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煙のような日常
煙草を吸うのをやめようと思った。煙草を吸っているとどうしても胸式呼吸になった。いつもの立体駐車場でエンジンをかけたままほんの少しだけパワーウィンドを下げると最後のつもりで火をつけた。青白い煙は窓の隙間から出ていくことなく僕の目の前で渦巻いていた。砂漠の夜明けみたいな色だなと思った。砂漠の夜明けを見たことはなかった。昔どこかでそんな文章を読んだ。それを思い出しただけだった。借り物の言葉で僕は生きていた。
月曜日の朝に胃痙攣をおこしてから何を食べてもすぐに吐いた。その状態が三日続いたので仕事中に病院へ行った。医者は触診しただけで「季節的なものですね」といって薬を三日分だすと僕を追い返した。彼の助言に従って僕は意識して腹式呼吸をしていた。そうやって横隔膜を動かすことが重要らしかった。
車のデジタル時計を見てあと三十分は休んでもいいだろうと判断した。外回りへいく営業の人間には明確な休憩時間は用意されていないが社内の人間もこの時間は昼休憩なので問題なかった。
煙草を灰皿に押し付けてシートを倒した。煙草なんて吸わなくてもよかった。けれどなんとなく名残惜しくて灰皿から立ち上る煙を眺めていた。煙が消えたので目を閉じた。
車のシートで眠るのはいつの間にか苦でなくなっていた。少し前までは夜行バスに乗っても目的地にたどり着くまで一睡もできないことが多かった。今では目を閉じればすぐに眠れた。こうやって毎日のようにサボタージュしているからだった。
人の気配を感じ浅い眠りから覚めると、僕の車の方へ近づいてくる老人がいた。彼は足を引きずるように車の前を通り過ぎ、なぜか後ろの方へ回っていった。車は長方形の立体駐車場の角、ショッピングモールの入口から一番遠いところに停めてあったので人が近づいてくることはあまりなかった。僕は伸びをするふりをして肘でドアロックを押し下げた。車の背後には何もないはずだった。いつもバックで停めるその後ろに何があるのかは考えたことがなかった。
しばらく耳を澄ませていたが老人が何をしているのか見当もつかなかった。何も聞こえなかった。時計を見ると車を停めてから一時間が経過していた。暖房が煩わしかったのでエンジンを切った。あと五分だけと思いながらもう一度浅いまどろみに落ちた。
ふと目を開けるとさっきとは違う老人がまたこちらへ歩いてきていた。エンジンをかけ直して時計を見ると十五分経っていた。そろそろ行こうかなと思いながら老人が車の後方へ消えていくのを視界の端で追っていた。会社用のスマートフォンに連絡がきていないか確認しているとまた別の老人が歩いてきた。その前にやってきた老人たちはどこへいったのだろうかと首をひねったが姿は見えなかった。
三人目の老人が気になったので一度エンジンを切ってトイレを済ませておくことにした。車から降りて後ろを確認したが今来たばかりの老人の姿さえ見当たらなかった。車の背後に回って伸びをした。何か不思議な夢を見ていたような気がした。
足元に煙草の吸殻が落ちていた。吸殻は四つあった。そのうちの一つからはまだわずかに煙が立ち上っていた。灰色の惨めな煙だった。
老人たちは煙となって消えてしまった。そう思うともう少し眠りたくなった。何か意味のある夢が見れそうだった。
くすぶっている煙草を踏み消そうとした時、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。画面表示を確認すると会社からだった。声のトーンに注意して電話に出た。何も聞こえなかった。何も聞こえないのに、どこかから呼ばれているような気がした。
すぐに音声出力が車のドアの窪みに置いてあるワイヤレスイヤホンに設定されていることに気づき、画面を操作して改めてスマートフォンを左頬に当てた。
「おつかれさまです」
「おつかれさま。今どのへん?」
「大林さんのところから戻る途中です。中央通りをそっちへ向けて」と言ってから僕は慌てて「正確には今ちょっとコンビニに寄ってるとこですが」と付け加えた。
「戻ったらヤマトに走れる?」
「あ、わかりました。あと二十分くらいで戻ります」
電話を切った僕は足元の煙草を見つめ、なんとなくぞっとした。急に寒さを思い出した。その煙が消えてしまう前に立ち去ろうと思い、急いで車に乗り込んだ。煙草のにおいが気になった。
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