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永遠に一緒
お墓参りにいこう、と石平さんがいった。それはまるで「遊園地にいこう」とか「スキーにいこう」とかいうような口調だったので、お墓参りにはどんな楽しいことがあったっけ、と考えなければならなかった。
「いつ?」
「今から」
じっと見つめると彼はいつものように眉を下げ困った顔で笑う。だから私は何か勘違いしているのかと思ってとりあえず歯磨き粉を吐き出した。前に会ったとき、私たちは初めての喧嘩をした。私が拾ってきた猫に触れ、彼が「諦めなよ」と言って手を貸してくれなかったから。その前に会ったときは、彼が拾ってきた傷ついた小鳥を二人で介抱し空へかえしてあげたのに。あのときのことを謝ろうと思っているのだろうか。口を冷水で五回ゆすぐ間にそこまで考える。それにしても。
「おはかまえり?」
「おはかまいり」
でも、とホテルを見回す。ベッドの上には今日着るための服が並べてある。都会の女に負けないよう、アウトレットで買ったばかりの大人っぽいセットアップが耳を澄ましている。二ヶ月ぶりだった。私たちが会うのは。石平さんは忙しい。近鉄特急で五十分、新幹線で二時間十分。そう聞くとそれほどの距離ではなさそうだが私にとっては大きな出費だし、なにより東京まで出てきてお墓参りに行くなんて。
そうは思ったが、結局私は石平さんを信じることにした。今まで彼に従ってハズレだったことはなかったから。「なんでもいいよ」と言ってしまう私を、石平さんは怒ったりしない。なんでもよくないけれどなんでもいいよと言ってしまう私を、彼はいつでも楽しませてくれる。そこへ着いた瞬間、私はここへ来たかったんだと思う。それを食べた瞬間、私はこれを食べたかったんだと思う。だから今回もきっと、私の気づいていない何かがお墓参りにはあるんだと思うことにした。
石平さんは私の勤め先の親会社で働いている。去年まではよく私の支社にも出張で顔を出していたが、今は昇進してそういうこともなくなった。だから私たちは今年、あまり会うことができていない。私たちはお互いに飢えていた。まるで不倫みたいな話だが、彼に妻子はない。はずだ。私たちは付き合っている。はず。
運転する彼の左肩にもたれ、左手を握っているのが好きだ。彼の手は大きくて冷たい。心があったかいからさ、と困ったような顔で冗談を言う石平さん。私が落とした資料を彼が拾ってくれた時のこと。あの日から、私たちの関係は始まった。
誰にも相談しなかった。だって、遊ばれてるだけだって言われるのがわかっていたから。本社の人間がこんな田舎支社の女に本気になるわけないって。私たちが私たちを本物だと思っていればそれでよかった。他のものを私たちの間に入れたくなかった。嘉柳さん、と彼が握った手を揺すった。
「海が見えるよ」
顔を上げると山の隙間が青く光っているのが見えた。そのきらめきは山の稜線にそって逆三角に広がり宇宙まで繋がっていた。宇宙の果てまで海ならさ、どんないきものがいると思う?鯨がプランクトンを飲み込むみたいに、鯨を飲み込んでいる魚とか。星を丸呑みするタコとか。イカは宇宙人の偵察機なんだって。海しか偵察できないじゃん。昔は海に文明があったんだよ。水棲人間?あ、この前貸した第四間氷期読んでくれたんだ。そんな話が楽しくて、私たちは気がつけば海の見える高台の、大きな墓地に着いていた。
石平さんは手桶に水を汲み、お墓の間の坂を上っていく。私はその背中を押しながら歩く。いい大人になってお墓参りとか来てるのに高校生のカップルみたいな気分になる。やっぱりどこへ行っても彼といればハズレはひかない。
不意に石平さんの背中が軽くなり、私の手を離れていった。そのとき、指先に痺れるような不安が走ったことを、私は覚えている。
「こんにちは」
「おかえりなさい。よくきたね」
彼は腰の曲がったおじいさんのもとへ歩み寄ると、柄杓でその頭に水をぶっかけた。
「ちょっと!」
私は駆け寄って彼の袖をひいた。困ったような笑顔が振り返る。
「驚いた?」
「驚いたじゃなくて」
おそるおそる彼の陰から覗き見ると、そこにあったのは苔むしたお墓だった。
「え?さっきのおじいさんは?」
「目の前にいるよ」
どういうこと、と尋ねる前に、私は瞬きを繰り返した。いつの間にか周りには何人もの老人がいて、中には子供や、私と同い年くらいの女の人もいて、みんな私たちを見ていた。晴天の真昼間だからだろうか、それは怖いとかいう感じではなくて、田舎の親戚が正月に集まっているみたいな、そんな空気感が漂っていた。あのちびっこが婚約者をつれてきよったで。みたいな。それで、私は思わずみなさんに会釈して、今日はお洒落してきてよかったと思った。けれどそれは間違いなく幽霊で。そして彼の態度から考えると、これは当たり前の光景なのだろう。
「じゃあみなさん、本家で」
全てのお墓掃除が終わる頃には、私も彼のご先祖さんたちに煮付けの作り方を習うくらいには仲良くなっていた。やっぱり海の近くに暮らす人たちには敵わない。子供時代の彼の話も聞けてよかった。けれど私たちの子供について踏み込んでくるのはまだ早くないか。
「さきに言ってよ」と車の中で軽く肩をぶつける。
「嘉柳さんならすぐに打ち解けられると思ってね。それにしてもほんとになんでも受け入れちゃうんだなあ」
あなたがいるからだよ。胸の内で呟いて、教えてあげなかった。
「うん、やっぱり君しか考えられない」
彼は満足そうに笑うと、コートのポケットから指輪の箱を取り出して開いてみせた。
「僕と結婚してください」
私は反射でこたえる前に息をひとつ飲み込んで、その言葉を言われた時に聞こうと思っていたことを、訊かなくてもてもいいことを、尋ねた。
「どうして私だったの?」
「それを今日、話そうと思ってたんだ」
そして彼は、僕には寿命がわかるんだ、と困った顔で言った。
「寿命がわかる?」
「そう。うちの家系は昔、時見と呼ばれる職を生業としていたんだ。それは未来を見通す仕事だった。そのことと関係があるのか、みんな霊感が強くてね、さっきみたいなのは日常なんだ。父に言わせれば、未来を見ることと過去を見ることはほとんど同じなんだって。そんな家で育ったから、僕にとっては生も死もそれほど変わらない。けれどやっぱり、生と死にも立つ瀬というのはあってね。僕は、大事な人をあちら側に待たせて生きるのも、こちら側に残して死ぬのも嫌だった。嘉柳さんは僕と同じ日、同じ時間に生まれたって話をしたことがあるよね」
私は、そんな話に運命を感じていたころのことを、凍りつつある頭で思い出し頷いた。石平さんが息を吸い込む。まるで呪いを吐き出す直前のように。
「そして君は、僕と同じ日、同じ時間に死ぬ。だから僕は嘉柳さんのことが好き」
生まれてからふたりはずっと同じ世界にいた。そして死んでからもずっと、二人は一緒?彼が頷き、私は「は?」と言った。
あの日から、私はできる限り彼のことを頭から追い出して生きてきた。娘の手をひいて、もう片方の手には買い物袋を提げていた。だから、信号を無視した車を避けようとして、青い鯨のようなワンボックスカーが歩道へ乗り上げてきたとき、本当に久しぶりに、私は彼のことを思い出したのだった。そしてその一瞬、ようやく彼の孤独を考えることができた。ずっと一緒にいたいと思う人たちが、いつ自分のそばを離れていくのかわかっているということは、どれほど辛いことだろう。それでも、私は娘の手を離さない。ブレーキの音が後ろから聞こえてからもずっと、永遠に。
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