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第8話
『あなたの望みを叶えました。次はあなたの番です。』
勇人は手の中のスマホを握りしめた。部屋着で万年床に横たわったまま、もう学習机の上の時計は正午を指している。
勇人の仕事は曜日が関係ないから、今日は平日であったけれど公休だった。どうしてこんなことになってしまったのか。ショックから昨夜も酒には手を付けなかったのに酷い頭痛が勇人を苛む。
『あなたの望みは叶えました。次はあなたの番です。』
手の中のスマホには、king-boldからのDMが表示されている。短いメッセージの下には添付された画質の荒い画像。
これはおそらく、新聞記事の中のニュース写真だ。快晴の海岸。浜辺には色とりどりのゴミが打ち上げられている。それを軍手で拾うジャージ姿の男性達。よくある清掃ボランティアの様子を撮影した一枚である。
ピントが合っているのは右前方で腰に手を当て伸びをしている男性。長く屈んで痛んだ腰を伸ばしているようだった。『けんぎん』と書かれた緑のハチマキをしているから、お堅い銀行員なのだと想像がつく。この男性の名は、『瀧和夫』というらしい。
『緑のハチマキをした男。瀧和夫といいます。方法は任せます。彼を殺して下さい。』
それがking-boldが昨夜送ってきたDMだ。喫茶店でこのDMを開いて、勇人はたっぷり五分は固まった。理解するのに時間がかかった。その間に、窓の向こうの凛の姿は消えていて、勇人は窓際の席に座り直すとking-boldに返信を打った。
『私に殺人を犯せというんですか?どうして私がそんなことをしなければならないのですか?』
あまりの理不尽に指先が震え、フリック入力に何度か失敗した。焦りの狭間でking-boldの真意がじんわりと勇人を染めていく。頭に浮かんだその文言が、灰色の吹き出しの中から決定的なその意図をあらわにする。
『交換殺人です。こちらは寺岡潤一を殺した。次はあなたの番です。瀧和夫を殺して下さい。』
勇人は抵抗した。意味が分からなかった。交換殺人とは、両者の合意があって初めて実行に移されるべきものであるはずだ。こんな後出しジャンケンが成立するわけがない。
『あなたが勝手にやったことじゃないですか。私はあなたに寺岡を殺してくれなんて頼んでない』
『お願いします、と返信がありました。こちらは依頼と受け取りました。だから遂行に至ったまでです。』
『あなたが殺しましょうか、ときくからだ。何度も何度もきいてきたじゃないか。大体あの時僕は酒に酔ってた。そんなことで殺人の依頼とうけとるなんて』
『心神喪失を主張なさるのですね。けれどあなたは自分の発信に責任を持つべきです。既に寺岡潤一は死んでいる。殺したのは、あなたです。』
読み直しても悪寒が走る。殺したのはあなたです、その一文が勇人の心臓にゆっくりと圧をかける。万年床に転がる喉の奥に、酸の味が広がった。
『動画はご覧になりましたね。寺岡潤一は死にました。完全犯罪です。次はあなたの番。』
『悪いが断る。俺は寺岡を殺してくれなんてたのんでない。あんたが勝手にやったことだ。どうしておれが殺人なんかしなきゃいけないんだ』
『あなたは確かに殺人を依頼をしました。お願いします、の返信が証拠です。こちらはそれに基づいて殺人を遂行した。あなたが殺したのです。次はあなたが実行するのです。聞きなさい。王の命令は、絶対。』
強い文体。冷汗が流れる。king-boldが投げつけるのは、勇人が以前虚空に向けて投げた言葉だった。
『誰も崇めないあなたはもう王じゃない。凋落し奴隷と同じ。臭くて汚い最下層民。覚悟を決めるのです。王の命令は絶対なのだから。』
『瀧和夫を殺せ。絶対的な王が命令する。』
翌朝目が覚めるとバスの時間ギリギリだった。勇人は跳ね起きると身支度を整え、転がるようにしてバス停まで走った。七時五十分のバスは高校生でいっぱいで、若い熱気にむせ返るようだった。勇人は額の汗をシャツの肩で拭いながらバスに乗り込んだ。水色のチェックの制服に取り囲まれるようにして前方の吊り革に掴まると、ポケットからスマホを取り出す。
凛のツイートを確認したかった。そろそろ今日の弁当の画像が投稿されている頃なのではないかと思ったのだ。それが見たかった。それとも今朝ももうこの世にいない寺岡を探して、悲鳴にも近いツイートを繰り返しているのだろうか。
スマホの画面には、やはりプッシュ通知が来ていた。ツイッターのDM。メッセージの冒頭文が目に入る。
『覚悟しろ。』とあった。勇人は息を飲んだ。どんどん断定的になっていく文面。こわごわ開いた本文は、勇人の心臓を撃ち抜くほどの威力があった。
『奴隷が王の命令を無視する気か?身分を弁えるんだな。寺岡潤一の恋人の荻野凛。お前が瀧和夫を殺さないなら、荻野凛の命はない。』
血液がすべて足元に落ちて思考が止める。その瞬間にやってくる新たなDM。指が勝手に開いて文字が躍り出る。吊り革を握る左の脇に、一気に汗のシミが広がっていく。
『百瀬勇人。お前はすでに三人の人間を殺している。四人目は瀧和夫か荻野凛か、選ぶ権利を与えてやろうと言っているんだ。さあ、どうする。瀧を殺して荻野を救うか、手をこまねいて荻野を見殺しにするか。』
そんな、そんな馬鹿な。どうして俺の名を知っている? 俺が三人の人間を殺した? 四人目を選べ? 凛か、瀧か、殺すか、見殺しにするかって、そんな、そんな馬鹿な……!
その瞬間、灰色の吹き出しがもうひとつ増える。続けざまのDM。脳にえぐり込んでくるその文言が下半身の力を奪う。勇人は目の前に座る青年のダメージジーンズの膝に崩れ落ちた。
『お前は今日からアンタッチャブル。逃げられると思うなよ。さあ、瀧を殺せ。』
会社には余裕をもって到着した。眩暈は去り、勇人はデスクで今日の配送計画に視線だけ落として考えていた。頭の中を、整理しなければならない。
確かに勇人には、間接的にではあるが人を殺してしまったという自覚がある。人数はふたり。高校生のアンタッチャブルと寺岡潤一である。
しかし両方自ら手を下したわけではない。それどころか、あのアンタッチャブル――確か名前は大橋といったか――に関しては、名指しで「臭い」と言っただけ。殺人はおろか、いじめにすら関与していない。
大橋は勇人の隣のクラスの百キロを超える巨漢だった。いつも汗をかいていて、それを教室にまき散らしながら歩くから元から煙たがられていた。アンタッチャブルとして指名するには最適の人間だったのだ。
元から異質だった人間を、一言批判しただけ。実際大橋はいつも汗臭かった。確か前任のアンタッチャブルが急に不登校になって、信者達が結束を失いかけていた時期だった。いつもなら不登校のアンタッチャブルが出たらすぐ次の指名ができるよう選考しておくのだが、あの時はなかなか骨のあるアンタッチャブルが頑張っていたので選考を怠っていたのだ。
それが失敗の原因だった。急遽アンタッチャブルに指名した大橋は、巨漢にも関わらず精神的にとても脆かった。サンドバックとして最適の身体を持っていたにもかかわらず、たった一ヵ月もしないうちに学校の屋上から飛び降りて命を絶ってしまったのである。
まさか死ぬとは、と信者達は騒然となった。それはもちろん勇人も同じだった。驚愕した。遺書には勇人の名も書かれていたという。けれど教師に話を聞かれた時にも勇人は言い続けた。
「俺は何もしていない。臭かったから正直にそう言ったことはある。でもあいつの身体には、指一本触れたこともないんだ」
それは事実だった。責任を問われたのはいじめの実行犯である奴隷階級の生徒達。勇人は無罪放免になったが、信者達は熱を失った。王国は勇人の卒業を待つことなく解散という結果を迎えてしまうこととなる。
だからking-boldが勇人を殺人者であるとするのは分からなくもない。けれど違和感もある。DMにあった『お前はすでに三人殺している』という一行である。
これは明らかに間違っている。間接的に勇人が殺したのはふたり。アンタッチャブルの大橋と寺岡だ。三人目はどうやったって思い当たらない。
king-boldの勘違いだろうか。大体どうしてking-boldは勇人が大橋を死に追いやったことを知っているのだ。勇人の名前も知っていた。もしかすると、king-boldとは勇人の身近な人間なのだろうか――。
「百瀬君、いつまでそこで油を売っているつもりだ」
鋭い声に目を上げた。気付けば勇人のデスクの前に仁王立ちになっている者がいた。進藤である。勇人は配送計画を挟んだファイルを閉じる。慌てて立ち上がる。
「すみません。少し体調が。すぐに出ます」
進藤の仏像のように細い目は、勇人を見る時感情を孕まない。入社の挨拶の時からそうだった。歓迎も排斥もしない目で勇人を貫くように見つめている。居心地の悪さに、尻尾を巻くようにして勇人は事務所を出て倉庫に向かう。
とにかく今は仕事をしよう。することがあれば気が紛れる。脳内にひしめく数々の議題を追い出したかった。king-boldからのDM。瀧和夫という男。寺岡を探す凛のツイート。そして四人目はどちらにすればいいのか。
四人目はどちらにすればいいのか――?
勇人は自分に湧き上がる疑問に大きくかぶりを振った。また血液が足元へと集中する。ひんやりとする脳。目の前に薄闇が降りる。
今度こそ自分は手を下し人を殺すのか。セブの海岸で肢体あらわに微笑む凛の姿が目の前に浮かび、勇人は積み上がる蒲鉾の真ん中に倒れこみ意識を失う。
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