第11話

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第11話

 それからは混沌の日々だった。  病院で症状を話すと、別の科に回され抑うつ状態と書かれた診断書を渡された。それを持って翌日会社に向かうと、にやにやとうすら寒い笑みを張り付けた進藤に迎えられた。提出した診断書を満足げに眺め、進藤は一言一言を区切るようにしてゆっくりと口を開く。 「因果応報だ。メンヘラひとり出来上がり。でもまだまだぬるいな。しばらく休んでいいよ。君も忙しいだろうから」 「え……。病休、ということでしょうか。期間は、どれぐらい……」 「さあ。それは君次第だな。プライベートで仕事を抱えているんじゃないか? なかなかキナ臭い内容らしいじゃないか。それが終わればいつ出勤してもらっても構わない。会社には、私の方からうまく伝えておくから」 「……あなたは、何か知っているんですかっ。僕が何をしたか、僕が何を強要されているか、あなたは、本当は何もかも知っていて……!」  思わず声を荒げた勇人に、進藤は笑った。ぶっと噴き出し、それから可笑しくてたまらないと言わんばかりに腹を抱えて爆笑しながら言うのだった。 「ああー……、そうだね、多少は知っているよ。君がクズで生きる資格のないド底辺の負け犬だってことはね。うっふっふ、それで今現在追い詰めに追い詰められて、気が狂ってしまいそうなほどに苦しんでいることも知っているよ。うふふふふふ、早く楽になったらどうだね、いひひひひ、こりゃ可笑しくてたまらん、誰が王だって言うんだろうね、罪滅ぼしの場がせっかく与えられたんだ、さあ、とっとと仕事をこなしに行きたまえ!」  万年床は自分の尿でじっとりと濡れていた。逃避すべく開いた凛のツイッターにそれを見つけた瞬間、勇人は失禁してしまったのだ。けれど自分の放尿に気付く余裕もなかった。凛が投稿した画像の中に映るのは、愛らしく飾り付けられた箱に眠る大ぶりのサバイバルナイフ。 『知らない人から届いた。……怖い。潤の行方不明と関係があるの? 怖い、誰か、助けて』  頭上高くから氷水を掛けられたかのように全身が凍り付いた。震える指で凛の書き込みを遡っていく。投稿は短期間に連続していた。 『誰かにつけられてる?怖い。コンビニから出られない。』 『家の前に煙草の吸い殻がたくさん落ちてた。誰かが見張ってるの?』 『変なDMが来た。私のほくろ、どうして知ってるの?意味不明。もしかしたら……』 『潤がいない。悲しい。私のことが嫌いになったのかな。やっぱり私みたいな女じゃ潤には釣り合わない。 #寺岡潤一』 『再び拡散希望。進展がありません。なんらかの情報をお持ちの方はDM下さい。 #寺岡潤一』  ――勇人は知っている。寺岡の所在を知っている。凛にはDMとサバイバルナイフが届いた。送り主はきっとking-bold。凛の身辺にking-boldが現れ始めたということだ。  DMの内容はどういったものだったのだろう。ほくろ、とはどういう意味なのか。疑問が溢れ出す。身じろぎをすると敷布団に染みた尿がぐじゅりと足の指の間を濡らした。それで自分の下半身がびしょ濡れだと気付いて声を上げると同時に、手の中でスマホが震えた。プッシュ通知……ツイッターの、DMがきたのだ。 「ああああっ。ああ、あははあああああっ」  どこかで誰かが叫んでいるのが分かった。出切ったはずの尿がまた下半身を温かく濡らした。 スマホを投げようと右手を振ったのに手に吸い付いて離れない。高音の悲鳴と共に肺から無限に埃の玉が溢れ続けている。その埃だまがスマホに吸い寄せられ勇人の右手はもっこりとしたひとつの球体になった。モクズガニみたいだ、と思うと今度は笑いが込み上げてくる。    ――気付けばもう放課後だった。夕日に染まる新館の視聴覚教室。王の宮殿に信者達が集う時間である。  三人掛けの長机を端に押しやり出来上がる空間がコロシアム。ショーが始まる。登場した獲物は巨大な豚。事前に皮を剥いて裸体にし自尊心を奪ってある。王座の脇を固める女達の嘲笑に似た悲鳴。このショーの責任者は高らかに豚に自慰を命じた。人だかりの真ん中で豚が泣き叫び許しを請うが、責任者は許さず奴隷の女を豚の目前に立たせた。この女は下着をつけていない。  観衆から「見せろ、見せろ」のシュプレヒコール。奴隷はアンタッチャブルに落ちることを恐れゆっくりとスカートの端を持ち上げる。豚の股間が膨らんでいく。別の奴隷が豚の手に怒張した陰茎を握らせる。二、三度上下に動かしてやればあっという間。短い声を上げ豚が射精に至る瞬間が、始まりのゴング。  後はやりたい放題。割っていない割りばしで舌と陰茎を挟まれ集団の真ん中でいたぶられる豚の名は大橋という。獣のような叫び声がよだれと共に口から溢れる。割りばしは肛門にも多数突き立てられている。凄惨な暴力に恐怖を覚えながらも、一段高い場所から勇人は笑みを消さずにその様子を見守る。  四つん這いになり咆哮する大橋。鼻血、汗、涙、精液。エスカレートしていく暴力。勇人は本当は怖かった。集団が作り出す狂気の熱が怖かった。このままでは死人が出てもおかしくないと知っていた。どうしてこんなことになってしまったのかと考えるうちに気付いた。信者達がおかしくなったのは、大橋の前のアンタッチャブルがあまりに我慢強かったせいではないか。  信者達は暴力の加減を見失ってしまった。最初は小突き回すぐらいの可愛らしいリンチだったのに。いつまでも我慢強く暴力に耐えていたあの男がタガを外した。背が低く気弱そうに見えて目に強い光を宿した男。  確か名前はニシノ。ニシノヒロ。だから悪いのはニシノなのだ。信者達に火をつけ大橋を追い詰め遺書を書かせ自殺に追い込んだ。その犯人は、勇人ではなくニシノというあのアンタッチャブルなのだ。 『精神不安。アンタッチャブル。サバイバルナイフ。瀧和夫を殺せ』  気付けば人垣の中心で這いつくばる大橋の顔が別人に代わっていた。ニシノだ。妙に意志の強そうな目を大きく見開いている。逆回しの動画のように重力を無視して起き上がる。ゆらり、と全裸のまま勇人に歩み寄る。 『殺したのは三人。四人目は誰だ。瀧か、荻野か、そして五人目は、お前』  来るな、と声に出す。ニシノの手には赤い粘液をまとったサバイバルナイフが握られていた。あれは凛の血だ、と思った。勇人が瀧を殺さなかったから、凛が死んで次は勇人の番。  ニシノがサバイバルナイフを振り上げる。猫のように跳躍したかと思うと勇人に飛び掛かってくる。刺される。叫び声を喉から押し出すと、その瞬間天井が割れて勇人は脱出に成功した。  夢だ。すべては夢。目覚めた、悪夢は終わったんだ!  起き上がろうとした時に部屋に雷鳴が轟いた。万年床が地響きに振動した。一気に奪われる視界、暗闇の中で響き渡るのは、king-boldの絶対的命令。 『――罪滅ぼしの場がせっかく与えられたんだ、さあ、とっとと仕事をこなしに行きたまえ!』  目覚めて、それが夢だったのだと気付いた。いつもの天井が視界に広がり、外から子供の声が聞こえてくるから今度こそきっと現実。勇人はひどく長い夢を見ていたのだった。  握りしめたままのスマホに目を遣ると、時間は十時三十二分とあった。そしてプッシュ通信の痕跡、着信もあったと表示されている。  日付を見ると丸一日が経過していた。期限はあと一日しかない。  すでに仕事に行ったのか、母親の気配はなかった。まだ湿る敷布団に自分が失禁したことを思い出す。あと一日。残された時間は今日一日。決断しなければならない。勇人はスマホの画面をタップする。  DMは三通来ていた。全てking-boldからだった。いきなり目に入った画像に勇人は息を飲んだ。それが暗闇で撮影されたらしい、女性の臀部だったからだ。 『これがその一部。』  その下にはそう添えられていた。真っ暗な中でフラッシュを焚いたように浮き上がる丸い尻。それはまるで熱湯でもかけられたかのように真っ赤に腫れ上がっていた。勇人は夢で見た大橋の肌を思い出す。張り手と執拗な蹴りで大橋の身体もこんな色に変色していた。これは暴力の痕なのだろうか。  その上にスクロールしていく。あとは文章だった。 『瀧和夫はレイプ魔。秘密の花園Rと検索しろ。多くの少女が犠牲になった。死に値する悪魔。罪悪感など起こりえない。息の根を止めるのだ。』 『贈り物を贈った。それを使い早急に行動に移れ。その手で罪を犯し罪を償え。悪魔を仕留め悪魔の血を浴び贖罪としろ。瀧和夫を殺せ。瀧和夫を殺すのだ。』  ――『秘密の花園R』  病院であのふたり組が口にしていたサイト名だった。勇人は検索サイトを立ち上げると、検索窓にその文言を打ち込んだ。すぐに見つかったそこは、漆黒の背景に同じサイズの画像が張り付けられた簡単なサイトだった。こういったサイトによくある広告は一切なく、トップ画面にただ画像が並ぶだけのそのサイトは、いわゆるエロサイトと呼ばれるものなのだろう。  けれど一般的なエロサイトとは、掲載されている画像の内容が明らかに違っていた。そこにあるのは、女性が拘束され暴行を受ける最中に撮られたと思われる画像。顔が映っているものは一枚もない。薄闇の中でフラッシュを焚かれ浮かび上がるのは、地面にあおむけに横たわり、片手のひらを革靴に踏みつけにされて、脱力する肉付きの薄い女体。次の画像には土に汚れ流血の跡まで残る白い内もも。  スクロールしていくと、明らかに別人と分かる肉体が、様々な体勢で蹂躙されている画像が続いた。こんがりと陽に焼け肉付きの良い女体は、ビニール紐で身体を開くようにして縛られていた。後ろから行為の最中と思われる細い背中には、土埃で乱れた髪が垂れていた。次はぽっちゃりとよく太った女体。土の地面を這って、必死の抵抗を見せる後姿を撮影した画像もある。ショートカットのその女性の首には首輪がつけられていて、長く延びた鎖は画面の手前で恐らく誰かの手に握られているに違いない。  加虐趣味は持ち合わせていない勇人だったがあまりに生々しいレイプの現場に、呼吸が浅くなり思わず片手が下半身に伸びた。次の画像を探してスクロールした親指が突如止まった。そこに知っている画像を見つけたためだ。  フラッシュを浴びた腫れ上がる赤い尻。四つん這いの体勢で突き上げられたその尻の下には、白くまっすぐな太ももが伸びている。目を引いたのはその太ももにあったほくろだった。さっきは腫れ上がった尻にばかり目がいって気付かなかった。大きな、痣にも近いサイズのほくろ。ぷるんとした強い弾力を想像させる美しい太ももに、こんな異物が張り付いていることに勇人はなぜか興奮を覚えた。真っ白ですんなりと長く、引き締まった筋肉の上に適度な脂肪のついたこの美しい太もも。こんな太ももの持ち主を勇人は知っている。あれを見たのは確か寺岡のSNSの中だ。そう、ビーチベットの上でオレンジの水着からこの特徴的な太ももを剥き出しにしていたのは、一体誰だったのか――。 「……やろう」  勇人は立ち上がった。やけにすっきりした気持ちだった。もう何年も目の前に張っていた、透明な膜がとうとう取れたのだと思った。生まれ変わるなら、今しかない。  シャワーを浴びるため自室を出る。リビングの古いテーブルの上には、大きな箱が載せられていた。白い無地の段ボール箱。宛先には勇人の名前が書かれている。  ガムテープを剥がし箱を開けると予想通りのものが収められていた。大振りのサバイバルナイフ。驚きはなかった。送り主の名前を確認する。そこにはこう記されていた。 『king-bolt』  勇人はシャワーを浴びて黒のジャージの上下に着替えた。リュックにはサバイバルナイフとスマホ。黒いキャップを被り、履き慣れたスニーカーに足を入れる。  バスに乗りオサダ前で降りた。あの喫茶店に腰を落ち着け、スマホで探した県中央銀行の支店に片っ端から電話をかけていく。財布を拾ってもらったからお礼がしたいと言うと、五件目の電話口に出た女性がとある支店の名を口にした。直接会いたいと言ったが、瀧は外回りが主な仕事らしくすぐには捕まらないとのことだった。終業の時間を聞き、電話を切った。  グーグルマップで支店の付近の地理を予習する。瀧が勤める支店は同じ市内でそう遠い場所ではなかった。バスで向かうこともできる。繁華街近くだから、人目が多いことだけは気になった。  でもそれは逆に、酔っ払い同士の喧嘩や通り魔に見せかけることもできるということだ。瀧が酒を好み繁華街をうろつくような人間なら、酔ったところを背後からぶすりと刺しそのまま逃走するということも可能なのではないだろうか。勇人は寺岡殺害の現場をこの目で見ている。その様子はあまりにあっけなかった。きっと勇人にもできる。あとは、寺岡という人間を見つけるだけだ。  もしかしたら昼時に銀行に帰るかも知れない。勇人は喫茶店を出ると瀧が勤める支店がある繁華街へと向かうため、再びオサダ前のバス停へと向かう。
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