第4話

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第4話

 会社には結局遅刻をしてしまい、勇人は課長に叱責を受ける羽目になった。従業員二十六名の小さな食品関連の会社。勇人の仕事はルート営業という名の配送員だ。  課長は進藤(しんどう)という名の四十がらみの仏像のような目をした男である。この男は周囲には温厚で通っているにもかかわらず、勇人にのみ事あるごとに文句をつけてくる。個人的な恨みでもあるのかと苦々しく思っている進藤に叱責の理由を与えてしまったことを後悔しながら、勇人はジャケットを脱ぐと社名入りの作業服を羽織った。  先週まで先輩について配送先を回っていた。今日からひとりで荷物を積み込み配送に出なければならない。勇人が運ぶのは蒲鉾。地味に重量があり、冷蔵車内での荷物の積み下ろしが腰にくる重労働だ。  無難に一日の仕事をこなし、六時ちょうどに退社しバスで帰路につく。オサダ前では凛は乗らなかった。窓から見上げれば二十階建ての社屋が構え、その横には広大な工場が広がっている。  世界的ボイラーメーカーであるオサダを、凛が志望にしていたことはずいぶん前から知っていた。ツイッターという便利なツールが、空虚な大学時代を送った勇人と輝く凛を繋ぎ続けていたからである。  高校卒業を前にして一気に容色と権威を失った勇人は、地元の三流大学に進学すると同時に家に引きこもりがちになった。自宅の万年床で、することと言えばかつての同級生たちのSNSの追跡だった。  新生活を始めた同級生達は、頻繁にSNSを更新していた。アカウント名も、本名やあだ名から近いものだったから、検索すれば簡単に十数人を特定することが出来た。半分以上の者が都会の大学や専門学校に進学しており、希望に満ちた日常を切り取った投稿は、さながらドラマの主人公のように輝いていた。万年床で酒を飲みながら、勇人はそれらの投稿に毒づく日々を送った。どうにか単位を落とさない程度に大学に通ったが、サークルやコンパなどには無縁の日々で友人はひとりもできなかった。空虚な日々を送る勇人の心を、華やかな変貌で奪ったのが荻野凛だったのである。  コンビニに寄り、自宅に帰ると母親はもう出かけていた。スウェットに着替え自室の万年床でビールを開ける。流し込みながらいつも通りツイッターを開けた。滅多につぶやかない本垢から凛の最新ツイートを確認するが、昼の弁当の画像を最後に新しいツイートはなかった。  この本垢には鍵付きのリストを作っており、そこから覗きにいくから凛には勇人のアカウントは分からない。勇人が凛のツイートを読んでいることも気付かない。姑息な方法ではあるが、素直にフォローしてもしブロックでもされたらと思うと、この方法をとるしかなかったのだ。     今夜も残業なのだろう。彩りの良い三色そぼろに安心して、勇人は自分のプロフィールアイコンをタップする。そこに表示されたもうひとつのアイコンをタップすると、その先にはもうひとりの勇人の世界が広がっている。  『king-bald』、それがアカウント。アイコン画像は金色の重厚な王冠。これを見ると勇人の指は思考よりも早く動く。文字が溢れ出してくる。溜め込んだ思いを吐き出すのがking-baldという場所。勇人が持つもうひとつのツイッターアカウント、いわゆる裏垢である。 『今日はグレーのスーツにピンクのシャツ。太ももに触れた。香水を以前のものに戻したらしい。明日も遅刻するか。実際に触れる機会は朝のバス以外にはありえない。』  フリック入力で一気に打ち込む。明日も遅刻。書いた途端にそのアイデアに心が震えた。二十分のバスに乗り、今朝凛が座っていた座席にも座りたかった。一日経過したぐらいなら、あの太ももの気配が残っているような気がしたのだ。 『こちらが後から乗り込むのであれば接近することができるのに。同じバス停まで歩くか。不自然?そのもう一つ先のバス停から乗る?』  それならば自然に凛に近づくことができる。自分のアイデアにうっとりしながらも、勇人は昨夜の自分のツイートを探した。確認しなければ。あの謎のDMがまた来たということは、きっと昨夜はやり過ぎてしまったに違いない。  親指のスクロールですぐに見つけたそれは、思った通りの惨状だった。昨夜の勇人はかなり荒れていたらしい。 『一度も社会に出ていないボンクラ。映画評だ?お前にモノの良し悪しを語る資格はねえ』 『ゴルフが笑わせる。シングル?草野球でもしてろ』 『シャンパンもワインも雑魚の飲みもんじゃねえ泥水でも飲んどけ』 『クズが女抱いてんじゃねえよそれ俺のだからかえせりんはおれの』 『しねしねてらおかしねじこでしねとびおりろじごくにおとすおれがおまえにめいじる』 『かくごしろおまえきょうからアンタッチャブル』  ぞっとした。固有名詞が出ている。勇人は急いでいくつかのツイートを削除した。けれどすべては消さなかった。それをするのは負けを認めたことになるような気がしたのだ。あの男。ネット上でしか知らない、『寺岡潤一(てらおかじゅんいち)』というあの男に。  ビールを一気に飲み干す。買ってきたコンビニの袋からポテトチップスの袋を取り出し勢いに任せ開ける。妙に破れて欠片が布団に飛び散る。それを集めて口に入れながら、片手で勇人はまた寺岡の私生活をまさぐっていた。SNSを通じて自分の華やかな日常を公開する寺岡は、美しい恋人の存在も隠そうとはしない。 『新作も出たことだし、凛と夏の旅行を相談。海外、あえてのハワイもアリかな?去年のセブは快晴。伊豆にしようと言う凛……。』  昨夜の投稿だ。添付された画像の中で微笑んでいるのは、ビーチベッドの上で雑誌を片手にした凛。上半身はパーカーを着て隠れているけれど、オレンジのビキニから突き出た太ももがあらわになっている。  この画像は去年のセブ島旅行の時に撮られたものだ。去年の時点で勇人は画像を保存し、折りに触れて眺めてきた。凛の太ももはフェンシングの影響か、特筆すべき造形美を誇っている。膝までが長く、引き締まった筋肉をぷるんとした脂肪が覆っていて、鶏手羽を食べるようにこの太ももにむしゃぶりつきたいと勇人は常々考えていた。それを再び寺岡の投稿に見せつけられ、昨夜の勇人の嫉妬は燃え上がったのだった。寺岡はこの太ももに触ったのだろうか。凛の身体を不特定多数にさらす権利を、寺岡は持っているというのだろうか。  また胸元に吐き気に似た怒りが込み上げてきて、勇人は凛の投稿に戻った。そぼろ弁当の画像がもう一度見たかった。今朝凛が持っていたトートバックの中に入っていたはずのそぼろ弁当。けれど凛の直近の投稿には違う料理の画像が掲載されている。勇人は思わず左手に掴んだポテトチップスを握り潰した。 『出版祝も兼ねて、潤のバースデー。昨日作っておいたローストビーフ、意外にいい出来♪ケーキは一緒にデコったらなんかゆがんじゃった。プレゼント喜んでくれるかな?三十路突入、おめでとう!』  ちくしょう、ちくしょう。何度も呟きながら勇人は破片になったポテトチップを口に押し込んだ。画像には緑と赤が周りに飾られたローストビーフ、サーモンピンクがのったサラダ、細々と色んな色のブロックが盛り付けられたクラッカー、太い瓶のシャンパン、素人臭いケーキ、そしてその料理の前でリボンのステッカーがついた紙袋を掲げ馬鹿みたいに笑う寺岡潤一。 「死ね死ね死ね。死ね死ね死ね。死ね死ね死ね。死ね死ね死ね」  油まみれの手でふすまを開け台所へ向かう。手にしたのは一升瓶。万年床で料理用の日本酒をあおりながらking-baldは猛然と思いの丈をぶちまける。スマホの画面が油で滑っても、フリック入力は止まらない。 『ふざけんなりんに料理させて物を買わせる?ありえねえ死ねこのクソ乞食がなにが出版だまともに働け』 『からだ目当てのうえに物乞いまではじめたか食いかたがきたねえんだよおっさんとっととしねよ』 『王がめいれいするみんながおまえをころすおれのめいれいは絶対かくごしろかくごしろかくご』 『アンタッチャブルあしたからぢごくぢごくぢこくかくごかくごかくご』  一升瓶が軽くなっていた。寺岡のツイートには凛の笑顔。背景は寺岡の自室。プレゼントは夏用のキャスケット。それを被っておどけた顔をする寺岡。  交互に連発していたふたりの投稿がぴたりと止まった。勇人の全身が嫉妬の炎に燃え上がった。その時スマホが震えた。DMがきたのだ。そこにはあるのはたったひと言。 『殺しましょうか?』  ――ああ、殺してくれ。  勇人は空になった一升瓶を投げ出した。学習机にぶつかるごん、という音を聞いた。目が回った。もう知るか、と思った。  俺が命令しても誰も聞かない。誰かがあいつを殺してくれるなら、頼まない理由なんてあるはずがない。
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