第7話

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第7話

 それから数日は何事もなかったかのように過ぎていった。勇人は遅刻しないように仕事に向かい、六時まで蒲鉾を配って自宅に戻った。真面目に働いたから進藤に叱責を受けることもなかった。用心して、酒には口をつけなかった。  居ても立ってもいられなくなったある夜、帰宅して家で簡単に腹を塞いでから、勇人はスマホを片手に再び家を出た。もう一度バスに乗り、込み合う車内の片隅に立ちツイッターを開く。凛のアカウントには寺岡を探す悲痛な叫びが溢れている。 『どなたかご存知の方は』『締め切りも直近に控えているのに』『潤が仕事を投げ出すはずがない』『警察に家出人捜索願を提出しました』  最後のツイートに勇人はスクロールする指を止めた。家出人捜索願……警察が動き出した、ということだろうか。  オサダ前でバスを降りる。街中にあるにもかかわらず広大な工場を抱えるオサダの周りには、従業員達を当て込んだ飲食店街が形成されている。オサダ正門前の喫茶店に腰を据えた。大きな窓からは残業を終えぱらぱらと帰路につくスーツ姿や作業服達がよく見える。今までは寺岡が馬鹿でかい四WDで迎えに来ていたこともあったようだが、今後そんなことが起こりえないことは勇人が一番よく知っている。ここからなら、凛の姿を一目見ることができるに違いない。  スマホの時計は八時過ぎだった。昭和の時代からここで営業している喫茶店は、時間帯のせいもあってか客の気配がまばらだった。その時だ。どういった偶然か、隣のボックスのカップルらしき男女が「寺岡潤一」という名を口にしているのが聞こえてきたのである。 「新作も良かったわよ。ハラハラドキドキの展開。次は直木賞あたり獲っちゃうんじゃない? あんた読んだ? なんなら貸すけど」 「いやー、俺活字アレルギーなんで。寺岡潤一ってなんかチャラめのカッコした作家の兄ちゃんっすよね? ああいうすかしたインテリ野郎嫌いなんっすよ。頭いいわ顔はいいわ金持ってるわって何なんすかね。どーせもてるんでしょうよ。くっだんねえ」 「うわーひがむわねえ! 気持ち良いぐらいにひがむわねあんた! 自らを振り返り努力することもなく持てる者を羨むあさましき男。あーあ、そりゃモテるわけないわ……」  ほっといてくださいよ! と男の方が声を荒げた。カップルか、と思ったがそういうわけではなさそうだ。甘い香水の香りが漂ってくる。女上司と部下といったところだろうか。個室感を売りにしている喫茶店だから衝立で姿は見えないが、一瞬勇人は蓮っ葉な物言いの女上司に強い憤りを覚えた。ひがみという言葉が胸に突き刺さった。そんなことは知っている、と心の中で呟くより早く、女は畳みかけるようにして部下を尚やり玉に挙げる。 「金なし知恵なし意気地なし。あげくモンチッチな顔でひがみ根性丸出しなんて、あんた逆に人生舐めてんじゃないの? そんな体たらくで食い繋いでいけるほど世の中甘くないのよ? せめて本の一冊ぐらい読みなさい。じゃなきゃあたしにもっとかしずいて崇め奉りなさいよ。あんたの生殺与奪権握ってんのはあたしなんですからね!」 「生殺与奪権ってなんなんすかそれ! あの兄ちゃんが書いた本読んだくらいで人生好転するんなら世話ありませんよ! 俺の不幸は悪魔のような雇用主に拉致された日に始まったんだ。いつか起こすぞ下克上。誰がモンチッチだこの年増っ」 「年増ですってええ!?」  やかましい二人組に肩をすくめ、コーヒーを口に含むと窓の外に数人の女性の姿が見えた。スーツの若い女性達。手を振ったり会釈をしたりして三々五々に帰路に着く。その中のひとりに……凛がいる。  慌てて勇人は席を立った。ほとんど衝動だった。その姿を見るだけで良かったはずなのに、実際に目にすると後をついていきたいと思った。もう夜だから、きっとこっそり後をつければ気付かれないに違いない。レジへ向かおうとした、その時。  手の中のスマホが震えた。無意識のままに目を落とす。画面にはプッシュ通知。ツイッターのDM……差出人は、king-bold。  メッセージの始まりは不吉な一言。勇人は息を飲む。そこに書かれていたのは。 『さあ、あなたの番です。』
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