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 私が半年程前に友人、仮にエス君としときましょうか。そのエス君と数年ぶりに再会した場所も、こんな雰囲気の店で、時間も大体このくらいだったでしょうか。  彼とは高校の同級生で、部活も同じ運動部でしてね。裕福な家の子と言われてた割には毎度持ち合わせが無くて、帰りに飯なんかを奢ってやったりもしましてね。まあ、安くて不味い飯屋でしたけどね、でも今もその事で恩義を感じてくれていたのか、人伝に聞いた僕の勤め先に連絡をくれたのです。  店に入って最初に目にしたのは、一流商社勤めらしく颯爽とスーツを着こなし、カウンター席に着いたエス君の姿でした。  「久しぶりだね、よく来てくれた。本当は飲みながら一晩中語り合いたい気分だが、さっき部下から連絡があってね、そうゆっくりもしていられないらしい。取りあえず今夜は貸し切りにしてある、何でも注文してくれ」  なるほどそういう趣向か、それならばと、僕は挨拶もそこそこに彼の隣へ座るなり、遠慮なく酒を注文しました。今のあなたと同じように、一番安いものをね。  「変わらないなあ」  彼は、そう言って穏やかな笑顔を浮かべたあと僕の注文を訂正し、今自分が飲んでいるのと同じものを注文してくれました。  「いや、君の方は変わったね。昔に比べて随分と丸くなった気がするよ」  「ああ、あの頃はお互い先生から目の敵にされていたな」  「でも君は僕と違って、頭脳明晰で弁も立ったから一目置かれていたよ」  二人の会話が高校時代の思い出に差し掛かろうとしたとき、ふとあることに気がつきましました。  「そう言えば、さっき部下からとか言ってたけど、結構な役職らしいね。まあ、君のことだから出世コースに乗るのは、それほど難儀ではなかったろうね」  私はエス君が身に付けている腕時計と靴を、さり気なく観察しながら言いました。どちらも、自分には到底手に入れることの出来ない代物に思えました。  「ああ、社長は大変だ」  思いもよらぬ一言で、口に含んだ高級酒を吹き出しそうになりました。  いくら見た目も頭も良く、常に羨望の眼差しを向けられていた彼でも、まだ若手と扱われるような年齢でトップの地位に立つなんて……。しかも、誰でも一度は耳にしたことのある有名企業です。  「まあ、これも全て親父のおかげだよ」  「親父……そういえば君の親父さんも大会社の重役だったとか……そうか、親父さんの口利きで……」  私は内心ホッとしました。すると彼は鞄の中に手を入れ、徐ろに何かを取り出したのです。  「吝嗇家の親父から初めて譲り受けた品だよ。でも"これ”が無ければ僕は今頃どうなっていたかな」  相変わらず穏やかな笑みを浮かべる彼が手にしていたのは、黒いカチューシャのような物で、そこには同じ黒色でビヨンと伸びた二本の突起物が付いていました。  「なんだい、それは? まるで蟻か何かの昆虫の触角みたいだな」  「これはね、こうやって頭にはめて使うんだ。君、何か僕に理不尽な要求をしてくれよ」  「それって……どういうジョークだい?」  そう半笑いを浮かべて言っても、彼の割りかし真剣な表情は変わらなかったので、私は思いつく限りの無理難題をあげてみました。  「どうだい? 言われたとおりにしてみたけど、これに君は全て応じてくれるとでも言うのかい?」  すると彼は横顔を見せて、グラスに残っていた酒を呷りました。  「ふう、なるほどね。今君が言ったのはたしかに難しいことばかりだ。だがね……」  それから彼がした話の内容は、非常に長くてややこしいものなので、割愛させていただきます。それに私が同じ話をしたところで、貴方には何も伝わらないでしょう。  誤解なさらぬように、あくまで彼の口から発せられた言葉だから意味があったと言うことです。あれは、悪魔の囁きのようで神のお告げのようでもありました。どんな邪な心を持った人間だって悔い改めたくなり、己の欲を捨てることでしょう。  「君のことだから、きっと一つぐらいは要求通りにしてくれるだろうと、内心ほくそ笑んでいた自分が恥ずかしい。今は虚心担懐とでも言おうか……本当にそのカチューシャに何かあるのかい?」  「そうだよ、僕も最初は半信半疑、いや完全に親父の真意を疑っていた。だが入社してまだ間もない頃、商談のためにとある料亭へ先輩に連れられて行ったんだが、取り引き先がかなりの難物でね、でも"これ”のおかげで上手く対処出来たんだよ」  「そうか、話が読めてきたぞ。これを付ければ簡単に相手を丸め込めるというわけか」  「うん、まあそうなんだが、なんなら君も試してみなよ」  彼はカチューシャを頭から外し、私に差し出しました。  「そう、そうやってただはめるだけでいい、じゃあ今度は僕が君に無理難題を言う番だ」  彼が口にした要求の数々は、試みだと分かっていても腹の立つほど甚だしいものでした。  「おい、冗談にしても閉口するぜ」  「そう、口は閉じたままの方がいい」  彼の予想外の返しに、思わず言われたとおりすると、モゴモゴと口の中で膨らんでくるものがありました。  「よし、上手くいったようだ。その膨らんだ物を、よく噛んで食べるんだ。大丈夫、体に直接影響するもんじゃないから」  私はまたしても彼の言うとおりにし、咀嚼をすると、グニャグニャした感触と共にとてつもない味が舌を通して伝わってきました。それは、彼に奢っていた飯屋の料理を何倍も不味くしたものでしょうか。  「人の要望、いや欲望というのはその人物の本質が詰まっていて、なおかつ言葉に表れやすいものでね、その欲を突起物が察知し、脳内で像を構築した後、口内で"欲の塊”として物質化するんだ」  堪らず口を押さえてうずくまる私に、彼は淡々とした調子で続けます。  「どうだい? 酷いもんだろ。でもそれを食べることで、相手の人間性とあしらい方がわかるんだ。トーン、間、そして抑揚、十人十色と言うように言葉の伝わり方は人それぞれ微妙に違うもの。如何なる話し方で対手を感服させられるかを体と脳に覚えさすのが、君が頭に付けた"食覚”だよ」  「……ようやく飲み込めたよ、口の中の塊も話も……こりゃ、たしかに忘れられない味かもな……」  私はエス君から手渡されたハンカチで、口元の涎を拭きながら言いました。  「で、ショ……なんだって?」  「食べて覚えるから"ショッカク”。もちろんさっき君が言ったように、虫の触角と掛けて、僕が名付けたものでもあるんだけどね」  そう言うとエス君は、呆然と立ち尽くしている店主に酒のお代わりを注文しました。  「でも君は仕事の度に、こんな悶絶するような思いをしてきたのか……」  「まあ、すぐに慣れたよ」  「慣れる……ものなのか……」  たしかに彼は、私の"欲の塊”を食べたときは殆ど口を動かしていないように見えました。  コツというものがあるのかも知れない、それならば自分にだって……。私はエス君に、駄目元のお願いをしてみることにしました。  「もし……良ければなんだけど、少しの間だけ食覚を貸してもらうことは出来るだろうか……いや都合の良いことを言っているのは重々承知だ、それこそまた君が食覚をはめる番になるね。ハハハ……」  「別に構わないよ」  意外にも二つ返事で彼は応じてくれました。  「僕は立場上あまり使うこともなくなったからね。君に役立ててもらえるなら嬉しいもんだよ。ただし……」  「なんだい? もちろん礼なら可能な範囲であれば、どんなことでもするよ」  「いや、そうじゃない。さっき体に直接影響しないと言ったが、あまり無理はしないことだ」  「わかった……ありがとう」  それから私達は再び会うことを約束して、店を後にしました。  そして早速、私は翌日から営業の場で食覚を常用することとなりました。   唖然としている取り引き先に、営業スタイルだと誤魔化しては、噛む度に滲み出る苦味を味わう日々が続きました。  しかしその結果、成績はグングン上がっていき、最初は訝しんでいた上司や同僚も、すぐに私を見る目が変わりました。  これなら出世コースに乗るのも時間の問題だ、そう思ったそのとき、私の胃に異変が生じました。  最初はただの食べ過ぎか、顧客との飲み会での影響かと思いましたが、トイレで吐き出したグニャグニャの奇妙な物体を見て、尋常でないことを悟りました。  「……ということなんだが、心当たりはないかい?」  私は会社が終わるとすぐに、エス君に電話をかけました。  「やはりそうなったか、最近無理ばかりしているだろ?」  「まあ、営業は無理をするのが仕事みたいなもんだからね。特に僕の場合は特殊だから尚更さ。もしかしてストレスが原因なのかな?」  「そういうことになるな。君が吐き出したのは、胃の中で消化しきれなかった欲が練り合わさってできた"不満の塊”だよ。でも幸いだったな、商談中に不満なんて吐き出したら、その場で破談だもんな。もしこれからも食覚を使う気なら、もっとよく噛んで食べた方がいい。僕としてはこれ以上の使用はおすすめできないけどね」  「いや、まだ手放せるものじゃない……いや、もちろん君には返す。それにあの味からして噛むのは今の回数が限界だ。いっそ丸飲みした方が楽な気がするよ」  「いや、それだと文字通りに相手の要求を飲むだけになってしまう。そこはやはりコミュニケーションだよ、噛み砕くことが大事なんだ。ところで、店で君が色々と要求しただろ? あれ全部本気じゃなかったのか? 一つだけ気になったことがあったんだけど……」  「いや……全部冗談だよ、忙しいとこ悪かったね。もし都合が合えば、また飲みにでも行こうよ。今度は僕に奢らせてほしい、良い店があるんだ」  こうして私は、彼とまた合う約束をして電話を切りました。
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