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第1部 竜の爪を磨く 5.手のひらで水をすくう
兵舎のベッドに横になったが、道の先にいたアーロンの影がまぶたの裏にちらつくのを止められなかった。
俺は薔薇の香りを思い出す。緑のアーチからは淡いピンクの花がこぼれ、タイル敷の小路の左右の花壇には真紅や橙の大輪を頂いた薔薇の木がびっしり植えられている。庭師の気配をうかがいながら俺は庭園の奥へ小走りにすすむ。背丈ほどもある薔薇の木のあいだではハナバチが唸りながら花弁の奥に首をつっこんでいる。
薔薇園は迷路のようで、この屋敷に慣れていない俺は小路がどこへ通じるのかよく理解していない。突然左右が大きくひらけ、小さな泉のむこうにあずまやがみえる。俺は反射的に足をとめる。薔薇のしげみから丸見えだ。俺はあとずさり、薔薇の木のあいだをぬって、やっとはずれにたどりつく。
古びた石のベンチに俺は腰をおろし、薔薇園に背を向ける。ここなら植えこみや石塀に隠されていても、庭園に流れる風の動きが感じられる。俺は無意識のうちに葉がそよぐ様子、上空を飛ぶ鳥のさえずり、虫の飛ぶ方向を観察している。空気の流れを知るためだ。帝都で竜に乗って飛ぶことはないから、そんなことをする必要はないのに。
頭のすぐ上でブンっと羽音が鳴った。ハナバチが急カーブを描いて俺の耳元をすりぬける。俺は薔薇園を振り返る。突然耳の奥で鐘――いや、警報のような音が鳴りはじめる。耳鳴り、さもなければ空耳のはずだ。庭園には弱い風の流れがあるだけ。なのに俺の頭には押しつぶすような鐘の音が響きわたる。
その音は次第にまとまってざわざわした朗誦になり、意味のわかる言葉になった。
(彼を殺して英雄になりなさい)
言葉は俺の頭蓋にエコーした。俺の意識を塗りかえようとするかのように、何度もくりかえし反響する。俺はベンチでひざを抱え、硬直した。薔薇の木のあいだに少年が立っている。整った顔立ちが俺をみたとたんに強張り、ついで困惑に変わった。ためらうような声がいった。
「すまない。誰もいないと思ったんだ」
あれが初対面だった。アーロンと最初に出会った日だ。いまだに克明に思い出せる。
帝都のルーの屋敷だった。辺境でルーに拾われて養子になるのを承諾し、予備学校の編入試験を受けるために特訓されていた時期だ。俺はちょっとした息抜きを求めて薔薇園へ逃亡していた。
それまで帝国が認める教育をまったく受けていなかったのに、ルーがつけた家庭教師は俺の素質には問題ないと判断した。士官学校の入口となる予備学校へ入るには、知識以外に〈法〉の基礎を習得している必要があったが、俺はすでに基礎というレベルを超えていたからだ。
問題は俺の知識が偏っていることと帝都風の「常識」がないことだった。筆記試験に必要な知識は勉強すれば身につく。言葉遣いや日常生活の作法を含む「常識」はもっと実践的習得が必要だ。俺の養父は一見柔和な雰囲気だったが、特定の目的を定めると態度が豹変するタイプだった。彼の命令で俺は屋敷の連中によってたかって教育された――いいかえればつねにあらゆる使用人に観察され、口を出され、帝都の上流社会で(俺が行く「予備学校」はその一部らしかった)どんな態度が必要とされるのかを叩きこまれたのだ。
そうはいっても、ルーや彼の屋敷の人々に悪意はなかった。ただの辺境育ち――帝国の支配に長年抵抗していた地方は「ただの」辺境とはいえないかもしれないが――の十四歳であればわからなかったかもしれない。幸い俺はただの十四歳ではなかった。「俺」は二十八歳で死んだはずの人間だった。
背中から投げ出され、白い空間に投げ出されて墜ちていく。砕かれ、バラバラにされる痛み、さかさまに吊り下げられて下へ下へと引き伸ばされるような痛み、丸めて潰されるような痛み。どろどろに溶かされてかきまぜられるような痛み。
なにかを感じるのをやめたいのに終わらなかった。俺はまだここにいた――どこかにいた。これが、この痛みが死なのか。それとも俺はまだ死んでいないのか。
俺はただの苦痛、ただの痛みだ。
抜け出したい。
そう念じたとたんそれがあった。
それは虚無だった。ないのにあるもの。ふいにわかった。俺――俺という苦痛、ただの痛みになった俺はあの中に零れおち、流れて、跡形もなく消え去る。吸いこまれ、消滅する。
と、抵抗が生まれた。
嫌だといったのだ。あんな虚無は嫌だ。ただの苦痛になるのも、消えてしまうのも。
俺は嫌だ。
(それなら連れて行こうか)
とつぜん落下が止まった。
俺は大きな手につかまれていた。その手は苦痛をはがしとり、その下に隠れていた俺をさらけだした。むきだしの俺、俺と信じていたなにかの中心にあったもの、液体のような定まらないもの。それを手はひょいとつまみ、転がす。
(あの虚無から遠い場所へ。行きたいか)
何が語りかけていたのだろう。なんでもよかった。俺は応えた。どういうわけか応えることができた。俺の体や言葉はすでにどろどろに溶けていたのに。
「連れて行ってくれ」
そいつは興味を持ったようだった。
(応えるのだな。しかしおまえはおまえの世界、おまえの故郷から切り離される)
「怖いから」
(怖い? あれのせいか?)
手は俺をぶんと振り、あの虚無の真上につるしてゆらした。飲みこまれるのがわかって俺は悲鳴をあげる。声が枯れるまで長く――長く――
(なるほど)
またひっぱられ、引き戻された。手は溶けかけた俺のどろどろをよせあつめ、まるめてひとまとまりにする。
(よかろう。だがおまえにはあがないが必要になる)
「何が?」
(――が条件だ。――のために、おまえは……彼を殺して……)
いったい何の取引だ。何を告げられているのかわからなかった。手は俺を丸めて口も言葉も溶かしてしまい、俺はおしつぶされる。小さく、小さく、小さくなる。
(……英雄になりなさい)
眼をあけると世界は白い渦だった。つめたい霧のなかをふたたび落ちていた。あの恐ろしい痛みはどこにもない。俺には体があり、皮膚があり、氷の微粒子が俺の顔を叩く。寒さにふるえながら夢中で伸ばした手が何かに触れる。ぐいっと引かれ、ひっぱりあげられる。本物の手、現実の腕が俺を抱きしめ、腰をつかまえてどこかへ据える。
「エシュ! エシュ! ぼうっとするな!」
よく知った声が耳元で怒鳴った。俺を支えているのは太い腕と肩で、分厚い革の飛行服につつまれている。俺は頭を振り、自分が竜の背中にいるのを悟る。青空が俺を包み、眼下で大きく地上がまわった。たちどころに思い出した。乱気流に巻きこまれて雲の中に入ったとき、急に眩暈に襲われて落ちたのだ。竜の腹を転がり落ち、ハーネスに繋がれた命綱に吊り下げられて冷たい雲を横切った。俺をひっぱりあげたのは――
「ごめん、とうさん」
俺はすっぽり抱きかかえられたままハーネスの金具を竜鞍に留めなおし、上体を安定させる。支えていた腕の力が抜け、俺は竜の背でみずからバランスをとる。竜は大きく旋回しながら地上へ近づいている。
「風をみてるか?」俺のうしろで父がいう。
「うん」
父、そう、父だ。故郷の谷が真下にみえた。竜は岩山の上を旋回している。ひび割れのように川が走り、刻まれたような両岸にいく筋か煙があがっている。あそこは俺たちが住む谷だ。岩山のむこうは帝国に支配されたが、ここはまだ俺たちの土地だ。帝国が俺たちの鉱山を狙っているから、みんなでここを守っているのだ。
とうさんは今日やっと俺を哨戒飛行に連れて行ってくれた。竜はひとりで乗りこなせるし――辺境の子供なら当然のこと――〈法〉も(少しは)使えるようになったとくりかえし説明し、懇願し、説得して、やっと実現したというのに、俺は竜の背中から落ちたのだ。
恥ずかしさに頬が熱くなるが、背後の父は何もいわない。こんな肝心な時に竜から落ちるなんて、五歳の子供じゃあるまいし。俺はもう十一だ。十二になったら〈地図〉の精製も教わるのに。
あたりまえのことを反芻したが、ふいに何かがおかしいと思った。
俺は誰だ。俺はどこにいる?
すべてを思い出したのはその時だ。
「俺」が死んだ瞬間と生まれた瞬間の苦痛のこと、この世界の光を最初にみた朝のこと。
「どうした、エシュ?」
斜めうしろから声が投げられる。俺と父が乗った竜の横にもう一頭ならび、おなじコースで谷の上を旋回する。隣の竜の背にいる男が笑顔をつくる。
「びっくりした顔だな」
「びっくりしたのはこっちだ」父がうしろでいった。「落ちたんだ。雲の中で」
「ほう、そうか!」
男はからからと笑った。慰めるように手をひらひらさせ、自分が乗る竜へ注意を戻す。
「気にするな」と父がいう。
「一人前の乗り手になるまで、三度は落ちるものだ」
俺の頬はまた熱くなったが、今度は悔しさや羞恥のせいではなかった。自分の中によみがえった何種類かの記憶が血の中にどくどくと流れこみ、脈打ち、暴れだしそうになるのを必死で抑えていたのだった。こことは別の世界で生まれて死んだ「俺」の記憶と、そこから抜け出したときの意識――あの「手」で連れ出された時の痛みの記憶と、この世界で生まれ、今日まで生きてきた記憶。それらすべてが血管をめぐり、鼓動とともに落ちつく場所を探していた。三つの記憶はよりあわされた紐のように強力になって、俺の体の中心をつらぬき、いまここにいる「俺」――エシュを完全に縫いあわせる。
俺は眼をさまよわせ、宙に広げられた竜の翼をみつめ、首の鱗をみつめた。前の生、ここではないところで生まれて死んだ「俺」の記憶はついさっきまで今の俺、エシュの中に隠れていたのだろうか。竜の背から落ちた衝撃でよみがえったとでも? 俺を苦痛から連れ出したあの「手」は何だったのだろうか。
あれは神か? それとも悪魔?
悪魔なら取引をするだろう――と、二十八歳で死んだはずの俺は思った。
そうだ、あれは「条件」といわなかったか?
「さて、降りるぞ」
父の声に俺の夢想は破られた。
「次の哨戒飛行は落ちるなよ」
十一歳の俺はハッとしてふりむく。髭に覆われた父の口元が笑っている。
「また?」
「ああ。おまえが風の道を覚えるまでな」
竜の翼がはためいた。風が俺の頬をうち、地面がすぐ近くへ迫ってくる。
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