角砂糖

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「よお」 上から落ちてきた声に顔を上げた。脱色した髪を春風に揺らして彼は立っていた。 「わざわざ呼び出してごめんね」 「いいよ別に。大学の空きコマだし」 金属の擦れる音を立てながら正面の椅子を引き、彼も私と同じブラックコーヒーを頼んだ。私はすっかり冷めたコーヒーカップを握る。彼の視線から逃れるようにミルクを垂らすと、黒い水面がゆっくり白く渦巻いた。 「久しぶりだね。元気にしてた?」 沈黙に耐えられなかったのは私の方だった。彼は真っ直ぐ私の目を見て口を開く。 「ぼちぼち。別に勉強に一所懸命なわけじゃないし」 「そっか。わたしもそうだった」 再び沈黙が訪れる。意味のない延命。 少し強い風に目を瞑る。落ち着いてから目を開けると彼はまだ私を見つめていた。どこまでも黒い瞳が私を射抜いていた。 分かっている。本当はこんなことを言うために呼んだんじゃない。ミルクはまだ少し揺れている。 「あのね、」 「楽しかったよな、前に横浜に行ったとき」 言葉を塗りつぶすように遮られる。 「ジェットコースターに乗ったり、小籠包を買い食いしたり、フェリーに乗ったり。すげえ楽しかった。それって俺だけ?」 「私も、楽しかったよ」 「俺は今まで付き合った人がいなかったから全てが新鮮だった。好きな人と歩くのってこんなに楽しいんだ。歩幅を合わせるのって案外難しいなって。手を繋ぐのって安心するんだ。子供らしくて安っぽい感想だけど、全部が新鮮だったよ」 ふと彼が手元のコーヒーに目線を落とす。いつのまにか来ていたようだ。 そこに角砂糖が一つ落とされた。 沈黙の中で角砂糖の角が崩れていく。水面に浮く角砂糖はどんどん小さくなっていった。それはまるで私達のようだった。熱に灼かれて静かに消える。 「私のことを、まだ責めているよね」 ついに核心に触れた。深く深く心の奥底にしまっていた箱を開けた。中身はとても見せられたもんじゃない。 「正直俺も分からないんだ。悲しいのか怒っているのか虚しいのか。決めるにはあまりに突然過ぎた」 そう、突然。 私は何も言わずに彼の前から消えたのだ。 横浜のあの日を最後に。 次に彼に会った時は、数年後の私の結婚式だった。今から思えば、よく参列してくれたなと思う。招待状を送る前、きっと破り捨てられると思って紙を何度も撫でた。私の身代わりになる罪悪感を消すように。その紙は破られずに役目を果たしたようだけれど。 招待状を送ったのは私のくせに、彼が来ないことを願っていた。探さないようにしていたのに気づけば視線は式場をさまよっていて。彼と目があった時の焦燥感。涼しい季節なのに、汗だくの背中は芋虫が這いずり回るような不快感だった。貼りつけたような笑顔は醜かったに違いない。 糸を張ったような沈黙が続く。 私はつくづく酷い女だ。直接真実を口で伝えるのが怖くて、それで式に呼んだ。 彼はきっと気づいている。喜劇のような馬鹿げた真実に。 お互い黙ったままでいる。 なんとなく察し合っていた。真実を口するのは無粋だということを。 「まだ授業あるし忙しいでしょ。時間は大丈夫?」 「あまり余裕があるわけじゃないかも。長居はできない」 「いいんだよ無理しなくて。あなたの顔が見れただけで充分だから」 目頭が熱い。 だめだ。泣くな。耐えろ。 「うん、そろそろ行くな。…あとさ、俺達ってもう普通だよな?」 彼はひとりぼっちの目をしていた。 「…普通だよ。普通に、私はあなたのことがずっと好きだよ」 私が言うと今度は安心したように笑って彼は席を立った。最後にヒラリと手を振って。 私とよく似たその目元で。 偶然誕生日が同じだって、嬉しくなって一緒に祝ったね。 血液型も一緒だから占いの結果も一緒だって笑ったね。 わたし、出身地も一緒だって知って驚いちゃった。 生き別れの双子だなんて、今時そんな話ある? 馬鹿じゃないのって、笑い飛ばせればどんなによかったか。 私達を強固に結びつけ、そして隔てる呪いの血だ。 私が気づかなければきっと今頃も幸せだったのだろうか。お父さんに知られなければ、引き裂かれるように結婚させられることも無かったのだろうか。 そんなこと今となってみたら何もわからない。 私たちが惹かれあったのは自分の生き写しを相手に感じたからかもしれない。半分欠けた空虚心を埋め合わせるように寄り添って。 一つになって。 その時ようやく本当の自分になれた気がしたのに。 残されたのは私と一杯のコーヒー。 思い出したようにコーヒーカップを握ると、すっかりミルクは溶けきっていた。
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