第1部 竜の爪を磨く 4.塵の悪魔

1/1
前へ
/122ページ
次へ

第1部 竜の爪を磨く 4.塵の悪魔

 竜が棲む土地で俺は生まれた。この世界における故郷(ホームランド)だ。  岩山の遥か高みを大きく翼を広げた竜が舞い、赤ん坊は谷で草をさがす竜の背で揺すられる。山の裾には火炎石や飛雲石の鉱山があった。俺が生まれたころ、故郷は帝国による地図化に抵抗し、帝国軍と戦っていた。  故郷を離れたのは十四歳になる前だった。今は風景も変わってしまっただろう。帝国が〈地図〉で支配する土地は人間に最適な環境にあっという間に作り替えられてしまう。俺がいたころよりも美しい風景になったにちがいない。〈法〉に支配され管理されると、見た目はだいたい綺麗になるのだ。  この世界の()にいたところで俺が生まれた土地はどうだっただろう。俺にとっては荒涼とした岩山と似たようなものだったかもしれない。潰れた工場の跡地に建った巨大なショッピングモール、国道沿いに並ぶチェーン店、放棄された田んぼと畑。  だがこの世界とちがって、故郷(ホーム)という言葉にふさわしい愛着を感じたことはなかった。それは俺が子供のころに自分の性癖を自覚したせいかもしれないし、そんな自分を表に出してはいけないと感じ取っていたせいかもしれない。得体のしれないうしろ暗さを抱えた人間がひとりになるのは自然な流れで、勉強が多少できたとしても自分の居場所はどこにもなかった。さっさと脱出したかったし、実際に脱出した。  東京の大学へ進学し、首尾よく国家公務員になり、首都の中心で働いた。流行りの位置ゲーに夢中になり、自分の性癖を受け入れてくれる街を歩き、快楽を知った。一生家族を作れなくても、そこそこ楽しく生きていけばいい。  ずっとそう思っていた。 「エシュ、あんたの番」 「――ん」  俺は黒石をつかんで盤に置く。とたんにうなじの毛ををひっぱられた。 「おい、もう少し考えなよ」 「どっちでも同じなんだって」 「同じっていうのは……」  肩に回されていたアルヴァの片手が離れた。羽交い絞めするように背中から俺を抱き、服の上から左胸をさする。 「こういうこと?」 「そこはゲーム盤じゃない」 「似たようなもんだろ」  次の瞬間俺はベンチの上に倒されていた。のしかかったアルヴァの指がボタンをはずし、肌を直接なぞってくる。節が太く指は長く、皮膚は荒れている。毎日のように竜の爪を磨き、剥がれかけたうろこを掻きとり、装具の手入れをしていればこうなるのだ。でも厩舎の連中のこんな手が俺は好きだった。 「ツェットがいたから、いつ来るかと思ってた」  アルヴァはたぶん俺と同じくらいの齢だろう。ざらざらした指に胸の尖りを擦られたとたん、下半身までびくっと反応するのを止められなかった。それでも俺は「気が早いな」という。 「まだひと勝負もすんでないのに」 「やる気もないのによくいう」ベルトの金具がカチャカチャ鳴った。「こっちのやる気はあるんだろう? ていうか、こっち目当ての癖に」 「いちいち口に出すな」 「どうせ俺は盤ゲームじゃ勝てないからさ」  アルヴァは基地の雇用人で、軍人ではなかった。厩舎で働く人間のほとんどがそうで、異動もない地元の人間だ。最初に会ったのは五年ほど前。ツェットの調子が悪く、夜中まで厩舎に詰めていたときに親しくなった。ささいなきっかけから休憩部屋で()()をするはめになり、以来この基地に来るたびに会っているが、俺がここに来るのはせいぜい年に一度だし、おたがいに特別な感情はない。  アルヴァは一見気さくでフレンドリーにみえるが、人間より竜の方が好きなのではないかと感じることも多かった。竜とはセックスできないから俺とやりたがるのだ。それは俺にとっても都合がよかった。 「今回はいつまで?」  アルヴァの髪や肌には厩舎にしみこんだ竜の匂いがまとわりついている。竜の分泌液、装具の革と金属、爪を磨く油や毛布を洗う石鹸の香りもふくめて、すべて人と暮らす竜の匂いだ。 「わからない。合同作戦の進行しだいだ。忙しいか?」 「そりゃあ、竜がこんなに増えればな――」  アルヴァの唇がへその周りをなぞっていく。伸びかけの髭がちくちくと肌を刺す。 「エシュ、挿れていい?」 「オブラは?」 「持ってる」  オブラは便利な薬だ。洗浄と感染症予防、潤滑剤の機能があって、男同士のセックスには必須といっていい。座薬のように入れるだけですぐに溶ける。支配の法と地図で作られたさまざまな薬のひとつ。この世界に生まれ直してよかったと思う事柄のひとつだ。  ()はけっして大っぴらにはできなかった好みがここではごく普通のことなのも俺には嬉しかった。この世界の人間は同性異性問わずに恋愛をするし、肉体関係をもつ。子供ができない関係のカップルが養子をとるのは歓迎されこそすれ、非難はされない。  アルヴァは俺の上で上体をおこし、どこからかオブラの瓶をひっぱりだした。栓を回したときだ。ドンドン、と扉が叩かれた。  俺たちはふたりとも固まった。外から声が聞こえる。 「誰かいないか?」  アルヴァはため息をついた。 「病気も負傷もないのにわざわざ竜を見に来るなんて、どこの暇人だよ?」  すばやく立ち上がり、オブラの瓶をほうり出してボタンを留める。「はい?」と大声で返しながら髪を撫でつけ扉を開いたとき、俺の方もなんとか服を直している。 「何かありました?」 「エスクーは三番に入れたはずだが、いない」 「ああ! 彼なら」  いまいましいことに声で誰なのかわかった。アルヴァが扉を全開にするまえに俺は壁の方を向いていた。 「アーロンさん。あの竜は寝相が悪いんで移したんです」 「ここは初めてだし、午後に到着したばかりだが?」 「お連れさんの竜をみればわかりますよ。移したのは――」  アルヴァがさっさと出て行ってくれるのを願ったのに、何やら紙をめくる音が聞こえる。 「二七番です。案内しましょうか?」 「いや、場所さえわかれば勝手に行くが……」  俺は背中で聞こえる会話がはやくおわれと念じていた。何者かに仕組まれたという気がしてならないが、おそらく偶然だ――介入した()()はいないにちがいない。アーロンは初めての厩舎で自分の竜がどう扱われているかが突然気になったのだろうし、俺はこの基地を訪れたときの習慣を守ったにすぎない。同じようなことが何度もあった。誰の介入もなく、なのに仕組まれたようにこうして―― 「エシュ、おまえも?」 「あ……お知り合いですか?」  おまえとは六億年ぶりなのに顔もみずにどうしてわかるんだ。俺は内心舌打ちするが、アルヴァが口をはさんだのでふりむかざるをえなくなる。 「よう、アーロン。奇遇だな」  アーロンは妙にぼうっとした眼つきにみえた。 「ああ……たしかに」 「おまえの竜、エスクーという名か。昼間は助かった」 「いや。タイミングが良かっただけだ。地図を反乱軍にまた奪われるのも……」 「悔しいが〈黒〉の借りだな。そのうち返す」 「そんな必要はない。借りや貸しなど」  アーロンの口調は固かった。俺も似たようなものだった。あいだに立つアルヴァが俺とアーロンを交互にみやる。居心地が悪いのだろう。申し訳ない気分になった。 「あの、そろそろ見回りに行きますんで。俺はいいですか。ここも閉めないと」 「ああ。またな」  見回りというのはこの場を離れるための口実とわかっていたが、アルヴァの気持ちはわかった。上着こそ脱いでいたがアーロンは黄金の襟章にふさわしい迫力というか、威圧感のある眼つきで俺を凝視しているし、厩舎の休憩部屋は軍隊と同じ基準で整理整頓されているともいいがたい。床に転がったオブラの瓶を靴先が蹴りとばし、扉の方へ転がっていく。あわてて拾おうとしたのに少し遅かった。アーロンが拾って怪訝な眼つきになった。アルヴァが焦った声で「すみません」といい、アーロンの手から瓶をもぎとる。俺はみなかったことにした。  休憩部屋の鍵を閉めるとアルヴァはそそくさといなくなったが、アーロンは俺の横に立ったままだ。あいかわらず固い声でいった。 「エシュ、おまえの竜は?」 「ツェットか。もう寝てる」 「おまえも竜の様子を見に?」 「そういうところだ」 「元気そうだ」 「おまえも――」  居心地の悪さをどうにかしようと俺は頭に思い浮かんだことを声に出す。 「ちょっと前、黄金の『塵の悪魔(ダストデビル)』なんて二つ名を聞いたから、どんなものかと思っていたが」  アーロンの目元がわずかにゆるんだ。 「塵の悪魔か。みんな適当なことをいう」 『塵の悪魔』は埃まじりの乱気流のことだ。不用意に突っこんだ竜の乗り手を困惑させる。軍人はたくさんいるが、軍大学を出たばかりで〈黄金〉に配属される者はめったにいないし、若くして誰にでもわかる功績を上げる者はもっと少ない。だがアーロンはその両方をやってのけていた。自然と目立つし、そうなると本人のあずかり知らない二つ名もつけられる。  成り行きというのは困ったものだ。アルヴァとちがって外へ急ぐ口実もみつからないまま、アーロンと暗い厩舎の通路を並んで歩くはめになった。俺は出口までの距離を測った。アーロンの竜がいる二七区画は奥よりで、裏口の方が近い。仕切りの向こうから竜の翼が擦れる音や、クウクウとつぶやくような鳴き声が響いている。  俺にとっては「久しぶりに再会した学友」との世間話をクリアして、はやく部屋に戻るのが現行のミッションだ。だが横を歩くアーロンが何を考えているのかはよくわからない。昼間、空の上ですれちがったときのような雰囲気はなかった。俺の顔など見たくもない――と思っていないこともなんとなくわかった。そっちの方がよかったのに。  アーロンの竜は仕切りの中で穏やかに眠っていたが、アルヴァが予想した通り、変わった寝方をしていた。止まり木ではなく干し草の上にころんと丸くなっているが、片足は胴体の下からとびだしているし、尻尾は巻かれずにだらんと垂れている。翼はきちんと畳まれていた。呼吸にあわせてゆっくり上下する。  乗り手に似ている、そんな考えが頭に浮かんだ。仕切りに入ろうとするアーロンを置いて出口へ向かおうとしたとたん、肘をつかまれた。 「待て。エスクーに紹介する」 「アーロン。竜も起こされるのは迷惑だろうが」 「彼は寝起きがいいんだ」  たしかに、アーロンに名前を呼ばれたとたん竜の瞼がひらいた。緑の眸に金の虹彩がきらめく。 「エスクー、エシュだ」 「昼間はどうも」  人間に挨拶するように俺はいったが、竜がどのくらい人語を理解しているかは怪しいものだ。だが彼らは人間よりも広い感覚を持ち、人間よりも状況を理解している。俺やアーロンの鼓動や血流をききとり、汗の中の物質を嗅ぎわけ、風の中の微細な粒子をみる。乗り手が動揺すれば彼らにはすぐにわかる。  だから俺の内面は目覚めたエスクーには素通しかもしれない。アーロンの横にいて、俺がどれだけ緊張しているか。どれだけ逃げ出したいと思っているか――このまま話していたいと思っているか。  アーロンは竜の頭を軽く叩き、壁に寄って装具を確認した。エスクーの眸が俺をみつめたが、敵意ではなく好奇心いっぱいのようだった。畳まれた三重の瞼が震え、問いかけるような「クウ…」という鳴き声があがる。  反射的に俺の足は動いた。竜と共に育った人間の残念な習性だ。呼ばれると逆らえない。手をのばして瞼のうえを掻いてやる。細かな鱗状の皮膚にさざめきが走り、赤い舌がぴゅっと飛び出す。頬を舐められ、くすぐったさに笑いがこぼれた。 「こら」  アーロンがふりむき、ぎょっとした眼つきになった。 「エスクー! 規律を――いや……」  俺はかがんで竜の顎をつかまえ、歯をのぞいていた。申し分なく健康だ。ツェットより二歳ほど上か。 「あいかわらずだな、エシュ」アーロンの言葉を俺はろくに聞いていなかった。「エスクーは誰にでも馴れ馴れしくする竜じゃ……」 「そんなこともなさそうだぞ」  俺はまた竜の眼の上を掻いてやった。正直なところ、アーロンより竜にかまっていたかった。アルヴァの気持ちがわかる気がする。だが竜のおかげで緊張が多少ほぐれたのはありがたかった。このまま何事もなかったように別れて兵舎に戻ればいい。そう思えた。 「〈黒〉は……どうだ?」  うしろでアーロンがいった。 「俺には合ってる」  俺はふりむかずに答えた。「聞いたぞ。明日からはおまえの指揮下に入るって?」 「もう? 情報が早い」 「俺は副官なんでね。団長に聞いた。こき使われないことを祈るよ」 「ああ……」  アーロンの声はすぐ近くに聞こえていた。眼の前の竜はまた眠くなったようだ。俺はそっとかたい皮膚を撫でおろす。 「おまえの話は――すこしなら聞いてる、エシュ」 「何を?」 「イヒカ様と昵懇だと」 「それは……」  勝手に周りが思いこんでいるだけだと返そうとして、俺は迷った。〈黒〉の連中はともかく、アーロンにまでそんな噂が届いているとはどういうわけだろう? 「俺はいい。イヒカ様まで裏切るような真似はするな」  俺は舌打ちしたくなった。あのオブラの瓶のせいか。それにしても、アーロンは昔からくそ真面目で恋愛沙汰に鈍い朴念仁のくせに、俺に関してはみょうに敏感なのだ。 「そんなことはない」  ふりむくとアーロンはまっすぐ俺を見下ろしている。明かりを落とした厩舎は薄暗く、そのせいかずいぶん背が高く、大きくみえた。身長はともかくとして、胸板は前より厚くなり、全体に筋肉がついたのだろう。学生の頃よりずっと……。  俺の頭に余計な感想が流れた。――ずっと好みだ。育ちやがって。ちくしょう、やめろ。 「そんなことはないとは?」アーロンは静かにいった。 「どうだっていいだろう。イヒカと俺のことはおまえに関係ない」 「俺はただ……」アーロンは何かいいかけて黙った。 「どいてくれ。兵舎に戻る」  アーロンはあとずさり、俺は仕切りの外に出ようとして――できなかった。 「え――おい!」  バランスを失って転びそうになり、敷き藁の上に手をつく。肩越しにうしろをみると、エスクーの尻尾が俺の短靴に絡んでいる。ご丁寧に両足ともだ。  なるほど、寝相が悪いわけだ。竜の尻尾には小さな棘がびっしり生えていて、革や布にひっかかると簡単に外れない。アーロンが慌てたように俺の横で膝をつく。尻尾が外れないのに業をにやした俺はうつ伏せで手をついたまま短靴を脱ぎ――表面が金具で覆われているブーツをこれに履き替えなかったなら、ここまで引っかからなかったのだが――靴下のままその場に座りこんだ。甲に刺さった棘を両手ではがしはじめたが、エスクーはいっこうに眼をさまさない。アーロンも俺のすぐそばにしゃがみこむ。 「寝起きがいいんじゃなかったのか」  思わずつぶやくと低い笑い声が聞こえてきた。心地よい声だった。 「いつもはな」  やっと右足の棘がはずれた。左にくっついた尻尾をもちあげたとき、アーロンと眼があった。俺を見ている。ひたいにわずかに皺がよっている。アーロンの息が頬をかすめ、とたんに全身がかっと熱くなるのを覚えた。まるで竜の聴覚が備わったように自分の鼓動が耳に聞こえる。 「エシュ」 「ああ――悪い、もう……」  いいから、といったつもりだったのだが、声が出なかった。いったいどうしてなんだ、と頭の片隅で声がする。普通にしてろ。俺たちはとっくに終わってる。  俺は手の震えを隠しながら左足の短靴を取り返すと、エスクーの尻尾を雑に投げた。藁の上に座ったまま足をつっこみ、アーロンの視線を無視する。  ふいにながいため息が聞こえた。耐えられず視線をアーロンに戻すと、立ち上がりかけた姿勢で眉をしかめ、脛をこすっている。しゃがんでいたあいだに痺れたのだろうか。  あたりは薄暗いのに俺の眼にはアーロンのシャツの下に盛り上がった胸筋がみえる。いや、これはただの妄想だ。俺は眠る竜をみつめ、気をそらそうとする。血の中にまき散らされた欲望の種がたちまち芽吹いたのがわかる。息が詰まりそうだ。 「大丈夫か?」アーロンがたずねた。 「問題ない。たしかに寝相のわるい竜だな」 「すまん」  アーロンの口調はさっきとは段違いに柔らかくなり、学生の頃を思い出させた。仕切りを出ながら俺は首をふる。学生時代に戻れるなんて錯覚にすぎないし、偶然が重なってこんなところで顔をつきあわせるなんて、何かの――人知を超えた――陰謀めいている。  他人が聞けば妄想と思うにちがいないし、自分でも馬鹿げた考えだと思うときもある。それでも警戒しなければならなかった。この世界で覚醒した時から――いや、この世界で生まれた瞬間から俺は陰謀に巻きこまれている。『神』とやらの画策した陰謀に。でなければなぜ俺はこの世界にいるのか。ショッピングモールとチェーン店しかない土地に生まれ、東京で暮らしていた俺が?  厩舎を出ると涼しい風が吹いていた。アーロンは右に、俺は左に分かれた。しばらく歩いて俺はためらい、立ちどまった。ふりむくと道の先に黒い影が立っている。アーロンが俺を見ていた。
/122ページ

最初のコメントを投稿しよう!

999人が本棚に入れています
本棚に追加