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知らないくせに
一昨日から少女はマスクを三つ必要とした。二つでは足りなくなってしまったせいだ。薬局で右用のマスクと左用のマスクをレジへ持っていくのはひどい辱めを受けているような気持ちだった。今度からは早めにネットで買おうと心に誓う。
朝起きて鏡を見るのは憂鬱だった。ぼさぼさの髪よりも腫れぼったい目よりも耳の近くまで大きく裂けて笑っている口が苛立たしい。毎朝自分に嘲笑われているような気持ちになる。
始まりは左上の親知らずだった。鬱陶しいなあと思っているうちに右上にも生えてきた。それから毎日のように親知らずが歯茎の端、上下左右にポコポコ姿を現し始めた。一日に三本増えた日はさすがにちょっと泣いた。よだれが止まらなくなったから。
第三大臼歯変異症候群、通称「親知られ」。思春期特有のこの症状のことは保険の授業で知ってはいた。しかしこれほどつらいとは思わなかった。
何より歯磨きのために早起きしなければいけないのがつらかった。いつか抜け落ちてしまうといっても歯磨きはちゃんとしておかなければ口臭の原因になる。ただでさえ口は開きっぱなしなのだ。少女は現在上下左右合わせて39本の親知らずを有していた。
「たいへんねえ。まあもう少しの辛抱よ」
後から起き出してきて少女の歯磨き中にメイクを終えて洗面所を出ていく母に強い反感を覚えた。知らないくせに!叫びたかったが口の端から終始垂れ流される歯磨き粉と唾液の混じったものが顎をつたっていくのを鏡の中で監視するのに忙しかった。
その変化は突然起きた。行ってきますも言わず不機嫌に玄関を飛び出した少女は外の寒さに身震いした。マフラーを巻き直そうとすると指が何か硬いものに当たった。朝の日差しに掲げるまでもなくそれは歯だった。
寒さと乾燥で肌の張り詰める朝。少女は頬の引っ張りがいつのまにかなくなっていることに気がついて洗面台へかけ戻った。
朝のホームルームの後、前の席の男の子が振り返った。少女が密かに憧れていた彼は、彼女に笑いかけて「何かいいことあった?」と尋ねた。
「別に。ちょっと歯が抜けただけ」
「そう?でもあんたって、そんな風に笑うんだ」
「変?」
「いや?それより数学の宿題やった?見せてくれん」
身を寄せてくる彼に少女は、私の気持ちも知らないくせに、と思いながら笑みを隠せなかった。
「仕方ないなあ」
「わりい、あとでジュースおごる!」
その冬、少女は素敵な笑顔を手に入れた。素敵な彼と一緒に。
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