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第12話
「とうとうやる気になったみたいねえ……」
ずずずっと音がして、メロンクリームソーダのグラスが空になった。女はストローから赤の唇を離しサングラスをずらすと、窓の外のその男の姿を確認した。バス停に立つ百瀬勇人の後ろ姿は、今まで見たことがないほどに自信に満ち溢れているように見える。
「長かったっすね。途中で気でも狂っちまうんじゃないかって心配しましたよ。まあ狂っても自業自得か。あ、バス来ますよ」
向かいに座る男がそう言って、女は通りの奥に視線を投げた。繁華街行きのバスがゆっくりと滑り込んでくる。喫茶店を出ると百瀬勇人を乗せたバスが発車するところだった。後方のタクシーを捕まえ、二人は乗り込む。車内で赤い唇が愉悦に歪んだ。
「さあ、仕上げよ。いくつもの人生を虐げてきた裸の王様に、しっかり代償を払ってもらわなくっちゃね」
瀧和夫の横顔が銀行の裏口から現れたのは八時過ぎだった。長時間待ち構えていた勇人の身体は、その瞬間冷水を浴びせられたかのように硬直した。硬直して、とっさに一歩を踏み出すことができなかった。この周辺の下見を重ねた結果、勇人はこの場ですぐに行動を起こそうと考えていたのである。
この銀行の裏口は、通りから入っていて人目につきにくい場所にあった。飲食店やビルの裏口ばかりが面した四つ角。防犯カメラはあるだろうが、今時どこにだってそれは設置されている。斜め前には身を隠すのにちょうど良い自動販売機も置かれていた。だから逆にここが決行に一番向いた場所なのではないかと考え、胸の前に抱いたリュックの中でサバイバルナイフの柄に手をかけていたのに――。
ちら、と瀧の視線がこちらを見たような気がした。蛇のような粘着を持った細い目だった。この男があのサイトの画像を撮影した強姦魔。分かるような気がした。勇人は目を逸らし、リュックの中の財布を探すようなふりをして自販機の前に立つ。
本当に小銭を出して投入口に落としていく。指先がどうしようもなく震えているのが分かった。不審に思われてしまう、とパニックになる背中が、通り過ぎていく瀧の気配を感じる。背後に感じる瀧の背は高かった。体重は勇人の半分ほどしかなさそうな細身だが、身長が高く喧嘩をして勝てる相手とは思えない。
振り返り、その姿をしっかりと視界に収める。片手にはビジネスバッグ。スーツ姿の瀧の背中がどんどん小さくなる。道端に停められたミニバンの横を過ぎ、もう十メートルも進めば光に溢れる繁華街の中心に飲み込まれてしまう。――今だ。今しかない。
勇人は走った。手の中の小銭が金属音と共に路上に散らばった。左手でリュックの口を掴み右手でサバイバルナイフの柄を探した。今しかない。勇人は声を張り上げた。
「瀧っ‼ ……瀧和夫、貴様よくも、よくも俺の凛をっ‼」
振り返った瀧の顔には見たことのある表情が浮かんでいた。寺岡も死の直前浮かべた驚愕。死ね、瀧。凛を虐げ、多くの少女を虐げてきたこの男に、この手で正義の鉄槌を振り下ろす時が来たのだ!
――一瞬、何が起きたのか分からなかった。気付けば勇人は地面にへばりつき盛大に咳き込んでいた。酸素が足りない。肺まで空気が入らない。
斜めに見上げたバンの向こうに瀧和夫がいた。スーツ姿の男がふたり、その脇を固めている。殺せたのか、失敗したのか、それすらも分からなかった。すっと瀧の姿が通りの灯の中に溶けて見えなくなった。えづくようにして咳き込みながら身を捩って、勇人はやっと瀧よりも恐れるべき人物が自分の頭元に立っていることにやっと気付く。それは女で、黄色いワンピースに身を包んでいる。
「……失敗、したわね」
女が言った。勇人は霞む目をこすりその声の主を見極めようとした。でも街灯を背にした女の表情は読めない。
「最初で最後のチャンスだったのに。失敗しちゃった。残念ね。あんたの短い人生も、ここまでってことかしら」
「――え、いや! そんな、待って下さい! もう一度機会を下さい! 今度こそ、今度こそ絶対殺しますから!」
king-boldは女だったのか。少しずつ整ってくる呼吸に肩を上下させながら、勇人は混乱した。またもやパニック状態だった。この目の前に佇む線の細い女が、あの狂気的で執拗なking-boldだというのだろうか。
「……うん。そうね。確かにあんたは代償を払わなくちゃならない。でも瀧を殺すチャンスは逃してしまった。もうちょっと違う解決方法があるわ。どう、聞きたい?」
女はしゃがみ込むと涙と鼻水にまみれた勇人の顔を覗き込んだ。ぼんやりと姿を捉えたその顔には、寸分の隙もない完璧なメイクが施されている。
「か、か、解決方法? 俺、いや僕、助かるんですか? だって瀧を殺さないと代わりに凛が殺されて、その後僕も殺すって、ツイッターのDMであなたが……!」
「やあだ、違うわよ」
ころころと笑って、女は勇人の肩に手をかけた。よっこらしょ、と声を掛けながらその身体を引っ張り起こす。起き上がって初めて勇人はもう一人の男がこちらを見ていることに気付いた。勇人の足元にいたその男は、ダメージジーンズに赤いTシャツを着た勇人と変わらない歳の青年だった。クリアファイルに挟まった書類のようなものを手にしている。
女は勇人の高さで目線を合わせ、気安い声音で微笑みを浮かべて言う。
「あたしはね、救世主よ。あんたを助けに来たの。まだ死にたくないんでしょ? 金さえ払うなら、あんたを助けてあげないこともないわ」
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