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02 朝の庭にて
***
「あの霧深い森の奥には、何があるのです?」
異国から来た旅人は、村人に尋ねた。村人たちはことごとく眉をひそめ、きつく口を閉ざした。
けれど、一人の老婆が語り出す。ひどく恐ろしい禁忌に触れるかのように。
「あそこには、カルミラの民が住んでいる」
「カルミラ?」
「はるか昔からそう呼ばれている、人の姿をした、人外のものたち。夜になると人界に紛れ込み、若く美しい人間を誘惑し、生き血を啜り、その心を攫ってゆく、化け物」
旅人には、安っぽいおとぎ話のように聞こえた。
「霧と茨に囲まれた森の奥には、決して近づいてはならない」
「そうですか」
おざなりな返事をしながら、若い旅人は思った。田舎の村にありがちな迷信、悪い因習だと。人の手の及ばぬ領域に恐怖を感じ、好奇心につられた子どもたちが近づかぬようにしているだけなのだろうと。
そして旅人は、森の奥へと足を踏み入れる。
もちろん、二度と帰らない。探されることすら、ない。
<とある地方に伝わる民話>
***
霧と茨は『人界』と『彼らの領域』を隔てる国境線であり、結界でもあった。
招かれざるものを拒み、同胞を歓迎するその霧の奥。
広がるのは、薔薇とサンザシの植えられた庭。
薔薇の花は深い深い赤色。美しく咲いていてはいるが、心なしかうつむき加減で元気がない。
サンザシの花は淡紅色。決して結実し得ない八重咲き。
漂うのは、しっとりと濡れた土の匂い。誰かが水を与えた直後らしい。
美しくも寂しい朝の庭に、銀髪の青年が静かに訪れる。
白いシャツを極力隠すように、漆黒の外套に身を包んだ青年は、庭の敷石を踏みながら奥に建つ屋敷へと歩を進めた。
玄関先では、メイド服の少女が鉢に植わる花々へと水をやっていた。
「ヴィーは、起きているかい?」
「あら、エドマンド様」
メイドは、青年を見ると少しだけ眉根を寄せた。手にした如雨露を地面へ転がす。
「おや、どうしてそんな不機嫌そうな顔をするんだい?」
「あなた様がいらっしゃると、あの方の機嫌が悪くなるからです」
栗色の髪を肩上でこざっぱりと切りそろえたメイドは、プイとそっぽを向いた。頭のレース飾りが揺れる。
その顎を優しく捉えた青年は、女のくちびると、その横のほくろを指でなぞる。
「相変わらず美しいね、シェリル。うん、血色もいいし、ちゃんと食事は取っているようだ」
「なにをおっしゃいます。紳士のように褒めるのか、もしくは医者のように見定めるか、どちらかになさってください」
「辛辣だね。ぼくは君のような従者が欲しくてたまらないのに」
青年はメイドの手を恭しく取ると、甲へそっと口づけた。メイドは苦笑するだけ。
「あの方は眠ってらっしゃいます。まさか、朝の小鳥のさえずりとともに現れる客人など、居りはしないと思っておいででしょう」
しかしメイドの苦い笑みは、にこやかなものへと変わっていく。
「どうもお久しぶりでございます、エドマンド様。せっかくのご来訪、無下に追い返すわけには参りません。僭越ながら、紅茶でも淹れさせて頂けないでしょうか」
メイドはスカートの裾を持ち上げて片足を後ろへ引き、丁寧な跪礼をしてみせた。
「そうそう、ぼくは客人として、君のその言葉を聞きたかった。このやり取りをするのに、ずいぶん長い前置きをしてしまったよ」
青年が涼やかな笑みを浮かべると、メイドはゆるりと顔を上げた。その表情は、先ほどの言動とはまったく正反対だった。
「─―なんて言いたいところですが、残念です! あの方はここ最近、機嫌が悪いのです。どうか今日はお帰りくださいませ!」
メイドは青年の背中を両手で押し、引き返させようとする。並みの男であれば、膝を屈するほどの剛力だ。
「どうしたんだいシェリル。もちろん彼女が起きるまで待つよ。どうして今日はやけにぼくを帰そうとするんだい?」
青年は押されながらも一歩も動かない。メイドはますます険しい顔をした。
「日を改めて、こちらから挨拶に出向かせて頂きます! あの方も久方ぶりにオルドリッジ閣下に会いたいとおっしゃってましたから!」
メイドは腕に目一杯力を込めているようだ。そのせいで声が大変低くなっている。
「エドマンド様、後生ですからどうぞお引き取りください!」
しかしそのとき、青年は霞のようにかき消えた。いきなりのことに、メイドは悲鳴を上げて前方に転がった。
「ごめんごめんシェリル」
どこからともなく、青年の声が響いてくる。
「悪いけれど、急ぎの用件なんだよ。ちゃんとヴィーの機嫌を取っておくから許しておくれ」
「いけません! い、今は、あの方は……」
メイドは口ごもる。どう説明しようか戸惑っている内に、青年の気配は失せていた。
「ああ、もう……」
嵐の予感に、メイドは項垂れた。だがすぐに立ち上がり、奮然と走り出す。
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