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第1部 竜の爪を磨く 7.水と石の斜線
俺はどこかに浮かんでいた。ねっとりした液体のなか、それとも濃い空気なのだろうか。頭から足先まで水に浸かっているようなのに、息をするのに不便はない。
奇妙な響きの声が聞こえた。
『手間がかかるな。すんなりとはいかないものだ』
男とも女ともつかない、何重にもぶれるような声だった。俺の体を支えるどろっとした媒体から直接響いてくる。
『おまけに調整も難しい。プロセスが必要といっても、思い出しもしないらしい……』
下半身を揺らされる。俺を支えている物質が動き、何かが俺の中に侵入してくる。俺は反射的に叫びそうになるが、濃い物質が口の中をふさぎ、まともな言葉どころか悲鳴も出せず、きれぎれの喘ぎがもれただけだった。物質はもっと厚みのあるものへ変化して体をつつみ、細い指か柔らかい管のような、長くしなやかなものが背後から押し入った。必死で手足を動かそうとしているのに、みえない縄で縛られたようにいうことをきかない。そればかりか吊られたように両腕を頭上にもちあげられ、足を大きく広げられる。
中に侵入したものは堅くなり、内側から俺を突いた。
「あっ……」
『苦痛が強すぎたか…解離はそのせいか』
苦痛? いま俺が感じているのはそんなものではなかった。逆だ。腰から背筋を通り、足先から頭の天辺までを甘美なものが通りすぎていく。体が勝手に揺れ、口がだらしなく開くのを止められない。こんな状態なのに、頭の中に響く声は冷静だった。
『ふむ……安定した。なるほど、定期的に調整する必要があるらしい』
「や――やめ……」
『辛いわけではなかろう。むしろこれが必要だったはずだ。今後も時々――』
俺は首を揺らす。拒絶したつもりだが、自分でもよくわからなくなる。甘美な波が何度も押し寄せ、そのたびになぜか怖くなる。俺という存在が根本的に作りかえられてしまう。と、すうっとその波が引いた。俺はまた濃い物質の中に浮いている。さっき与えられた感覚の余波で体中がほてり、手足には力が入らない。
『約束を思い出したか?』声がいった。
『おまえは連れて行ってくれと望んだ』
「おまえが俺を生き返らせた――この世界に転生させたのか。おまえは何だ。悪魔?」
『どうしてそう呼ぶ? 私はおまえのいる世界の因果を左右する。いまいる世界で、そのような存在を呼ぶ名はひとつ』
「対価を求めるのは悪魔だ。もしおまえが神なら、そんなことは……」
『対価ではない。おまえに必要なのはあがないだ。そしておまえは約束した』
「俺が?」
『そうとも。おまえは英雄になる』
「なんだって?」
『そして彼を殺す』
俺の周囲の物質がまた揺れた。流れが生まれ、俺のまわりで渦を巻き、だんだんゆるく、薄くなる。体が急に沈みはじめ、俺はあわてて両手と両足をばたつかせた。いつのまにか俺を包んでいるのはただの水に変わっている。はるか上に水面がみえる。焦る俺をよそに、声は淡々と言葉を続ける。
『英雄とはかわりに殺す者だ。さだめに流され、受け身でいる者、殺しによって崇められる者。おまえは彼を殺して英雄になりなさい』
「俺は約束なんて……」
『いや。おまえは約束した。虚無に墜ちそうになったときに、否といってな』
「知るか! それに――彼って誰だ」
水のなかで回転する渦が俺を遠くへ運ぼうとする。最後にきこえた声は溺れかけた俺の気分とは正反対の響きだった。まるで喜んでいるようだ。
『いずれ出会う。そして悟る』
薄い空気は凍るように冷たく、気流は安定しているがひどく寒い。こんな高所でも竜の皮膚は鎧のように寒気や光線を遮っている。地表ははるかに遠く、俺は山地を足の下にみている。トゥーレは年老いた竜だった。俺が辺境で知った竜のなかでもいちばんの年寄りかもしれない。
哨戒飛行の最中だというのに、ずっと前にみた夢を思い出していたのは空気の薄さのせいにちがいない。安定して飛んでいる竜の眼が落ちつかない様子でくるりとまわるのは俺を背に乗せているせいだ。トゥーレは人間という生き物を知り尽くしている。薄い空気でハイになった人間の限界もよく知っている。この山地には人が溺れかねない深い湖もあるが、辺境の竜の乗り手のあいだには「空で溺れるな」という警告の方が意味がある。
俺は喉にコツコツあたる竜石に手を這わせる。トゥーレが吐き戻してくれたものだ。竜に関しては、辺境の竜乗りの〈法〉は帝国で使われる〈法〉とはちがう。帝国のやり方では竜を完全に地図化しないと飛ぶこともできないらしい。竜石を使うやり方は帝国には〈異法〉と呼ばれるらしい。俺は山地へ向かって降りるようトゥーレに頼む。そう、竜には命令するのではなく、願わなければならない。
老竜は安心したようだった。下降の途中で薄い雲の層を素早く抜ける。下界は晴れている。山肌が細かく見えるまで降りた時、チカッと光るものが見えた。喉のあたりが熱くなる。地表に露呈した鉱脈に竜が反応し、それを受けた竜石も反応している。
哨戒飛行でなければ――そんな考えが俺の胸のうちをよぎる。このまま降りて鉱脈を探したい。道具もあるし、谷の連中は気づかないんじゃないだろうか? 哨戒飛行といっても、このごろは居場所がないから出ているようなものだし……トゥーレも賛成するかも……
誘惑に負けそうになったときだった。視野の隅でまた何かが光ったが、鉱脈の反射とはちがうものだ。もう一度竜石に手をやり、トゥーレに高度を上げるよう頼む。仕方ない、というように竜の眼が動き、翼を力強く羽ばたかせる。俺は下界から見えないように竜の背にしがみつく。帝国軍のような金属の装具を使わなければこんな芸当が可能になる。
トゥーレは勝手知ったる様子で峠のはるか上を旋回し、俺は翼のあいだにはっきりとみた。帝国軍の地上部隊だ。
一年前なら夕暮れとともに明かりがみえたが、いまはそんなことはない。俺は音を立てないようひっそりと戻り、隠された入口から岩場へ潜る。一瞬、ここは打ち捨てられて誰もいないのではないかと思うが気のせいだ。みんな奥の「集会所」にいる。
人の数が減った谷で、最初は一時的な避難所だった岩場に住民を集め、事実上の指導者となったユルグは父の親友だった。彼が夢で神の言葉を聞いたといい、神の言葉に従って――と本人はいった――諸事を進めるようになってから、俺はだんだん居心地が悪くなり、居場所をなくしたように感じていた。
ユルグの集会に行けばいいのかもしれない。でも、タキが……何度か集会に参加して、得体のしれない痕をつけて戻るのをみて、俺はすっかり怖気づいてしまった。
(エシュも集会に来るんだ)
(あそこで何をしてる?)
(祈りの儀式さ。指導者は神と直接話ができる。神の命を受けた英雄が竜を殺すという帝国の神話は間違っているんだ。神と竜は合一するもの。儀式はそのためのものだ。来ればわかる)
タキの誘いを断ったのは、俺のくそったれな前世が邪魔をしたからにほかならない。カルト化、という言葉が頭に浮かんで離れなかった。十一歳で二十八歳の男の記憶に覚醒して以来、俺は転生前の自分には受け入れられない信仰と格闘してきた。黙って慣習に従うのはいい。だが、積極的に参加するとなると……
タキは小さくため息をついて俺をみた。失望したのだろう。やがて彼は俺と一緒に眠るのをやめた。
ユルグがことあるごとに俺を目の敵にするようになったのはそれからだ。人前で俺が義務を果たしていないと叱りつけ、罵るようになった。俺にはさっぱり理由がわからなかった。集会に参加しないからといって、彼に反抗しているわけではない。毎日の生活の義務も、帝国軍を警戒する義務も怠っていない。
もしかしたらユルグは俺のなかの不遜な態度を見抜いていたのかもしれない。何しろ俺はユルグが「神と話した」体験を語るたびに思い出さざるをえなかったからだ。ユルグにお告げをくれる者が神ならば、俺だって……
俺の夢にあらわれるあれが何なのか、俺には確かめようもない。しかしあれは因果を左右できるとみずから語り、別の時空間で生きていた意識をこちらへ連れてきたのだ。そんな存在を神と呼ばずに、なんと呼べばいい?
疑問や釈然としない思いが増殖していたのは、父が死んだせいもあった。この世界で十四歳になったばかりの俺は二十八歳で死んだ記憶を持っているが、それでも寂しかった。タキが触れてこなくなって、俺はますます孤立感を深めた。竜をあつかう技術だけは一人前、いやそれ以上とみなされていたが、ときおり不穏な思考が頭をかすめた。
帝国の攻勢はゆるむことがない。彼らは計画を立て、ゆっくりと俺たちの山を包囲しつつある。彼らは俺たちの方法を否定する。しかし俺たちは全面的に正しいんだろうか。
ともあれ今は報告しなければならない。気が進まなかったが、通路の奥でざわめきが聞こえて、集会が終わったのがわかった。話すのはユルグではなく別の大人がいい。俺の話をまともに聞いてくれそうな大人。壁際に隠れるように立ち、集会所の中をのぞきこむ。と、ふいに腕を引っ張られた。
「エシュ、何してる」
シャナンだった。ここ一、二年のあいだに急に背が伸び、肩幅も広くなった。俺を見下ろす視線はきつかった。これもユルグの影響だろうか。
「哨戒飛行から戻ったんだ。報告を」と俺はいう。
「俺が聞く。指導者は忙しい」
「いそいで知らせないとだめだ。帝国軍が近づいてる。上から見たんだ。あの距離だと明日の朝にはここへ――」
慌ただしく喋ろうとした俺をシャナンは急に制した。声は硬かった。
「ひとりで飛んだのか」
「そうだよ。最近は――」
「ひとりで飛ぶなと、指導者が今朝告げたのを聞かなかったのか?」
「今朝? 俺は聞いていない」
「おまえは朝の集会に出ていないからな。誤った道の使者があらわれる――と」シャナンはふいに口をつぐんだ。「まさか」
「シャナン?」
「そこにいろ」
俺はシャナンが集会所の奥へ歩いていくのをみていた。嫌な感じがした。ひとりで飛ぶなとはどういうことだろう。集会所は黄色い光に照らされ、香の匂いがたちこめている。俺の視界をふさいでいた大人たちが割れ、シャナンがユルグと話しているのがみえた。俺のいる方向をシャナンが指さし、ユルグがふりむく。
また嫌な感じがした。
俺はすばやく壁際を離れた。居室へ向かう人のあいだを縫うようにして通路を早足で抜け、四つ足竜の厩へ向かう。子供のころから眠れないときにまぎれこんでいる場所だが、いつもはおとなしい四つ足竜たちが今夜はなぜか浮足立っている。
クウクウと落ち着かない声で鳴き、足を踏み鳴らす彼らの間にも居場所はないようだった。俺は厩の裏側から岩山を抜けた。外気の中へ踏み出して、最初にみえたのは宙を羽ばたく竜の翼だった。金属のきらめきが降ってくる。帝国の連中は夜間飛行のとき、竜にまで灯を装備するのだ。
何もかも遅すぎた。次に俺を照らした光のしたで、意識にのぼったのはそんな言葉だった。
*
帝国軍のベッドの質は悪くない。いや、なんだかんだいっても帝国の装備はどれもそれほど悪くない。
俺は横たわったまま兵舎の天井を眺めている。制圧作戦に同行していたルーに拾われ、帝国に連れてこられたのが十四歳のとき。彼の養子になり、帝国臣民となって十四年。
あわせて二十八年、ちょうど二分の一ずつだ。二十八はこの世界にいる俺の年齢だが、同時に前の世界で俺が死んだ年齢でもある。
二十八歳。今日俺はアーロンに再会した。そう、たまたま、空の上と竜の厩舎と、どういうわけか二回も。
俺は頭の下で手を組みなおした。アーロンだけじゃなく、アルヴァと会うのもひさしぶりだったのだ。それもアーロンのおかげで台無しだし、アーロンはアーロンで――くそっ。
尻の下でベッドが弾んだ。
たとえ辺境であろうとも、ひとたび帝国の領土になれば、兵士に提供されるのは標準化された快適なベッドだ。少年のころ使っていた薄い布団とは比べものにならない。誰かとセックスしたいなら厩ではなくベッドの方が快適だ。寄宿制の予備学校も士官学校も軍大学も、設備の手厚さにかけては文句のいいようがなかった。
やれやれ、今度はアルヴァをこっちに誘うか。俺はやけくそ気味にそんなことを思った。軍勤務の民間人を兵舎に連れこむのは立派な軍規違反だし、あっちから断るだろうが。
アーロンが厩舎を訪れたのもたまたまなのだろう。
とはいえ俺はすでに偶然というものを信じなくなっている。なぜかって? この世界には「神」がいるからだ。アーロンの父と親しいルーが俺を拾ったのは偶然か? 帝国軍の急襲で谷はめちゃくちゃになった。あの混乱のなか、ルーはどうやって俺をみつけたのだろう?
(おまえは妙な光を発していたんだ。光は指輪から漏れていた)
最初に話をしたときルーはそんなことをいい、体をこわばらせて父の指輪を握りしめた俺に安心させるように笑った。
(安心しなさい。取り上げたりはしない。でもおまえは帝国に来なくてはならない。我々は〈法〉を野放しにはできない)
たしかに俺は野放しにはされなかった。今では立派な帝国軍人だ。いささかズレているかもしれないが軍人であることに変わりはないし、軍人とは上の命令に従うものだ。〈黒〉がアーロンの指揮下になるのなら、明日からいったいどうなることやら。
俺はあくびをした。今夜は夢を見たくなかった。
「神」は俺が薔薇園でアーロンに出会うまで、夢で執拗にお告げをよこした。
お告げというのはつまるところ、ほとんど反論不可能だった前世の上司の小言みたいなものだ。毎度似たようなことしか話さないのもお告げと小言の共通点である。こっちは聞きたいことがあるのにたずねる隙を与えてくれないのも。
ずっと不思議に思っていることがひとつある。どうして俺は「英雄」になれと告げられたのか。
帝国で英雄と呼ばれるのは竜を殺した人間だった。どちらかといえば俺には竜の役を振るべきだろう。英雄にふさわしいのは、あいつの方だ。
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