第13話

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第13話

 いつの間にかカレンダーはもう八月に突入していたらしい。勇人は真夏の日差しの中、家の前に駐車した四WDへと駆け寄る凛の姿を見つけて目を細めた。その四WDの前方には、引っ越し会社の中型トラックが停まっている。  真っ白なワンピースのフレアの裾を膨らませ、凛は四WDの助手席に乗り込む。運転席に座っているのは寺岡。笑顔で二言三言、言葉を交わしてからトラックの後に続き四WDは動き始める。 「……幸せそうね。東京にマンションを買ったそうよ。籍を入れて、お母さんも一緒に三人で暮らすんですって。これが最後だから、よーく目に焼き付けておきなさい」  三人が乗り込むには窮屈なスポーツカーの助手席から振り返り、そう言ったのは神谷美麗(かみやみれい)と名乗った女である。今日も派手な極彩色のシャツワンピースに身を包んでいる。南洋的な顔立ちに長いウエーブがかかった髪が年齢不詳なこの女は、あの銀行の裏の暗い路地で自らの職業を『探偵』だと名乗った。  「いけすかねえイケメン作家だと思ってましたけど、なんだかんだでいい男でしたね。彼女の痛みを分かち合って。こいつの協力がないと今回の件は成立しなかったんですから」  低いエンジン音を響かせ、車を発進させながら運転席でそう言うのは小宮山数馬(こみやまかずま)。探偵の助手をしているのだという。今日は派手なアロハシャツ姿のこの男が、瀧を襲う勇人を止めたのだと聞いた。あの時、ナイフはもう少しで瀧和夫の胸に突き刺さる寸前だったらしい。 「ま、あんたは運よくあたしたちに救われたわけだから。あとは借金返済のために身を粉にして元気いっぱい働きなさい。それが罪滅ぼしになるわ。良かったじゃない、人生リセットする機会があって」  前を向いたまま神谷美麗はそう言うと、手を伸ばして何かのスイッチを押した。途端に電子音がして車の屋根が開きそこに空が広がった。爽快だった。勇人は風を受けながら天を見上げ、口元を緩めた。  ――そう。勇人はこの二人に救われたのだ。大きく息をついて、あの銀行の裏手で美麗が語った真実を思い出す。  king-boldの正体は、勇人を驚かせて余りある人物だった。進藤でも目の前の女探偵でもない。king-boldを名乗り勇人を苦しめた犯人は、なんと凛であると美麗は言い放ったのだった。  停車したミニバンの陰でビルの壁にもたれてへたり込み、そんな馬鹿な、と勇人は反論した。何のために凛がそんなことをするのだ。理由がない。信じられないという勇人に、数馬が差し出したのは、地方紙を切り取り貼り付けた一枚の白い紙だった。 「ほらこれ。おまえも見たゴミ拾いの記事な。善良な一般人の皮を被った瀧が写ってる。で、同じ日のお悔み欄。よく見ろ。『西野比呂』、おまえがいじめ倒して引きこもりにしちまった男が載ってる」  西野比呂の漢字を、勇人は渡された記事で初めて知った。あの強く屈しなかったアンタッチャブル。年齢は勇人と同じ二十六歳とあった。喪主は父親。西野比呂は、小さな黒い枠の中で、文字となって本当に息絶えていた。  赤い唇が生き物のように動く。そこから漏れる言葉に、勇人は困惑するしかなかった。 「さてこの新聞を見た荻野凛さんは思いました。自分を蹂躙し破廉恥な画像を撮影しあまつさえそれを公開している瀧がのうのうと生きている。対して西野比呂は死んでしまった。あんたのせいでね。知ってる? 荻野さんと西野比呂は高校時代接点があったの。帰り道の荻野さんが廃工場でレイプされた現場に、西野比呂はいたっていうのよね」 「ど、どうして。なんで西野がそんな……」 「そりゃ、いじめられっ子に毎日毎日こてんぱんにされて、彼も色々辛かったんでしょうね。男手ひとつで育ててくれたお父さんに心配をかけまいと、一人になれる場所で気持ちを落ち着けてから帰宅したりしてたらしいわ。で、聞き慣れない物音にそっと覗くと恐ろしい強姦魔の生ライブ。被害者は同じクラスの女の子。その場で飛び出していくことはできなかったみたいだけど、彼ね、瀧の後をつけて名前や勤務先を割り出したの。で、荻野さんに言ったのね。『君に酷いことをした犯人を知っている。一緒に警察に行こう』って」  ――なんということだろう……!  勇人は強い眩暈を感じ路面に手をついた。アンタッチャブルとして、狩りの対象でしかなかった西野。そんな西野が凛を救おうとしたと言うのか。瀧の後をつけ正体を突き止めた勇敢な西野に、自分はなんという仕打ちをしてしまったのだろうか……!  腕を組み勇人を見下ろし、ハイヒールの踵で規則的にアスファルトを打ちながら美麗は続ける。 「けどね、荻野さんは西野の提案に従わなかった。荻野さんち、過去に町工場を潰してるのね。それが原因で両親が離婚して、お母さんとふたりでこの町に引っ越してきたの。父親が県銀でお金借りてて、当時融資担当をしてたのが瀧だったそうよ。荻野さん、暴行を受けた時には顔を隠していたから、犯人の素顔を見てないんですって。でも、西野に瀧の写真を見せられて、西野が犯人だとする男があの銀行員だって、すぐに分かったって言ってたわ。でも親が多額の借金をしている相手を告発するわけにはいかなかった。もちろん写真も撮られてるし、十代の女の子にはそれ以上どうしようもなかったんでしょうね。けど、傷ついた彼女のために心を砕いてくれた西野とは少しずつ打ち解けて、仲良くなっていったんですって」  その後は自己嫌悪に押しつぶされるしかなかった。凛は勇人を恨んでいた。心を壊し長く引きこもっていた西野を度々訪れ励ましていたらしいが、ある日突然西野が自殺しこの世を去ったことをあの地方紙で知り、計画を実行に移したのだという。  外見はすっかり変わってしまったけれど、自分の周りをうろついている男がかつての王だと凛は知っていた。そして自分のツイートをいいねしたアカウントの中にあった、見慣れないking-baldというアカウントが、勇人のものであると気付くのに時間はかからなかった。勇人には記憶にないが、酔っぱらってking-baldのまま凛のツイートの『いいね』をタップしてしまったことがあったのかも知れない。  そこで凛は一計を案じた。king-baldを模したking-boldというアカウントで勇人をフォローし機を窺った。わざと寺岡のSNSに華やかな投稿を繰り返し勇人の嫉妬をあおった。そして『殺しましょうか?』に『お願いします』の返信がついたその夜、計画を始動させたのである。 「……ま、そんな時にあたし達が雇われたのね。依頼された内容はあんたの追い込み。荻野さんはその後はノータッチよ。あんたを尾行して、king-boldって荻野さんの裏垢からDM送ってたのもあたし達。合意の上でにアカウント乗っ取りさせてもらってね。荻野さん、本気であんたを憎んでた。心の底からビビらせてくれって言われてた。まああんたはそれだけのことをしたわけだから」  凛の目的は勇人を苦しめることであったと聞かされ、なぜか勇人は大きな安堵に包まれたのだった。許された、と思った。なぜなら勇人はこの数週間本当に苦しんだ。だったら自分の罪は許されたのではないか。これで過去は水に流され新たな自分に生まれ変わることができるのではないか、と。  それを見透かすかのように、真っ赤な唇を突き出して美麗が勇人をねめつけた。汚いものを見下すような視線に、勇人に恐れが蘇る。 「勘違いすんじゃないわよ。あんたの罪はそう簡単には消えない。一体何人の明るい未来を踏みにじったと思ってんの? あんたはこの先も苦しむの。この五百万の借金に押しつぶされて。あんたが殺した西野くんのお姉さんの旦那さんである上司にいびられて。苦しんで苦しんで贖罪の人生を送るの。……数馬」  そこで言葉を切って、美麗は背後のアシスタントを振り返った。視線を受け、数馬はクリアファイルを片手に路上に転がったままのサバイバルナイフを拾い上げる。 「けどね、この五百万を返し終わった暁には、あんたは生まれ変わることができる。あたし達が証人よ。でももし逃げようなんて考えたら……」 「ブスッ!」  突如駆け寄った数馬が逆手に持ったナイフを振り上げた。――死ぬ。反射的に目を瞑り身を竦めた。目前に大量に吹き出す鮮血が見えた気がした。詰めた呼吸に指先の痺れを覚えて初めて、勇人は自分が死んでいないことに気付く。 「……ホントにヘタレなのね。刺してないわよ。でも支払いが滞ればすぐにもう一度あんたを追い込みに行くわ。それともう一つ、あんたが荻野さんの周りにまた現れた時、あたし達はあんたを追い詰める。それも念書にあったわね。肝に銘じるのよ」  目を開けると勇人を見下ろす美麗は笑っていた。なぜか優しい笑顔。その隣で数馬が勇人にサインさせた書類をつまみ上げひらひらと振る。こちらはおどけたような表情。ナイフはジーンズの尻ポケットに刺さっている。あのナイフはひょっとして、と勇人は自分が振りかざした凶器の真実にそこでやっと気付く。  美麗が勇人に片手を差し出す。少しためらってからそれを握った勇人を、よっこらしょ、と引っ張って立たせてから、女探偵はその背中を軽く叩きながらこう言った。 「瀧和夫の方はさっき警察に連行されていったわ。あいつもちゃんと裁かれる。あんたも償いなさい。方法は労働をして金を返すこと。難しいことじゃない。数年もすれば年季は明ける。その後は、誰に恥じることなく明るい道を歩んでいきなさい――……」
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