第1部 竜の爪を磨く 1.風の傾斜

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第1部 竜の爪を磨く 1.風の傾斜

「彼」と再会する予感など、まったくなかった。  あのとき俺は油断しきっていた。上空からの戦闘監視とは気楽なもんだ――そんなことを思いながら、竜の背中から森に囲まれた町を見下ろしていたのだから。 「エシュ! エシュ!」  耳元でシュウが叫ぶ。俺は顔をしかめる。 「叫ぶな。聞こえてる」  シュウは俺のすぐうしろを飛んでいる。マフラーの下に装着した通信機の声は骨を伝わり、まるですぐそばにいるように響いてくる。 「下、はじまったみたいだ」 「俺たちの任務は偵察監視だ。このまま旋回して市街地を回る」  風が吹いていた。  頬にあたる空気は冷たかった。日差しはきついが、ときおり影に遮られる。上昇気流によって生まれた綿のような雲が頭の上を漂っているせいだ。しかし俺の正面の視界を占めるのはいちめんの青い空で、褐色をした竜の首ごしに視線を下げると緑と土の色がみえる。土は煉瓦のような深い赤色だ。火山岩の風化によってできた肥沃な土壌で、森の緑と組み合わせられると絨毯の模様のようにみえる。  竜のツェットは暖かい気流にうまく乗れてご機嫌だ。俺もいい気分だった。晴れた日に機嫌のいい竜の鞍に腰をおちつけて飛ぶほど楽しいことはそうそうない。たとえ眼下の都市から戦闘開始をあらわす煙が立ち上っていたとしても。この世界の「戦闘」では人命が失われることはめったにないから、そのぶん気が楽、というのもある。 「煙だな」 「陽動部隊だ。反帝国に占拠されているのは行政庁舎と竜溜まりだが、〈地図〉はもう移されているだろう。相手はたいした数じゃない。(くれない)の補給は十分だし、陽動でそらしたすきに奪還するつもりさ」  俺はチャネルを切り替え、本部に連絡を入れる。こちら黒、市街地での白煙を確認、引き続き上空で監視を続行。町の上空を大きく旋回するコースをとると、ツェットの眼の上のところ、ヒトの眉のように盛り上がった部分がぴくりと動いた。すぐ横に流れる気流に乗りかえたいらしい。眼下の低いところを鳥が翼をひろげて旋回している。竜の好きな風を選ばせても問題はなさそうだ。竜鞍のうえで上体を軽く倒し、ツェットの首を軽く撫でる。許しをもらった竜は嬉しそうな低い唸りと同時に速度をあげた。シュウがまた叫んだ。 「待てって!」 「竜に任せろ。ファウはおまえより飛ぶのに慣れてる」 「あたりまえだろ! だがな、もともと僕は内勤専門だし、エシュみたいに風がみえるわけじゃ」  俺は笑った。風がみえるって? 何をいってるんだ。 「いつもの計器試験を兼ねてると思えよ」  単に監視という任務が気に入らないだけのくせに、内勤専門とはよくいった。俺よりは少ないにしてもシュウの飛行経験は相当なものだし、竜のファウとツェットは兄弟で、二頭つらなって飛べるのを喜んでいる。まあ、こんな軽口を叩けるのも俺たちの所属が〈黒〉だからだ。他の帝国軍人ならそうはいかない。 「シュウ、森の方向を監視しろ」  俺はひたいの拡大鏡を眼の上にさげ、格子状の街路を観察する。あいだにぽっかり空いた区画には飛翔台が置かれているようだが、竜の姿は見当たらない。そのかわり町はずれの大通り沿いに広い竜溜まりがあり、外につながれたままの荷役竜が何頭かみえる。太い首や尾が落ちつかない様子で動く。  反乱者の制圧にあたっているのは陸戦軍団〈紅〉(くれない)の部隊だ。帝国は辺境の反乱者に容赦せず、鎮圧には圧倒的な戦力を投入する。だが俺が副官を務める〈黒〉は即応の特殊師団で、今回の作戦では不測の事態が生じたときの保険にすぎなかった。だから向こうさんも――味方とはいえ――俺たちを邪魔と思っている可能性もある。  こちらは命令通り高みの見物をしているだけだが、高みから見物されるのも迷惑、というわけだ。だがそれも黒に所属していればよくあることだ。  突然遠距離通信チャネルが開いた。俺は拡大された視界から眼をそらさずに返事をする。 「こちらエシュ。どうぞ」 『私だ。はじまったな』  行動中にこのチャネルを使うのはひとりしかいない。俺の上官で〈黒〉の団長、イヒカだ。 『状況をみて必要なら介入してくれ。許可する』 「介入の必要がありますかね?」  俺は街路を移動する紅の隊員をみつめる。帝国の六軍団でも青藍、紅、萌黄は花形だ。士官学校へ入学する者は、はじめはたいてい〈黄金〉に配属される奇跡を願うが、ふつうは叶わない。しかし海と陸と空を掌握する青藍、紅、萌黄は立派に誇れると考える。犯罪を取り締まる碧もそこそこ人気があるし、軍人になったはいいが前線へ出たくないものは兵站を担う紫紺を望む。そして他の特別部門――黒と灰――のことは、ふつうは知らない。 「単に取られた〈地図〉を取り返すだけでしょう」  介入が必要になれば気楽な偵察監視などといっていられなくなる。声に出さない俺の落胆を感じ取ったようにイヒカは笑った。 『いや、再作成が必要かもしれん』 「再地図化? なぜ?」 『反乱側に腕のいい地図師がいるらしい。元地図をいじられているという情報がある――警備のな』 「荷役系の改造ですか。闘竜?」 『おそらくは』 「こっちで片付けていいんですか。紅の連中、やっかみますよ」  イヒカはまた笑った。俺の怠け心を察したのだろう。他の軍団ならただじゃすまないが、ありがたいことに〈黒〉はちがう。 『飛翔系の可能性も捨てきれん。その場合は彼らの手に余る。新種にあたるかの判断も任せる。紅にも地図師はいるが、能力はこっちが上だ。遠慮はしなくていい』 「シュウもいますしね」 『そういうことだ。いじょ――おっと』上官はいい忘れていたことを思い出したらしい。 『もうひとつある。参謀本部から誰か来るらしい』 「え?」俺は反射的に聞き返した。「黄金の?」 『せっかくだ。〈黄金〉にはいいところを見せて、さっさと片付けろ。以上』  通話は切れた。シュウの竜が横に並んだ。 「再地図化だって?」 「シュウ、市街地の監視に交代してくれ。俺は森の上へ飛ぶ」 「どうして?」 「何か出てくるならあっちだ。紅の連中もわかってる」  町を囲む森の一方は緩やかな丘陵に続く。紅は町の一方の補給線をすでに掌握し、短時間で反乱者を制圧するつもりだ。この地区には飛翔系の竜がいない――土着の竜も、家畜も――ため、空の部隊である〈萌黄〉はこの作戦で兵を出さなかった。今飛んでいるのは俺たちだけというわけだ。  俺はツェットのハーネスをつかむ。竜は人間の言葉は話さないが、意思を敏感に感じ取る上、かなり複雑な合図も理解している。ファウに乗ったシュウと別れたとき、視界の右上できらっと何かが光った。 「来たぞ。黄金だ」  シュウがいった。小さな光は瞬く間に大きくなるが、俺は習慣になった動作で拡大鏡を調整していた。三頭の竜が作戦本部の方角へ高速移動中。高度は俺たちよりわずかに上――俺は思わず舌を鳴らす。まったく、あっちの方が本当の高みの見物らしい。どうせならずっと上を飛べばいいのだ、邪魔だ。  ツェットは俺より先に反応して翼を羽ばたかせ、風の筋をのりかえたが、不機嫌のしるしに頭頂の小さなとさかを紅潮させていた。竜であっても後からやってきた者に体勢を乱されるのは癪にさわるのだ。頭上で羽ばたきが鳴り響き、俺は鞍の上で顔をあおむける。先頭の竜の背からこちらを見下ろす頭がひとつ。  帝国軍の総合司令塔である〈黄金〉からわざわざやってきたのは誰だ――面白半分に焦点をあてて、一瞬とらえた顔立ちに俺は思わず息をのんだ。太陽に眼を射られたようにくらっとする。 「エシュ?」  耳のなかでシュウの声が響き、同時に竜の背中がぶるんと揺れた。俺は我に返って頭を下げる。はずみで拡大鏡がずれ、ツェットの眼だけがくるりと回って俺を睨む。悪い、と小声でつぶやいて俺は森に注意をむける。  気を取られていたのはほんの一瞬なのに地上では戦闘がはじまったらしい。木立のあいだを四本足の竜が突進し、紅の連中が迎え撃っている。四本足ということは荷役竜の変異体で、可能な種類も限られている。俺がでしゃばるまでもない。森に〈法〉の輝きが充満し、竜たちの足が止まる。  こっちの介入は必要ないか――そう思ったとき森の木立が大きく動いた。  両足の下でツェットがわずかに体を揺らし、翼がばたりと大きく動く。「敵」を感知したのだ。  風の傾斜に沿ってツェットは一気に降下した。シュウが大嫌いなやつだが、俺の唇は無意識にあがる。竜の背中で味わう降下と上昇の興奮はほかのものに代えがたい。鞍に腰を固定したまま俺はライフルをつかみ、構える。照準のなかに森からあらわれた生き物がみえる。  再地図化が必要な新種なのはひと目でわかった。ツェットの敵意を感じ取ったのか、こちらへまっすぐ向かってくる。乗り手の意思に従っているのかどうか。巨大な羽根、奇妙な形のトサカは火焔系か。乗り手はちっとも制御できていないようだ。火を噴く前に仕留めなければ。  俺はタイミングを待つ。風を突っ切るツェットの翼と俺の腕が一体になったような錯覚を覚える。射程距離まであと二秒、一秒。  慣れ親しんだ道具は俺の手の延長のようだ。この世界で備わった〈法〉という能力が加わればなおのこと。発射された弾丸に俺の意識はのりうつり、こちらへ向かってくる竜へとびかかる。棘のようなトサカの根元に着弾したとたん、中枢をかけぬけた〈法〉がたちまち竜の体内へ到達する。いまや俺の意識の一部はツェットの上にいて、一部は撃たれた竜のもとにいる。〈法〉はこの竜の精髄(エッセンス)をすくいあげ、硬く透明な媒体(メディウム)に閉じこめ――  そのとき熱のような尖った痛みが腕をかすめ、俺はツェットの背中で意識を取り戻した。俺が撃った竜の乗り手が銃砲で反撃してきたのだ。しかしそれが最後だった。新しい〈地図〉は俺の手の中にあり、俺が命じるままに乗り手を地面に振りおとす。と、急にツェットが上昇を開始した。俺は反射的にハーネスをにぎった。とたんに手のひらから〈地図〉のキューブがこぼれおちる。 「くそ!」  ツェットに文句をいおうとしたとき何かがひゅっと風を切った。またも竜――急降下してくる、速くて敏捷だ。敵かと思ったがツェットは反応しない、ということは軍の竜だ。褐色の首が柔軟に伸び、触手のような長い舌がぴゅっと飛び出る。こぼれた〈地図〉をすくって口に咥え、低空へ落下するとかにみえた瞬間体をひねり、回転しながら上に昇った。曲芸のような動きのおかげで乗り手が見えなかった。  ふたたび安定した飛行を取り戻したツェットの上から俺は通信機ごしに呼びかける。 「すまん、助かった。どこの部隊だ? その〈地図〉をこっちに……」  羽ばたきが聞こえた。曲芸をしていた竜がツェットの横につけてくる。俺は装具に黄金のきらめきを見てとる。乗り手は竜鞍に腰を据え直し、こちらを向く。  俺は竜の背で凍りついた。 「〈黄金〉のアーロン。この地図は作戦本部で渡す」  とっさに言葉が出なかった。代わりにツェットが奇妙な声で鳴き、隣りで飛ぶ竜が唸りを返した。俺は無言で見返していた。予備学校、士官学校、軍大学を通しての友人で――一時つきあってもいた相手。  アーロンの口元がわずかにあがったが、視線は固くきつかった。刺すような眼つきだが、学生の頃俺がやらかした仕打ちを思えば無理もない。腹の底がきゅうっと疼き、一瞬にして苦痛と安堵をこねてまるめた焼きたてパンができあがる。 「――エシュ。久しぶりだ」  俺の耳、いや骨に響いた声は記憶にあるよりも低かった。背筋に走った震えは声にこめられた怒りのせいかもしれなかった。  羽ばたきと同時に黄金の装具に太陽が反射する。隣にいた竜は高速で上昇した。あっという間に小さくなる影にツェットが不満そうな唸りをあげる。同感だ、と俺は思う。  久しぶり、だって?  おまえと再会するつもりなど、まったくなかった。
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