第10話

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第10話

 次の朝、勇人は万年床から出ることができなかった。心配して声をかけてきた母親に、会社を休むから電話をかけてくれと頼んだ。母親は何かあったのかと執拗に質問してきたが、勇人は布団を被ったまま返事をしなかった。説明など、できようもない。 「……そうなんです。頭が痛むとかで。はい、今日だけお休みを頂ければ……、え、本人ですか? ……少々お待ち下さいませ」  リビングから漏れ聞こえてきていた母親の声は、不肖の息子を生んだ罪で消え入りそうに頼りなかった。勇人の和室の襖が開いて、子機を手にした母親が勇人の肩を揺する。 「課長さんよ。あなたに代わって下さいって。自分の口から説明なさい。もう子供じゃないんだから……」  枕元に子機が置かれ、母親は音もなく去っていった。勇人は布団から右手を出し子機を手にした。母親の手のぬくもりが残る子機を手にした途端、涙腺が緩みかけて鼻の奥がつんと痛んだ。それは懐かしさにも似た感情だった。普段は感情のない仏像のような目で勇人の仕事ぶりに文句をつける進藤だが、こんな状況になってみればその進藤にすら縋りたいような気分になっていたのだ。話してしまおうか、そう思いながら第一声を発しようとした時、電話の向こうの進藤が先に口を開いた。 『――ずいぶん弱ってるようだね』 「は……。あ、いえ。少し、頭痛が酷くて。すみません、今日は休ませて欲しいんですが」 『ふん。仮病か。まあいい。診断書をもらっておくように』  感情を孕まない口調だった。その口から出た『仮病』という言葉に驚いた勇人が、口を挟む間もなく進藤は続けた。 『少しは苦しめばいい。君の今までの所業を思えば、いけしゃあしゃあと社会生活を送っている方がおかしいんだ。痛めつけられた人間はその傷を忘れない。傷つけた方は、何事もなかったかのように明るい場所を歩くのかも知れないが』 「……いや。あの、それはどういう……」 『分からないとは言わせないよ。私はね、執念深い人間なんだ。君は全てを忘れて新たなステージに踏み出したんだろう。加害者だからな。けれど被害者は忘れない。覚えておけ。因果応報。君はこれからさらに苦しむことになる』 「そんな。……課長。あなたは。もしかして。もしかして、キング……」 『診断書をもらっておけ。日付は今日だ。提出がなければそれなりの懲罰の対象になる。では、お大事に』  電話は切れた。子機を握る手がぶるぶると震える。胃が握り潰され熱い液体が逆流した。目の前が真っ暗になって脳裏に映し出されるのは歪んだ誕生日ケーキ。凛の笑顔、目を剥く寺岡、血染めのサバイバルナイフ。そして鼻血と汗にまみれて、獣のような声を上げるサンドバックになった大橋。 『うおあーん……! ううー……あああー……! じくしょーう、うああああーん!』  笑って見ていた。二十数名の取り巻きが周囲を囲んで、泣き叫ぶ大橋を嬲るさまを勇人は笑って見ていた。汗と血と涙がリノリウムの床に飛んだ。そこで全裸で這いつくばる大橋は、勇人の強大な権力を誇示するために不可欠なスケープゴート。こんなことをせずに自分の地位が保てればどんなにか良かったが、それは勇人が王でい続けるためには必要な儀式だったのだ。  映像の中の大橋が別の顔に代わる。あれは大橋の前のアンタッチャブル。いたぶってもいたぶっても登校し続けた骨のあるアンタッチャブル。そう、嬲られたのは大橋だけではない。アンタッチャブルに指名されいたぶられた生徒は全部で何人いたのだろう。自分は一体何人の心を殺しその上に虚構の王国を築いていたのだろう。 「……――あああああああっ!」  勇人は叫んだけれど、襖は開かなかった。  自分を救う人はどこにもいない。次に獣のように咆哮しながら血まみれで嬲られるのは、間違いなく自分に違いない。  昼過ぎになってやっと万年床から這い出た勇人は、そのまま病院に向かった。  子機を握ったまま意識を失い、数時間寝たようだった。本当に割れるような頭痛で目を覚ましたが、家には痛み止めがなかった。薬が欲しかったし、何より診断書をもらいに行かなければと思ったのだ。  さんさんと降り注ぐ日差しの中バス停に立つと、目に映る平穏な世界と自身が置かれた場所のギャップに肌が粟立つようだった。団地前の公園には幼児を連れた主婦が談笑しているし、その手前の歩道には手押し車を押した老人が歩いている。いつもの風景。勇人が育ったこの地域は決して豊かな人々が住む場所ではない。母親しかいない家庭で、金銭的に不自由したからこそ勇人は権力を求めた。  自分には抜きん出た容姿があった。でもそれだけだと気付いてもいた。だから長所を最大限に活用し、自分の周りを人で埋めた。勇人は知っている。本当の自分はとても臆病で卑屈。それはそのまま、今現在の勇人の姿そのものであることを。  バスがやって来た。乗り込み後方の空いている席に腰を下ろす。昼間の時間帯であるのにバスは比較的混んでいた。勇人の後の席には派手な赤いワンピースを着た女が座っていて、漂ってきた香水の香りにふと凛を思い出した。気力が湧かず長く顔を見ていない。元気だろうか、と思うと同時に『四人目』という単語が頭を掠めた。そう、このままでは勇人はおろか、凛の命までもが危険にさらされてしまう。 『覚えておけ。因果応報。君はこれからさらに苦しむことになる』  進藤の声が脳内に蘇った。言葉通りに解釈するなら、進藤は勇人の過去を知っていることになる。勇人が王であったこと。そして、勇人の犠牲になり心を壊したり命を絶ったアンタッチャブルがいたことを。  king-boldは、進藤――?  バスが総合病院前に着く。ふらふらと平和な人々の間を抜け受付を済ませる。待合いの一番後ろに腰を降ろすと、突如甲高い若い男の声が耳に飛び込んできた。 「うっわ、またいじめられっ子が自殺しちまったみたいっすよ! 高二ですって。かっわいそーに、人生はその辺りから面白くなってくるのにねえ!」  あまりにタイムリーな単語に、降ろしたばかりの腰が浮き上がってしまった。心臓が倍の大きさになってこめかみに強い拍動を感じた。頭が割れそうに痛い。 「あらやだ本当ねえ。自殺なんかしたところで、いじめっ子の方はすぐに忘れて楽しい人生を謳歌するのに。死ぬぐらいの勇気があるならぶん殴るとか刺し殺すとか弁護士立てるとか、色々選択肢はあるでしょーにねえ」 「……ひとつ恐ろしいのが混ざってましたね。刺し殺しちゃダメでしょ。全く乱暴なんだから……。あ、そういやあの人どうなったんです? ファンだって言ってた作家さん。まだ出てきてないんですか? いくら旅行好きだからって、出版社や彼女さんに何にも言わずにどっか出掛けたりします? ケーサツ働けよなマジであの税金ドロボーが」 「うーん、もともと放浪癖がある人だったからねえ。さすがに一か月経っても行方知れずだっていうなら、警察も重い腰を上げるでしょう。しかしあの人達が働かないっていうのは本当に真実よね。知ってる? また起きたらしいのよ例のレイプ事件」  勇人は頭痛を振り払うべく首を左右に大きく振った。知っている声だった。喘ぐようにして声がする方に目を遣った。そこにいたのは壁際の長椅子に座るふたりの男女。  新聞を中空で大きく広げているので顔を窺うことはできない。赤いタイトスカートとダメージジーンズが、新聞の下で揃って足を組んでいる。勇人の知っている声なのに、顔を想像することができない。 「レイプ事件? ……あー女子高生が廃工場に連れ込まれて、乱暴された上に写真撮られるってアレですか。犯人が運営してるんじゃないかって言われてるサイトがありませんでしたっけ。そこ辿ってけばすぐ逮捕できるんじゃないんですか?」 「そこが警察の警察たる所以なのよー。被害を受けた女の子は画像撮られちゃってんだからさ。なかなか被害届出すわけにいかないわよね。あんたあのサイト見たことある?」 「いや、ないっすね」 「それがね、うまーいこと被害者の特定はできないようにしてあんの。レイプの臨場感はたっぷりなんだけど顔とか持ち物は一切写ってない。だったら黙っとけば自分がヤられたことは公にはならないじゃない。騒いで顔つきの全裸画像なんかアップされてみなさい。一瞬で拡散されてもう回収は不可能よ。だから被害届が出ないの。そして被害届がなければ警察は動かない。サイトには新たな画像がアップされてるってのにね」 「へー。まあいくらIPアドレス辿って行ったって、被害届ないんじゃ『合意の上の企画モノです』って言われちまったらそこまでですもんね。そのサイトなんつって検索したら出てきます? ……『秘密の花園R』? なんか、昔オヤジが隠し持ってたエロ本みたいなタイトルっすねえ……お、こりゃひでえ」  新聞の向こうで、男が言いながらポケットからスマホを取り出したようだった。恐らく話題に上ったサイトを検索して開けたのだろう。 「あー確かにこりゃ高校生ですねえ。水色チェックのスカートが写り込んじゃってますよ。これ、この辺の高校じゃないですっけ? おお暴力的。あのおっさんときたら。……ありゃりゃ、可愛いおっぱいがエライこっちゃ」 「こんなとこでんなもん閲覧すんじゃないわよ。勃起してまともに歩けなくなっても知らないわよ。じゃ、帰りましょっか。あー、今日も良く働いた」  がさがさ、と新聞が音をたて、勇人は反射的に視線を戻した。頭痛に耐える風を装って両手で額を覆う。 「世の中理不尽ばっかっすねえ。いじめられて自殺する子もいりゃ、レイプされて泣き寝入りしちまう子もいる。なのに加害者がのうのうと人生を楽しんでるのかと思うと、やり切れなくなっちまいますね」 「まあねえ。だから昔から『必殺仕事人』って職業があったわけで。現代にもいるんじゃない? 華麗に悪を闇に葬る、現代版『必殺仕事人』。絶対需要あるわよー」  ふたりの話し声が勇人のすぐ横をすり抜けていく。低い音をさせ、後方で自動ドアが開いた気配があった。 「『必殺仕事人』ってあれ職業なんですか? なんか分かんないすけど、でもいて欲しいですね。中村主水。悪が悪としてちゃんと裁かれる世界じゃなきゃ、一生懸命生きてる人間が報われませんもんね――」  もう一度低いモーター音がした。自動ドアが閉まった。勇人の耳に病院の待ち合いの喧騒が帰ってくる。慌てて後ろを振り返る。目に入るのは再び空いた自動ドアをくぐる、車イスの老人と付き添いの女性。立ち上がりその奥に目を遣ると、よく晴れた七月の日差しの中、タクシーの乗降場を越え歩いていくふたつの人影が目に入った。  その後ろ姿は陽炎に溶け込み揺れていた。赤いワンピースの長い髪の女と、派手なアロハシャツに細いジーンズを穿いた男。  あの声はオサダ前の喫茶店で聞いたのではなかったか。  甘い香水の残り香。男の最後の一言がいつまでも耳の中に残った。 『悪が悪としてちゃんと裁かれる世界じゃなきゃ、一生懸命生きてる人間が報われませんもんね――……』
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