第1部 竜の爪を磨く 9.敏感な採集者

1/1
前へ
/122ページ
次へ

第1部 竜の爪を磨く 9.敏感な採集者

 黒みがかった巨木の森の中心を幅広の道路が十字に区切っている。道路で区切られた区画の内側にはカーブした細い道がらせん状の模様を作っている。高所をゆっくり飛行する竜の背中から見下ろせば、巨大な緑色の包装紙に白いリボンをかけたようにみえなくもない。ロマンチックな表現だが、森と道路をこんな風にたとえたのは俺ではなくアーロンだった。軍大学の学生だったころだ。 「エシュ、まだか?」  通信機からティッキーの声が流れた。頭の回転が速く、同じくらい気も短い〈黒〉の古参だ。今は俺の竜の真下を飛んでいる。 「慌てるな。巣からモグラを叩きだすまで我慢しろ」  俺の答えにちっと舌打ちのような音が戻ってくる。出動中の他の連中――ティッキーの前後左右にいる――は何もいわなかった。 「萌黄のやつら、トロすぎるぜ」 「得意の急降下がやれるんだ。いいじゃないか」  不満そうなティッキーにそう返したとたん、遠距離チャネルが開いた。 『こちら司令部。ヴェーダ〇七、すぐに採集を開始してくれ』  アーロンの声だ。ヴェーダ〇七はこの作戦における俺のチームのコード名で、続く言葉は作戦暗号だ。アーロンの語調はきびきびして聞き取りやすかった。 「こちらヴェーダ〇七、了解した。採集開始。降下する」  俺はチャネルを切り替える。 「全員、全速力で目標へ降下する。獲れるだけの〈地図〉をかっさらえ。新種が登場した場合は即時の再地図化を許可。行くぞ」  待ちくたびれていたティッキーの反応はいちばん早く、部隊員が全員すばやく彼に続いた。俺の竜、ツェットの背中がブルっと震える。恐怖からではなく、冷たい空気を突っ切る直前の筋肉と皮膚の反応だ。俺はハーネスを握りしめ、鞍にまたがる両足を引き締める。翼の羽ばたく音が両耳を覆い、天と地が反転するかのような勢いで空が動き、竜の一群は白いリボンが交差する緑の大地へ舞い降りる。俺の唇は勝手に笑いを形づくる。竜の首にしがみつき、空から全速で突入する瞬間が好きだった。たとえその先で戦闘が待っているとしても。  黄金が直接指揮に入ってから、反帝国組織のモグラたたき作戦は順調に進行していた。司令部の置かれた基地を中心に、反帝国が〈地図〉を奪取した地区へ混成軍団がランダムに電撃出動し、叩いては基地へ戻る、をくりかえす。  軍団の出撃は広域にわたる一方で〈地図〉を持つ反乱者は柔軟に対抗したから、当初それは反帝国に有利なゲリラ的消耗戦のようにみえた――が、アーロンの意図はべつのところにあった。目的は地区の完全制圧ではなく、ひとつの拠点が叩かれるたびに水が流れるように移動する「虹」の正体を掴むことだった。  作戦がはじまって二週間たち、作戦は第一段階の分散陽動から第二段階の掃討局面へ進んでいた。簡単に陥ちる拠点もあれば、数度部隊が投入されても頑強に抵抗する拠点もあるが、予想の範囲内に収まっている。  第一段階で〈黒〉は偵察のほか、各軍団から持ち込まれる〈地図〉の解析や修復をこなしていただけだったが、掃討戦がはじまってからは小隊単位で〈地図〉の獲得に駆り出されていた。大半は予定通りの戦闘だから、各自の法力を回復させるため〈黒〉は厳密な交代制を組んでいたが、俺は現場に出ない時もコントロールのイヒカにこき使われていたし、反乱軍に即応した急な出動も二度ほどあった。――まあ、急といっても、今日の出撃メンバーのティッキーにいわせれば全員「トロすぎる」らしいが。  帰投したときはとうに日没を過ぎていた。簡易報告をすませたあと、わずかに息をつこうと俺はいったん作戦室を出て、廊下の端に口を開いているいちばん近い穴ぐらに足をむけた。物置を改造したような細長いスペースの右半分を埋めるようにカウンターが伸びている。奥まで進んで空のカップに手を伸ばしたときだった。 「モカ?」  うしろからかけられた声に俺はうなずく。ふりむかなくても相手が誰なのかわかっていたし、ふりむいたときはもう、カウンターに置かれたカップに湯気のあがる黒い液体が注がれている。 「砂糖もミルクもいらないんだったな」とアーロンがいった。  俺は軽く肩をすくめる。「よく覚えているな。おまえはミルクだけ?」  アーロンが答えるまで不自然な間があった。 「そっちこそ――……今日の作戦、見事だった」  俺はまた肩をすくめる。「どうも」  司令部の作戦室には飲み物を持ちこめないルールだ。休憩は別室で、というわけで、この部屋にはいつでも温かい淹れたてのモカが飲めるカウンターが設置されている。モカ、つまりカップのなかの香ばしく苦い液体は前世で「コーヒー」と呼ばれていた飲み物によく似ている。  香りも味も似ていれば、覚醒作用があるのも同じ、飲みすぎると胃や膀胱に負担がかかるのも同じ。おまけに「モカ」という名称もコーヒーの品種名とほぼ同じ発音だし、このカウンターはコーヒースタンドにそっくりだ。おかげで俺の口からはうっかり「コーヒー」という言葉が飛び出しそうになる。これまではそんなこともなかったのだが、最近よく間違えそうになる。なぜか頻繁に前世のことを思い出すからだ。  前世の俺――死ぬ間際の俺は典型的なカフェイン漬け人間だった。  ここ数年の間に理解したのだが、どうも「前世の記憶」は今世の身体に強く連動する部分があるらしい。だから覚醒して数年経っても、すぐに忘れてしまう記憶(たとえば前世で子供だったころ)と、今の自分の状態と重なって逆にはっきり思い出す記憶(徹夜で仕事を片付けている自分!)がある。  じつをいうと数年前まで、俺にとって典型的な前世記憶の引き金はセックスだった――が、刺激物や嗜好品、強い香りも引き金になる場合があった。どうも前世でそれらの味や香りに強烈な印象を受けた年齢や状態と今の俺が近いほど、よりあざやかに記憶がよみがえるらしい。  だから最近、俺がコーヒー――いや、モカを飲むたびにある場面をくりかえし思い出すのも、前世の俺のせいなのだろう。俺は薄暗い電灯に照らされた長い廊下の端にいる。白く堅いベンチに座り、片手で紙コップを握っている。窓からみえるのは人工照明に照らされた薄明るい夜空だ。何杯コーヒーを飲もうと疲労が抜けないのはわかっているが、飲まずにはいられない。  俺のもう片方の手は、手のひらにおさまる小さな機械のなめらかな液晶画面をなぞっている。窓の外の夜とおなじ色をした画面に葉脈のような緑色の筋が走り、その中に青い点がひとつ寂しそうに立っている。あの拠点(ポータル)を守らなければ、と俺は思う。まったく、どうしてまた……  しかし今の俺が手に持っているのは紙コップではない。陶器の白いカップをみつめ、俺は脳内の景色から意識をそらした。アーロンは立ったまま二歩程度の間隔をあけてカウンターにもたれ、白いカップに鼻先をつっこんでいる。俺も同じ姿勢でカップの中の液体を吹く。カタンと音が聞こえる。じっとしていられずに横をみると、アーロンはカウンターにカップを置き、眉間に小さな皺を寄せている。カップの中身は真っ黒だ。俺は眉をあげた。 「ミルクはどうした?」 「あいにく品切れらしい」 「〈黄金〉がはるばる来たのに品切れか」 「誰が司令部に来ようが品切れは品切れだ。だいたい、明日には入る」  俺は用心深くカップに鼻を近づける。アーロンはここに〈黄金〉の部下二人と到着したが、部下は分析や書類作業に忙しいらしく、司令部のアーロンは一人でいることが多かった。軍大学時代のように周囲につきまとう者はいない。  金魚のふんのような腰ぎんちゃくが必要ないのはけっこうだが、俺にとってはあまり都合がよくなかった。手ごろな緩衝材になる人間もいないまま狭い空間で二人きりなんて、ごめんこうむるというものだ。モカをさっさと飲み干して立ち去りたいのだが、あいにく俺は猫舌ときている。アーロンはアーロンで、妙な威圧感をかもしだしながら堅苦しくカップを握っている。俺は視界のすみであいつをうかがう。  何かいいたそうな気配がある――ような気がする。  いや、気のせいだ。それにしてもこの沈黙の居心地悪さはどうだ。俺は当たり障りのない話題を探した。「当たり障りのない話題」ナンバーワンはこの世界でも天気の話だ。 「そういえば最近の気温はかなり――」 「例の〈地図〉の報告だが――」  タイミングが悪かった。俺たちは同時に口を開き、同時に黙った。アーロンがぎこちなく俺をみて、俺は俺で我ながらわざとらしく視線をそらす。慎重にモカをなめてから、また口を開いた。 「地図についてはうちの専門官がいま――」 「そうだな、気候変動期はまだ――」  俺たちはまた黙った。下手くそな喜劇でも演じているようだった。ありがたいのはやっとモカが飲み頃になったことだ。ようやくまともにカップに口をつける。とたんに「今も冷ますんだな」とアーロンがいった。  笑われたような気がして俺は視線を戻したが、アーロンは真顔のままだった。 「このくらいぬるい方が香りも味もよくわかる」 「そうか?」 「俺にいわせれば、ミルクを入れる方が邪道だ」 「今は品切れだ」 「ずっと品切れでいいかもな」  アーロンの眉がかすかにあがる。昔よりも表情が堅くなった気がするが、こいつがくそ真面目なのは十四歳から変わらず、それがいまや〈黄金〉のひとりとして作戦指揮をとっているんだから、へらへらされても困りものだ。ぬるいコーヒー、いやモカをこくこくと飲み干したとき、シュウが穴ぐらの端から顔をのぞかせた。 「エシュ! できたぞ!」  俺はほっと息をついた。 「遅い。待ちくたびれた」 「悪いな、いろいろとこみいってて」  弾丸のように話を続けようとしたシュウだったが、アーロンの姿を見て黙った。 「すぐ行く」俺は急いで飲み干したカップをカウンターに戻し、作戦室の方向へ指で矢印をかたちづくる。 「俺も戻ろう」  背後に聞こえたアーロンの声は低いつぶやきのようだった。大股であとをついてきたのがわかったが、俺は足を速めてシュウに追いつく。 「……この進化発達系統を考慮すれば、他にも変異を受けた〈地図〉が必ずある。これが、ここまでの説明の結論です。なお、予想される〈地図〉は先に帝都で押収された系統と酷似したものですが、現在進行中の作戦で収集中の竜〈地図〉の系統からは大きな開きがあります」  空中に投影された図形と記号に指をふりながらシュウが断言した。 「帝都で押収された系統と酷似、ということは――」  そういったアーロンのあとをイヒカが引き取る。 「もしその変異体がみつかれば「虹」の関与の証拠になる――可能性がある、ということだね」  作戦室にいる人数は両手で数えるのに足りる人数だった。アーロンと部下がひとり、イヒカ、俺、シュウ、それに萌黄と紅の師団長だ。シュウの報告は、俺と二人で出動したとき再地図化した竜の精査の続報だった。〈精髄(エッセンス)〉を再解析した結果、他にも別種の変異体が誕生している可能性があり――つまり帝国が把握していない〈地図〉が存在している可能性があり――それは帝都に「虹」の存在が知られるきっかけとなった、ある竜の〈地図〉とおなじ系統に属するはずだ、というのだった。  シュウはこんな面子を前に自分の調査結果を披露するなどはじめてだろうが、臆することもなくやってのけている。専門家としての矜持は誰にも負けない――〈黒〉にいる人間には全員そんなところがあって、だからイヒカは平然と部下を中枢会議に参加させている。 「今集めている〈地図〉の系統から開きがあるというのはどういうことだ」 〈萌黄〉の師団長が不満そうに口をはさむ。シュウの報告が「虹」に直接つながる可能性があるだけに、現在進行中の作戦――萌黄は主力の大半を占めている――とあまり関係がないのが気に入らないのだろう。 「そもそも変異体の新種を確認することが稀ですから、これについてはお気になさらない方がよろしい」  イヒカがおっとりした口調で返した。 「我々〈黒〉は年がら年中〈地図〉と睨みあっていますからな。今回は幸運なのです」  その通りだ。〈地図〉を弄って作られた種がまったく新しい変異体になることは稀で、たいていは亜種に留まる。それでも再地図化は必要なのだが、前の偵察出動で俺が再地図化した新種はいささか事情がちがっていたのである。シュウと二人で出動した時を思い起こして、ふと俺はひっかかるものを感じた。何か――忘れていることがあるような気がする。  一方、シュウは萌黄や紅の長たちの表情などまったく気にしていなかった。 「相手は生き物ですからね。かなりでかいはずです。安易に変異体なんて作れるもんじゃない。暴走することだってある。それに誰も見たことのない生きたでかい竜は簡単に遠くへ逃がせない――目立ちすぎます。成層圏を飛べるなら別ですが、そんなことを可能にする変異は起きえません。まだ近くにいるはずです」  投影図の周囲がしんと沈黙したが、ほんのわずかな時間だった。アーロンが簡潔に結論を出した。 「変異体の〈地図〉を入手した制圧作戦の内容と、該当地区をもう一度洗いなおす必要がある。その上で再度、予想される新たな変異体の〈地図〉を探索、奪取する。今展開している作戦と並行して行う。「虹」の関与があるにせよないにせよ、この件で動いていることを反帝国に悟られてはならない」 〈萌黄〉の師団長が鼻を鳴らす。「誰がやるんだね?」 〈紅〉の師団長がゆっくりした口調でたずねた。「アーロン、今回はきみが立案した作戦だ。反乱軍には一度我々が満足して退いたとみせ、五日後に第三段階をはじめる。その前に済ませるのか?」  アーロンはきっぱりと手を振った。 「本件は私の指揮のもと極小部隊を編成します。イヒカ殿?」  アーロンの声にイヒカが眉をあげる。いつもと変わらず飄々とした顔つきだが、眸に一瞬うかんだ表情がなぜか気にかかった。もっとも、アーロンが続けた言葉に仰天して、あっという間に忘れてしまったのだが。 「第三段階を開始するまでの空白に〈黒〉の副官をお借りしたい。今回は私も出ます」 「え?」  俺はうっかり妙な声をあげたかもしれない。あわてて唾を、というか言葉を飲みこんでイヒカをみたが、向こうはいつもと同じ飄々とした得体のしれない眼つきで俺を見返しただけだ。そればかりか、うっすら微笑を浮かべているような気さえする。 「ああ、了解した。黄金のアーロン」  イヒカは足を組みなおした。無意識の動作なのか、片手で膝を撫でている。 「何しろ我々は現在、きみの直接指揮下にあるわけだからな。エシュをよろしく」
/122ページ

最初のコメントを投稿しよう!

999人が本棚に入れています
本棚に追加