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第2話
『殺しましょうか?』
二日酔いであることは疑いようがなかった。百瀬勇人は何度目かのスヌーズに降参して目を開けた。手の中のスマホを見るとツイッターのDM《ダイレクトメッセージ》がきている。プッシュ通知にいつものフレーズ、『殺しましょうか?』
「頼んでねえよ……」
スマホを枕元に放り出しもう一度目を瞑る。あれがきているということは、昨夜またつぶやいてしまったということか。頭痛も酷い。飲み過ぎないよう、酒はその日の分だけをコンビニで買って帰ると決めていたのに、昨夜は冷蔵庫に六缶セットのビールが入っていたのだ。母親の気遣いを勇人は呪った。おせっかい。どうして俺の邪魔ばかりするんだ。
もう起きなければならない時間であることは分かっている。つい最近就職を決めた会社は始業が八時半。道のりはバスで三十分。布団越しに見える学習机の上の置き時計の針が示すのは、八時十分。入社一週間で遅刻か。
こみ上げる吐き気を飲み込んで布団を出た。シャワーを浴びる時間はない。四畳半の和室の隅の押入れを開けて、突っ張り棒にかかったワイシャツを引っ張り出す。糊が効き過ぎて紙のような肌触りのシャツ。つい最近までぶらぶらしていた息子の就職を祝う母心が、この肌触りに表れている。
ネクタイを結ぼうとするけれど、うまくいかない。指が震えるのだ。どうにか形にして、母親がボタンの位置をずらしてくれたにもかかわらず、全体的にどうしようもなくきついスーツに身体を押し込む。昨夜投げ出したままの薄っぺらなビジネスバックを手にし、襖を開けてからふと気付いた。
スマホを忘れるところだった。万年床を踏み越えて、枕元に投げ出されたそれを手にすると習慣でスリープを解除する。画面にはプッシュ通知。DMがきているとそこにはある。目に入るのはいつものフレーズ。
『殺しましょうか?』
「……頼んでねえよ」
吐き捨てて、勇人はポケットにスマホを滑り込ませた。後で自分のツイートを確認しなければ。何をつぶやいたのかまったく思い出せない。
襖を閉めて誰もいないリビングを抜ける。住み慣れた団地の前にバス停はある。二十分のバスには間に合うはずだ。そこまで考えてから、勇人は一度履いた革靴を脱ぎ洗面所に向かった。
二十分のバスなら荻野凜が乗り合わせるかも知れない。顔を洗った。ついでにドライヤーを手にし、つむじの後ろから温風を当て髪を整える。
梅雨明けの爽やかな朝日に顔をしかめながら、勇人はバス停を目指して古びた団地の敷地を足早に急ぐ。
八時二十分のバスにはやはり凛が乗ってきた。バスの前方で吊り革に掴まっていた勇人は、ちらりと視線を投げて凛が後方の座席に座るのを見届けた。凛はすぐに文庫本を開いて目を落とし、勇人の方を見ようともしない。
昔は目立たない少女だった。勇人の母校には近隣校には珍しいフェンシング部があり、そこで凛は勉強とフェンシングに打ち込む高校生活を送った。共にそこそこの成績を残したらしいが、それで学校内で注目されるというわけでもなかった。同じクラスになったこともあったが、勇人にはその頃の凛の記憶はほとんどない。
それが今ではどうだ。地元の国立大に進んだ凛は、大手企業に就職を決めた。地方の一企業であるにもかかわらず、全国でCMを展開している有名企業にである。
そこで総合職として働く凛は、さなぎを破った蝶のごとく大いなる変貌を遂げた。シミひとつない、陶器のような肌には品のいいメイクを施され、栗色の髪はつややかで常にふんわりと肩の辺りで巻かれている。元よりスタイルの良い身体に自信を漲らせたその姿は、若手女優と並んでも引けを取らないオーラすらも感じさせた。
今日は胸元にフリルがあしらわれた薄ピンクのシャツに、淡いグレーのスーツ姿である。膝上丈のスカートで、パンプスはキャメルだった。フェンシングで鍛えられた引き締まったふくらはぎと、その上に伸びる長い太ももや上向きの丸いヒップライン。どんな男も、その目を引く曲線美に目を奪われないはずがない。
あの時、俺の女にしておけば。
凛を見かける度に、勇人は心の中でそう呟く。高校時代、勇人は王だった。あの頃なら凛は勇人の申し出を断らなかったはずなのに。
横目でもう一度凛を見遣る。けれどその端正な顔は、単行本に吸い寄せられ勇人の方を向くことはなかった。
学校というのは厳然とした階級社会で出来上がっている。王を頂点とし、幹部、取り巻き、平民と見事なピラミッド社会になっている。そのピラミッドの頂点にいたのが勇人だ。勇人は高校時代、誰よりも崇拝される王だった。
そもそも勇人は、顔が良いのである。勇人の顔の造りは家出した父親に瓜二つらしく、母親は事あるごとに「中身も似なきゃいいんだけどね」と言った。その父親そっくりの愛らしい顔が、周囲の人間の心を掴んで離さなかった。勇人はモテた。あまりのモテぶりに男子の嫉妬を買うこともあったが、口の達者な女子の集団に敵う男子などいようはずもない。
中学生になると、他校から勇人見たさに女子が集まるほどになった。勇人の周りには常に女子が渦巻いていたから、男子達も勇人を可愛がった方が得だということに気づいたらしく、いじめられることもなくなった。相変わらず背が低かった勇人は『王子』と呼ばれ持ち上げられた。それは高校に入るとより熱を増す。勇人は『王子』から本当の『王』へと変貌を遂げたのである。
勇人が通ると一般の生徒は道を開けた。取り巻きと特に気に入りの幹部を引き連れた王の一行。一番後方を勇人はゆっくりと歩く。歩くだけで羨望の眼差しが降り注いだ。近づいてくるのは、自分の美貌に絶対の自信がある女子生徒だけ。勇人は生まれながらに恵まれている自分を自覚していた。
――そうは言ってもただ顔が良いというだけで王の座は手に入らない。勇人は勇人なりに努力をした。
自分の周りに無秩序に押し寄せる信者を整理し、階級別に分けたのである。幹部、取り巻き、平民、そして数名の『奴隷』。階級は流動的で、頻繁に昇格と降格が繰り返された。昨日まで幹部だった人間が奴隷にまで落ちるような悲劇もあった。
幹部には性を含んだ甘い蜜を用意した。奴隷は幹部や取り巻きの格好の玩具になるから、勇人に気に入られるようとみんな必死になった。勇人を祀るピラミッドはそうして強固なものとなり、一生続くものだと思っていたのに。
「次は、『オサダ』前。お降りの方は停止ボタンにてお知らせ下さい」
アナウンスに目を上げた。ゆっくりとバスが停車して、勇人は急いで後方の凛を探した。数名のスーツに混ざって通路をこちらに歩いてくる。タイミングを見計らい、あくびの真似事をしながら身体を折り曲げると……。
「……すみません」
耳元で鈴を振るような凛の声がした。成功だ。振り返ると甘い香りを残して凛がバスを降りていく。
バスが動き出す。勇人は尻に残った弾けるような弾力を堪能した。凛の太もも。あのスカートの中の白い太もも。昔なら直接手で触れることもできたはずだ。今はこんな風にしてしか触ることのできない、勇人が何より触りたくて仕方のないもの。
降車するバス停まではふた区間。昨夜のツイートを確認しなければと思いつつ、勇人は凛の残した余韻を噛み締め想像に耽った。
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