13人が本棚に入れています
本棚に追加
ワイパーに笑われた
余裕のない朝は損得勘定に支配される。やめてくれ、と思った。朝の通勤渋滞で煙草に火をつけながら。
本線に合流してくる車を入れまいと車間距離を詰めるのも、列の先の先まで行って無理やり割り込もうとするのも。
わかる。すごくわかるし、上手く生きていくには必要なことなのだとも思う。いつまでも自分の番を待っているだけでは、望むような場所には決して辿り着けない。
みんな遅刻しそうなのかもしれない。焦っているのかもしれない。それぞれの事情があることはわかる。
けれど僕は同じようにそれを続けていくことができそうにないと思ってしまう時がある。
特に嫌なのが、幅員減少の標識が出ていてみんなが片側に大人しく並んでいる隣をどんどん抜かして列の前の方で割り込む車と、信号が青に変わり切る前にスタートダッシュ右折をかます車だ。そういうのを見ると僕はひどく羨ましく思ってしまい、傷つき、自分が嫌になるのだった。
遠くの山は霧に紛れて消えてしまった。不機嫌な曇り空はみんなの苛立ちを燃やした灰かもしれない。鉛色の煙霧に切り取られた世界。その外に、同じような世界があると思うと少し吐きそうになる。小さな世界から出たいともがいて必死に辿り着いたその先が、出てきたところと同じでしかなかったら。そうやって何かが向こうからやってくるのを待っているだけだから、僕は今日も遅刻するのかもしれない。期待は裏切られ、何もできない僕が続いていく。
他人の運転にいちいち傷つくのは僕の気が小さいから。前に入ろうとする車があれば入れてあげるけど、そうすることで後ろの人の順番がひとつ下がるということを考えると罪悪感を覚える。何も気にせず目的地へと向かっていくみんなよりも、こんな当たり前のことで悲しくなる僕の方が自分勝手な運転をしているのかも。周りにいるのはもう二度と会うことはない人々なのに。
そんなことないか。僕が毎朝決まった時間に家を出るのと同じように、みんなも決まった時間にこの国道へと集まってくるのだとすれば、むしろ僕らは毎日会っているのかもしれない。毎朝同じ時間を過ごしながら、決して交わることのない僕ら。少しだけ悲しくなるけれど、それは寂しいとは違う。ただ、毎日同じものを見ている人たちに優しくできない自分が悲しいという、独りよがりな感情。僕はだいたい、自分のことしか考えていない。
通勤時間を一時間も延ばして同棲を始めた日、僕と彼女は映画を見に行って、帰りに初めて一緒に晩ご飯の買い物をした。僕は大学生の時に一人暮らしをしていたから何を買えばいいのかはだいたいわかっていた。けれど彼女は初めて家族の元を離れた。じっくりと時間をかけて買い物をしたかったはずだ。何がいるのかもわからないのだから。それなのに僕は、親切ぶってあれこれと助言をし、さっさと買い物を終わらせて家に帰りたいと考えていた。重たい買い物袋を僕が持ち、彼女は「ありがとう」と言って隣の百均でお碗やマグカップを買ってくるからと背を向けた。僕は車の中で煙草を二本吸ってから、なかなか戻ってこない彼女を探しにいった。
レジで見つけた彼女は笑顔で手を振って「遅くなってごめんね」と駆け寄ってきた。僕がまたその手に持ったビニールを引き受けると、彼女は突然泣き出した。どうしたの、と訊くが首を振るばかり。車に乗り込んでゆっくり話を聞くと、一緒にマグカップ選びたかったの、と消え入るような声で言った。
「よんでくれたらよかったのに」
「怒ってると思って。買い物遅かったから」
「怒ってないよ」
「ずっと前から、一緒にマグカップ選ぶの楽しみにしてたの」
僕はそんなこと、すっかり忘れていた。どれだけ謝ったとしても、その大切な時間は永遠に失われてしまったのだった。僕は、できる限り他人に優しくありたい。独りよがりになりたくないのに、気づかないうちにこうやって大切な人を傷つけてしまう。一緒にマグカップを選ぶような日常がどれだけ大切なことなのかを忘れてしまう。
煙草混じりの溜息が顔の前で停滞し、僕に小言を言っているような気がしてくる。国道から見渡せる世界で彼女は今日も一日を過ごす。僕はあの霧の向こう側へ働きにいく。そのことが僕には怖かった。馬鹿みたいだけれど、怖かった。メンヘラかよ、なんて自分に言ってみるけれど、あの霧の向こう側がいつまでもここに繋がっているのか不安だったのだ。僕が去ったあとも、この霧の中の町はずっとここにあり続けてくれるのだろうか。宇宙に浮かぶ星みたいに、霧で隔てられた世界がそれぞれ動き回っているのなら、一度離れ離れになってしまうともうここへは戻ってこられないかもしれない。
彼女がいるから、僕はまたここへ戻ってくる。けれど、もし僕がひとりぼっちなら、僕はいったいどこにいればいいのだろう。どこへ行きたいのだろう。わからないまま、みんなこの渋滞に並んでいるのだと思うと、それはとてもすごいことだと思った。みんな、自分がどこへ行くのかわかっているのだろうか。それとも、そんなこと考えなくても、まっすぐ生きていけるのだろうか。僕は顔の周りに浮かぶ煙のように、この霧の中へ消えてしまいそうな不安を覚える。ほらまた大切な道標を忘れかけた。申し訳なさで胃がキリキリする。それでも一緒にいたいと甘える僕を、いつまでも許して欲しい。降り出した雨を、数えきれない流れ星に見立ててそんなことを願う。笑われたっていいさ、まだ朝だもの。
最初のコメントを投稿しよう!