ユメの世界

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 ドアを開けると、あれほど大量にあった山のような物資は完全に姿を消していた。まるで最初からなかったように。 「ルー先生」  ぼくは声をかける。もちろん、返事はない。 「ルー先生」  ルー先生は、倒れている。黒いものの上に。血だ。けれど、それももう、固まってしまっている。もちろん、死んでいるだろう。  そうだ、ぼくがやったんだから。  ぼくは、ルー先生が描いた作品に目を向ける。暗い玄関とリビング、そして、そこに立っているひとりの男。 それは、ぼくだ。  この絵は、ルー先生が地上にいたときの絵だ。そして、ぼくがルー先生の家に、物資の調達のために、押し入った時の絵だ。 この絵はぼくが見た景色そのものだった。  地上に物資を調達に行ったとき、ぼくはたまたま、ルー先生の家へと押し入った。  最初部屋には誰もおらず、ぼくは、ルー先生の家の中をぐるぐると見て回った。  二階の部屋には、たくさんの絵が飾ってあり、それがなかなかに上手で、目を奪われたものだ。その絵の中には、懐かしい、地上の風景を描いたものが数多く存在していた。  ぼくが見たことのない、美しい世界だった。  ルー先生は、それを知っている。その数々の絵に目を惹き付けられ、ぼくは長い間、仕事も忘れ、ぼーっと突っ立っていたのだ。  やがて、ルー先生の奥さんと子供が帰ってきた。そのふたりがドアを開ける音で、ぼくはふっと、我に返った。  ふたりの存在に気が付いたぼくは、躊躇せず、仕事をこなすために、ふたりを殺した。そしてルー先生の家の物資を漁った。  ルー先生は地上でも名の或る画家だったようで、家の中にはたくさんの食べ物が隠してあった。  これだけの量があれば、何日生きることができるだろうか。ぼくは胸をおどらせ、物資を回収していった。その時に、ルー先生が家に帰って来た。  ルー先生は暗い部屋のなかで、まっすぐに立っていた。そして、倒れているふたりと、ぼくの存在に気がついた。  ルー先生は台所にあった包丁をもってくると、ぼくに向かってゆっくりと歩みを進めてきた。  けれど、ぼくもここでやれるわけにはいかかった。これだけの物資を手に入れられることなど、なかなかないのだから。  殺すことは簡単だった。けれど、惜しかった。あの素晴らしい絵を描く人間を殺してしまうことが。それが、ぼくには、とても耐えられなかった。  だから、ぼくは、ルー先生の左足を狙って攻撃し、ルー先生の家から逃走した。  物資を抱え、列車にのり、ぼくは地下都市へと戻っていった。  その日、ぼくは英雄としてたたえられた。たくさんの物資を得ることができたからだ。  これが、ぼくの仕事だった。    ルー先生がこの地下都市にやってきたのは、いつのことだっただろうか。  そのころは、まだ東側のゲートを人間も通ることができて、ルー先生はおそらく、そこからやってきたはずだ。物資の調達と、このゲートの管理。それがぼくの仕事だった。  ルー先生が東のゲートを通った時、おそらく、ぼくに気が付いたのだろう。  道でたまたま出会った時に声をかけられ、ぜひ家に来てほしいと申し出を受けた。  ぼくは地下都市でも有名な物資調達員だったから、家に招待されることはたまにあった。だからぼくは疑うことなく、ルー先生の家に行った。  ぼくはルー先生の顔など覚えていなかった。もう数えきれないほどの人たちから物資を奪ってきているのだ。そんなこと、いちいち覚えてなどいられない。  ルー先生の家に招待され、そのとき、ルー先生は、あの、ぼくがルー先生の家に押し入った日の絵を、茶色と赤色の絵の具を使って、描いていた。 「もうすぐで完成するので」  そう声をかけられ、ぼくは、ルー先生が持っていた少ない物資を食べながらそれを待っていた。そして出来合上がったと声をかけられた瞬間に、襲われた。  ルー先生は包丁を隠しており、それをぼくへと力いっぱいふりかざした。  けれど、脚の悪いルー先生の一撃は届かず、ぼくはとっさに反撃し、ルー先生を殺してしまったのだ。  急な出来事で、ひどく驚いたが、ただ、ぼくは自分の身を守っただけだ。  けれど、ルー先生の部屋のなかをよく見ると、たくさんの絵が飾ってあった。その中には、ぼくが目を惹かれた様々な風景画もあった。  あの人だ。ぼくはその時に気がついた。  そのルー先生が、今、床に倒れている。  ルー先生が死んでからも、ルー先生は、たくさんの絵をぼくに描いてくれた。  その絵のすべては、ぼくがつくりだした、幻だったのだろうか。  ユメはいつからぼくたちの生活に入り込み、ぼくたちの生活を変えてしまったのだろうか。  もう物資は届かないだろう。ぼくたちはあの列車を動かすことすらできない。  地下都市で生きるための研究もやめてしまった。ぼくたちは、もう生きることはできない。  ルー先生のように。  部屋の外が次第に騒がしくなっていく。食べ物がないことに気がついた人たちが、中央委員会に何かを叫んでいるのだろう。  そんなことをして、何になるのか。  もうユメはいないっていうのに。  ぼくはいつものように、ルー先生の後ろに座り込む。  ルー先生がもう何かを描くことはない。  絵の中のルー先生が、じっと、ぼくの姿を見つめている。  やがて、地下都市の灯りが消えた。世界が闇に包まれる。  初めての経験だ。  ぼくはゆっくりと、横になる。  それもいいだろう。  そしてゆっくりと目を閉じる。  どうか、素敵な夢が見られますように。  その事だけを祈りながら。
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