顔を上げて、描く。  僕が香宮さんを見ている最中に彼女が真剣そうに絵を描いていることもあれば、その逆も然り。  視線が交わると、香宮さんが恥ずかしそうにさっと顔を伏せた。  俯いたことにより、白い肌に睫毛の影が差す。恥ずかしさからか、その頬や髪の間から除く耳がほんのりと赤くなった。  睫毛長いなぁなんて思って、そして――  ――可愛い。  不意にそんなことを考えてしまった。  ――いやいやいや、何を考えてるんだ僕は!雑念は、禁止!  はっとして、余計な思考を振り払うように僕は首を振った。  ――描くことに集中しろ自分!集中だ集中!  一人で意気込んで再び画用紙へと意識を向ける。鉛筆を動かせば次第に心は落ち着いていった。  描くのに集中すれば段々と恥ずかしさは薄れていくもので。  それは、香宮さんも同じらしい。  周りから雑談が聞こえるが、僕たちの間に会話という会話はなく、互いに黙々と描いていた。
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