番外編SS 青い果実

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 辺境の山地で、人々は岩肌に根を張る植物のように暮らしている。岩山のカモフラージュに隠れ、予告なく急襲し生き物をおびやかす竜のまなざしを避け、息をひそめている。 「上で拾った法道具だ。帝国軍のものもある。あいつらのも混じっているかもしれない」  イヒカの前でタキがコンテナの蓋をもちあげた。コンテナは大きく、みるからに古びて、表面にはかすかに赤錆が浮いている。イヒカはタキの隣に進み出た。中をのぞきこんで眉をよせる。 「ほとんどガラクタにみえるが」 「ここは帝国軍じゃない。再利用できるものはすべて使う」  コンテナに乱雑に放りこまれているのはさまざまなタイプの法道具と軍の装備品だ。杖、〈紅〉や〈萌黄〉の紋章が入った竜のハーネス、手首にはめる小型の盾。タキは表情を変えないままイヒカを見守っている。  見張っている、というべきかもしれない。砦の人間は今のところ、イヒカを全面的に信頼していない。帝都に潜む〈虹〉の組織とここには微妙な温度差があり、イヒカは自分の立場が客人なのか捕虜なのか、はっきりとわからなかった。辺境の人間は帝都の人間とコミュニケーションの取り方がどこかちがう。帝都ならはっきりさせることも、辺境ではあいまいにぼかされる。 「底の方を見ていいぞ。あいつの遺品を探しているんだろう」  平坦な声でタキがいった。あいつ、と彼が呼んだのはエシュ、〈黒〉でイヒカの副官だった男だ。ついこのまえ帝国が送った部隊は、辺境民が禁忌にしている竜の棲み処へ飛び、竜石を大量に略奪して帰還した。しかしその行為は巨大竜の怒りに触れ、そのあと起きた嵐から多数の兵士が逃げ遅れて、山地で命を落とした。 〈黒〉の隊員が騎乗する竜は嵐に耐えたようだが、エシュが乗っていた棘だらけの灰色竜は、乗り手なしで他の竜を率いて飛んでいったことが目撃されている。砦の人間たちは負傷して山地に残された帝国軍兵士と竜を捕虜にした。その中には〈黒〉の解析官のシュウもいる。全身打撲で起き上がれない彼にイヒカはまだ対面していない。  イヒカは谷で保護された瀕死の竜にも見覚えがあった――〈黄金〉のアーロンの竜だ。しかしアーロンとエシュの遺体は発見されないままだった。砦の人間たちは竜に喰われたのだといった。キャンプから逃げ遅れた帝国軍兵士を尋問した結果、この二人が竜石の略奪部隊の中核だと判明したからだ。  竜はけっして許さない。砦の人間たちはそういった。 「大丈夫か? 手伝うぞ」  タキの声にイヒカは我に返る。声も体格もまったく似ていないのに、タキにはどこかエシュを彷彿とさせるところがある。エシュのことは生まれた時から知っているといった。十四歳で帝国軍に連れ去られるまで、山地でともに育ったという。表情には出さないが彼もエシュを悼んでいるにちがいない。 「すまないね」 「礼はいいからさっさと探せよ」  エシュの法道具は銃と指輪だ。竜に喰われたというなら指輪は共にその腹の中か。それとも竜の巣のなかで排泄物に混じっているのか……背筋がおぞましさにぞくっと震える。イヒカは杖の下からライフルを一丁抱え上げる。底のあたりに長い剣の鞘が見えた。誰が使ったのだろう、と思った。いまどきの帝国軍兵士はめったに剣を使わない。 「そいつか?」 「どうだろう。汚れすぎている」 「それならこれで磨くといい」  タキがポケットに手をつっこみ、鮮やかな青い球を取り出した。思いもかけないものをみてイヒカはぎょっとし、あわててそれを悟られないよう、表情を固くした。 「それは?」 「あんた、シトラリクエを知らないのか?」 「……いや、その実はわかるが」 「ああ、帝都の人間はこんなことに使わないのか。お上品だからな。貸せよ」  タキは指先で柑橘をつまみ、青い果皮を金属の表面におしあてて擦る。たちまち表面にこびりついた汚れが落ち、光沢が見えた。  シトラリクエ、帝国全土に自生する柑橘類である。痩せた寒冷な土地でも育つから、辺境のこの地ではさまざまな用途に重宝されている。しかしこの真っ青な果皮は帝都の宮廷や上流階級では異なる意味をもつ。  エシュが知らなかったのと同じように、タキは知らないのだろう。皇帝の〈青珠〉を連想させるから、食卓にはうかつに出さない。それにタキの手にあるほどの大きさなら、上品どころか、とんでもなく下品な用途に使われることもある。少なくともイヒカは身をもって知っている。エシュは知らずに済んだのならいいが―― 「ちっ、型番が削ってある。これは帝国軍のものじゃない」 「手間をかけさせるな」 「べつに」  タキは無造作に青い実を握っている。イヒカは彼から顔をそむける。皇帝が若かったころ〈青珠〉としてすごした数年間のせいか、この青を見るだけでいまだにおかしな気分をかきたてられる。  エシュも皇帝に〈青珠〉を賜った。帝都の上流家庭に育つ者ならその意味を知っている。この略奪作戦に至るまでに、皇帝はあの誇り高い男に何をしただろうか。アーロンはわかっているのか。それでも皇帝に従うことができるのか。 「もう部屋に戻る。きみは自分の仕事に戻ってくれ。私のお守りにうんざりしているだろう?」  薄笑いを浮かべていっても、タキは肩をすくめただけだった。 「俺はあんたを自由に歩き回らせてもいいと思ってるけどな。帝都の組織があんたを選んだ理由は知らないが」  タキの手のひらで青い果実がぽんと跳ね、イヒカは無意識にひたいに皺をよせる。彼に話してみるか? 私が反帝国にスカウトされたのは、皇帝のままごと人形だったからだと。タキは憑坐(よりまし)という言葉を知っているだろうか。  皇帝は神の憑坐(よりまし)といわれるが、宮廷にはもともとこの役割を担う人間がいた。それは神の器となる者の家系で、ただ宮廷人とだけ称されている。皇帝自身が神の声を聞く才能がない場合、皇帝のために「神を下ろす」能力を持つ家系である。宮廷人は長らく、帝国で隠然たる権力を握っていた。  しかし少年のころからみずから〈神〉の声を聞くことができた現皇帝は、宮廷人の憑坐を必要としなかった。にもかかわらず、若き皇帝は子供だったイヒカをそばにおき、ひっきりなしに神を下ろした。精通を迎えたあとは〈青珠〉を与え、三年のあいだ寵愛することもした。 〈青珠〉を賜って三年が過ぎたとき、皇帝はイヒカに褒美を与えるといった。イヒカは軍人になることを望んだ。〈黒〉の団長だけが、士官学校も出ていない宮廷人を受け入れるといった。成長したイヒカに憑坐の能力はめったにあらわれなくなっていたし、当時のイヒカは反帝国に加担することなど考えもしなかった。  反帝国の〈神〉がイヒカの夢に入りこむようになったのはそれからずっとあとのことだ。あのころのイヒカは副官を失い、膝を砕かれて療養していた。  シトラリクエの青色を見るのも嫌だったときがあった、とイヒカは思った。  しかしいまタキが持っているのはただの青い果実じゃないか。意味を破壊すれば象徴など怖れるに足らない。 「あんたはエシュが気に入っていたんだろう。あいつは帝国に殺されたようなものだ」  山地で生まれ育ったエシュの昔馴染みは現実主義者だ。その手のひらでまた青色が弾む。衝動的にイヒカは手を伸ばし、シトラリクエを奪った。 「……死んでいれば、な」  タキは昏い目でイヒカを見た。 「生きていると思っているのか?」 「まだ信じられない。あのふたりが死んだなんて」 「ふたり?」 「エシュとアーロン」  どこへ消えたにせよ、死んだにせよ、ふたりでいるにちがいない。イヒカにはなぜかそう思えた。おたがい、天が張り裂けるほどの執着を抱いている相手を、ひとりで逝かせたりするだろうか?  シトラリクエのなめらかな果皮はほんのりあたたかい。タキの体温が移ったのだろうか。指先でもてあそぶと爽やかな香りが鼻先に漂った。
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