13人が本棚に入れています
本棚に追加
願いの一冊
中華製スマホのOLEDが生徒たちの顔にプロジェクションマッピングを施している。昼休みの食堂でそんな簡易仮装をして動画を取り合う彼らを見ている光景にも慣れた。2020年代に入ってから学校が電子図書館への移行を推進し、ついに今年の春、修治が勤めているこの学校の図書室も食堂広場と合併させられた。
生徒たちが紙の本に触れる機会が減ったことで、司書である彼の役割は大きくなったはずなのだが、本を選んで欲しいと頼みにくる生徒などほとんどいなかった。わざわざ騒がしい食堂兼電子図書館でタブレットによる読書に勤しむ生徒はいない。
教育機関が時代によって柔軟にその姿を変えることに異論はない。これからの社会を担う子どもたちにはこれからの社会に合った教育が必要だろう。しかし修治が学生だった頃、静かな図書室で胸踊る物語に夢中になったり参考図書の傍らで居眠りしたあの時間はかけがえのないものだった。過去に対しての美化はもちろんあるが、そのような空間を子どもたちから奪ってしまうことに修治は反対だった。けれど時代は移り変わっていく。良くも悪くも、子どもたちはそれに適応していかなければならない。
電子書籍が悪いわけではない。紙の本のようにかさばらないし、何より電子書籍には絶版がない。うまく利用すれば本との出会いの幅は広がるだろう。しかし現状、私たちはその機会をうまく使えているとは言えない。紙の本には紙の本の良さがあった。図書室での偶然の出会いもドラマチックであり、そういった記憶が本をより大切なものに変えることも彼は知っていた。
修治の紙本への執着は、彼の父親の職業の影響でもあった。彼の父は印刷会社を営んでおり、紙はいつも修治にとって身近なものだった。2000年代からはネット印刷の隆盛があり、父の会社は不振に喘いだ。現在は新しい機械を導入し、相手によって内容を変えることのできるワントゥーワンのバリアブル印刷を基軸としてなんとか会社を立て直そうとしているが、情報伝達だけを見れば印刷物がインターネットの速度に叶うはずはない。特別感という曖昧なものに頼っている現状だが、その価値感もどこまで保つのかわからない。せめて新しい機械の償却が終わるまで、とは父も彼も強く願っているが、目まぐるしく変わる世の中を見ていると虚しい希望に感じる。より便利に、合理的になっていく社会の中で、印刷会社は苦境に立たされていた。
文が食堂の入り口で彼に向け会釈して入ってきた。修治は笑みを返し、今日は何を薦めようかとわくわくした。文と書いて「かざり」と読むこの少女が週に一度本を選びにやってくることが彼の最近の楽しみだった。
「他人の顔、読みました。奥さんの気持ちになるとなんともいえなくて辛かった。でも面白かったです」
「難しくなかった?」
「ちょっと難しいとこもあったけど、今の技術レベルでこの小説が書かれたらどんな話になっただろうとか考えるのが楽しかったです」
「他人の顔」は高分子化学研究所の事故で顔に大火傷を負ってしまったことで妻やまわりとの関係がギクシャクしている主人公が、他人の顔の精巧なマスクを作り、それを被って妻を誘惑するという話だった。それから修治と文は現代技術版の「他人の顔」についてしばらく話し合った。
夏休みの読書感想文で選んだ三島由紀夫の「金閣寺」がどうにも読みづらいと文が相談にきたときから二人の読書会は始まった。
同じ三島由紀夫の「命売ります」を教えたことで文はしばらく三島由紀夫に夢中になった。今の感性で捉えられた物語の話を聞くのは楽しかった。
最近は「第四間氷期」から安部公房ブームが始まっている。そのせいで彼女が進路を変え理系に進んだことに修治は少し罪悪感を覚えていた。
現在の理系の就職先はほとんどが中国の下請けのような仕事であった。しかし文にはその殻を破り日本の科学を担う存在になってほしい。
バリバリの文系である自分がそんなことを思うのは無責任のようだが、小説には人生を変えるきっかけとなり、未来を創り出す力があると彼はまだ信じていた。
「次のオススメはなんですか?」
文の笑顔にのせられて修治が個人用に残してもらった小さな本棚から取り出したのはテッド・チャンの「息吹」だった。
「2010年代最後に出た傑作だと思う。今の時代に考えるべき大切なことがたくさん書いてあるよ」
ありがとうございます、と手を振って食堂を出ていく小さな背中を見送ると、修治は悪い癖だと思いながらまたぼんやりと物思いに耽った。
大学生の頃に読んだ「インテルの製品開発を支えるSFプロトタイピング」という本が印象的だった。
インテルでは開発しているものが製品として市場に並ぶのが十年後などということはざらにあるので、十年以上先の社会を予測した製品開発が求められている。
そのためインテル社内にはフューチャリストという未来予測専門の人たちがいて、彼らはSF小説を書いたりすることで未来の世界を具体的にイメージし、そのフィードバックを製品開発に活かしている。
そして修治が特に印象に残っているのは、どれだけ技術が発展しようが、その物語の中心は人間だという意見だった。結局人間が成長しなければ、どんな技術もユートピアは築けない。そんなことを考えてほしくて今回彼女に「息吹」を貸したのだった。
ほとんどの車にドライブレコーダーが標準装備され、街中のいたるところに監視カメラが設置されている。隣の市の学校でも生徒に録音された音源で先生が解雇され大々的なニュースになった。
人々の権利は守られ、曖昧な記憶は修正される。それはいいことなのかもしれない。しかしその裏にあったかもしれない人情や愛などという曖昧なものは、今後ますます薄れていくのだろう。
どちらが良い社会なのか、現時点では修治にはなんとも言えなかった。そしてなんとも言えない閉塞感は、確かにあった。迷子の子供に声をかけることをためらう自分がいた。「息吹」に収録されている短編「偽りのない事実、偽りのない気持ち」について文と話し合いたかった。
修治は今、このまま学校で司書を続けるのか、父の会社を継ぐのか迷っていた。どちらにも、それほど良い未来が待っているとは思えなかった。それでも地元の繋がりや人情で未だに仕事をもらっている父の会社を継いだほうが、息苦しさを感じず自分らしく生きていけるような気がしていた。
「あの、先生」
顔を上げると、目の前に見覚えのある男の子が立っていた。たしか、文と付き合っている良平だったか。修治は慌てて笑みをつくり、何か探しものかな、と尋ねた。
「文から本を選んでもらえるって聞いたんですけど、何か朗読向きの本ってないですか?」
「朗読向きかあ」
「今度ボランティアで幼稚園へ行くんですけど、そこで読み聞かせをやることになってて」
良平は先生を目指していると、以前文から聞いた記憶が蘇った。先生を目指しているなら、ぜひとも良い小説をたくさん読んでほしい。なんて思う自分を、修治は心の内で笑った。本の虫である彼は、やはり未来を素敵な世界へ導くのは本であると信じ切っている。それを今の子どもたちに押し付けるのはいかがなものか。
本棚を振り返り、修治は良平から表情を隠した。それでも、本を選んでほしいと言われるとわくわくする自分を抑えられない。だからきっと自分は、まだしばらくここで本を選んでいくのだろう。修治の手が本を選び出す。その一冊に、未来への願いを込めて。
最初のコメントを投稿しよう!