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プロローグ
死に損ないの男は、ぬかるんだ地面に背を預け、虚ろな目で天を仰いでいた。
頭部は焼け爛れ、右半身にはたくさんの鉄片が突き刺さっている。
爆音も銃声もはるか遠く。ここは、棄てられた戦場。居るのは、腐敗を待つ死体ばかり。死臭漂う陰惨な墓場。
誰からも忘れられ、助けなど来ない。たくさんの死体に埋もれて、戦の残響を聞きながらただ死んでいくだけ。
けれど空は抜けるように青く、雲は穏やかに流れていく。
ふと、眼前に影がさした。
黒いなにかが、自分を見下ろしている。
――死神だ。
こんなに黒いものが、死者を導く戦乙女のわけがない。冥府の神のたぐいに違いない。
いや、どちらも似たようなものだ。だから、言わなくてはならない。
「死にたくない」
はっきりとした声が出たことに、自分でわずかに驚いた。喉と肺は無事なのだろう。
首を傾け、腫れた瞼の隙間から死神の姿を窺った。喉奥から、ああ、と声が漏れた。
蒼穹を背景に、とても美しいものが佇んでいたからだ。
揺蕩う射干玉の髪。なびく黒衣。わずかに覗く肌は雪白。顔面の造形は作り物のように整っている。
やはり人ならざるものに違いない。
「故郷で待つ母や恋人がいるの?」
朱のくちびるを蠢かせ、その者はたいそう無感情に尋ねてきた。
「いない」
男は答える。
「待ってる女も、残した財産もない。気が紛れたのは、酔ったときだけだ」
物心ついたころから家族さえもいなかった。貧困の中で育ち、馬車馬のように働かされ、そのすえに一縷の希望を求めてたどり着いたのがこの戦場。戦功をあげさえすれば、このくそったれた人生も買い戻せるだろうと。
そんな分不相応の望みを抱いたことが、間違いだった。
その者はゆるりと視線を巡らせ、言った。
「おまえの仲間はみんな死んだわ。ここで肉の塊になっている。おまえも苦しいだろう?」
「……くる、しい」
男は思い出したかのように苦鳴をあげた。
だがそれは、身体的な苦痛ではなく、一度も思うままのことが叶わなかった人生への悔恨。
「楽にしてあげましょうか?」
その者は淡々と男へ伺いを立てる。男がただ一言肯定すれば、なんのためらいもなく、たちまちのうちにそれを成し遂げてしまうだろう。それがいかに造作もないことか、言葉の内に歴然と表れていた。
その優しさにすがることが、男に残された唯一にして最善の道なのだろう。
けれど――。
「ああ、ちくしょう。今まで楽しいことなんてなんにもなかった」
ただ悲惨だっただけの人生があまりに悼ましい。
それでも――。
「まだ、死にたくない」
生への渇望は、潰えることはなかった。
男の言葉を聞いたその者は、意外そうに目を見開いた。両の目は黒色だったが、明らかに色彩が異なっていた。
それから、目を細める。
眩しいものを、見るように。
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