真夜中に猫とビター

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 別れの後の午後は穏やかで、反面、妙に風が生ぬるいのが不快で、イライラしていた。 もっと色々あるかと思っていた。三年半という時間を一緒に過ごしたのだ。幕引きはこんなに薄いものなのかと驚いた。  私は、それほど恋愛経験が乏しい訳ではない。むしろ逆で、それなりにある。 好き合っていた者同士が道を分かれて、別々の人生を歩いていくという事はメルヘンではないことを知っている。それよりも、もっと色々なことを器用に知っていたはずだ。  孝二はどうだったのだろう。歳は私より僅かに二つ下だが、それなりにあったのではなかったか。私が孝二の知らない夜を幾つか過ごしてきたのと同じように、孝二もまた、私の知らない夜を幾つも越えてきたに違いない。  出逢った相手のそれまでの人生なんて、世の誰も気にしていないし、考えることではない。それらしく関与すべきでもない。 恋愛の線引きは心得ていたはずなのに、別れた途端に気になり始めた。しかし無駄なことだった。 後の祭りで、すべてはとうに終わっている。もう済んだことなのだ。 私も孝二も、いまやお互いの過去でしかない。  考えているうち、頭がぐにゃぐにゃとしてきて、最終的に脳ではなく身体が私を支配した。  身体に支配されている間、私はそれに素直に従った。結局のところは、身体が大概のことを知っているのではないか。仕事にしても、セックスにしても、全部、身体がインプットしている。 十代の頃は違ったはずだ。もっと瑞々しかった。この十年で、心が一気に弾力を失ったのかもしれない。 私も、孝二も、きっと渇いている。  いつの頃からか、私は体の良い暇つぶしを覚えた。責任もなく、ただ手首を少しひねっているだけでいい。人と必要以上に関わることもなく、何も考えずに済む。 カニ、カニ、カニ、エビ、エビ、エビ。目の前で忙しく回転する絵を目で追うだけで、運が良ければ財布にお金が戻り、上手くいけばお金が増えた。増えたら増えた分だけまた暇つぶしが出来るので、調子が良い日は朝から晩まで時間を潰すことが出来る。 そういう日は、映画を観たり旅行に行ったりするよりも、ずっと画期的で効率が良い。  身体が私を支配して、私に足を運ばせたのは梅田駅前に新しく出来た店で、入り口には開店祝いの花輪がズラッと並んでいた。   普段は良くて五分五分の確率だというのに、今日という日に限って、何故か延々と絵柄が揃う。もはや時間の問題だった。  体の良い暇つぶしは、私の意志で当たりを引くことは出来ないが、私の意志でハズレを引くことも出来なかった。ただぼんやりとして手首をひねっている間に、私の意志を無視して、あっという間にドル箱が積み重なっていく。  結局、オープン仕立てのその店の雰囲気もロクに味わう暇もなく、私は店を出ることとなった。 いっそのこと、手持ちの金が全部、泡と消えてしまうくらいに打ちのめされたかった。 自棄なのか、そうでない別の何かなのか。とにかく心は決して穏やかではなかった。何か、強烈な振動が欲しかったのだ。孝二を喪った私を震わせ、もやもやを吹き飛ばしてくれる振動を、私は根拠もなく待ちわびていた。  北新地が活発になり始める時間帯になっていた。空はまだうっすらとしてオレンジと紫色を帯びていたが、十分も歩いていると、直ぐに暮れた。 無駄な金が出来てしまったので、普段滅多に足を運ぶことのないところで、飲み明かしてやろうと思ったのだ。  客引きをかわしながら歩いていると、猫が一匹、私の前を横切った。一瞬私をチラ見して、それから直ぐに雑踏の中を器用にすり抜けていく。少し青味の掛かった珍しい毛並だったので、私は猫の後を追ってみた。  猫は、この通りに幾つか点在する、より狭い路地裏へと入っていった。その細い路地はきっとどこかでつながっていて、それ自体が「もう一つの通り」なのではないかと思った。どういうわけか、私は路地裏が好きだ。  地元の豊中で高校を卒業した後、東京の大学受験に失敗した私は、そのまま今日までずるずると曽根崎に根を下ろしている。 文学が好きだったので文学部を志望した私は、早稲田は勿論、ここなら大丈夫だろうとタカをくくっていた國學院にも失敗し、失意の中、大阪へと戻ってきた。当てつけのように曽根崎に住むことに決め、二十三で今の会社に就くまでの間は気ままにフリーターを続け、その時の私は毎晩のようにお初天神を歩いた。  歩きながら、自分は「お初」だと言い聞かせていた。曽根崎心中のお初。濁っているけど、渦中は実際には綺麗な花の形をしている少女。報われないことが一つのステータスだと、バカな事を思っていた。若さとは、へこたれないエネルギーのことだ。  猫を追って路地裏に入って直ぐ、私は右手に奇妙な店を見つけた。タバコ屋商店のような外観 で、居住スペースと思われる二階の窓の下にピッタリはまるような形で、古めかしいネオンライトで「パチンコ」とだけ銘打たれた看板が設置されている。  一体、いつからここにあるのだろうか。建築仕様も木造で、近年に建ったものではないことだけは確かだろう。高級クラブや飲み屋が乱立するこの通りの陰で、ひっそりと時代を流れ続けて来たかのようなその店に、私はしばらく見惚れていた。  鳴き声がして足元を見ると、あの猫がいた。猫は店の中に入ってしまい、見ると、正面扉は未だ開け放されていた。 パチンコホールなら、勿論まだ閉店するような時間でもない。しかし、正面から見た限り店内は薄暗く、明かりも見えない。 看板も、設置されたそのままで、ちっとも眩しくなかった。 しかし、こんなところにこんな店があるとは知らず、興味は音を立てて湧き上がってくる。 「ごめんください」 私は、思わず訪ね人のような声を出した。すると、しばらくして明かりがつき、奥から老婆がひょこひょこ歩いてきて、私を見るなり一言「遊んでいくかい?」と言った。  パチ屋の女主人というより、どこかの占い師みたいな雰囲気があった。実際、こういう路地裏に店を構える占い師はよく見かける。 「まだやってるんですか?」 「滅多に人が来ないから、勿体ないんで消してただけだよ。こんな時間に早々に閉めるパチンコ屋があるもんか、ここは夜からが本番だよ。何する?」  私は、スロット台はあるかと聞いた。こんな古めかしい店にスロット台が置いてあるのかどうか疑問だったが、老婆が指差す方を見ると、少し汚れてはいるがスロット台があった。 案内されるがまま、席に着く。かび臭い店内には景品交換所のようなところは見当たらず、両替機も無い。少しだけ後悔したが、ちょっとだけやってみようという好奇心が勝って、私はいつものように回し始めた。 「うちはたいしたもん出せないよ」  横から老婆が声を投げ掛けてきたが、どうでもよかった。最初から、儲けようなんて思っていない。 ほんの少し気まぐれに従って、適当に切り上げて帰ればいい。それから、渇きを誤魔化してくれるお店を探して、この金を湯水に流してしまおう。 そんなことを考えながらぼんやりしていると、けたたましく音が鳴った。台の音だった。小一万といかずに、揃ったらしい。  カニとかエビとか数字とかではなく、絵柄は全部猫だった。今揃っているのも猫の絵柄で、白い猫が三つ横に並んでいる。 そういえば、あの猫はどうしただろうか。ここで飼っている猫なのだろうか。 「おや、当たりだね。景品を持って来ようかい」  ここのスロット台は、メダルが増えて景品交換を行うわけではないようで、絵柄が揃えばそのランクに見合った景品が渡される仕組みのようだった。 昔はそういう仕組みだったのか、ここだけそうなのかはわからないが、どうせしょうもないものなら小ざっぱりしたものがいい。  やがて奥から出てきた老婆は、私の前に猫を一匹差し出した。あの時の猫だった。 「猫?」 「そうだよ。不服かい?これは良い猫だよ」 「ここは生き物を景品にするんですか?こちらのペットじゃないんですか?」  信じられないという顔で老婆にあれこれ言う私を尻目に、ひょうひょうとして老婆はのらくらと言葉をかわし続けた。  別に飼っているわけではなく、いつからか此処に居ついてしまったらしい。何度放り出しても戻って来るので、景品として誰かに引き取らせようという魂胆のようだった。  呆れている私を気にもせず、老婆は猫の両前足を持って私に差出し、結果、私はその店を放られるように出され、猫を抱えて路地裏にポツンと立つという奇妙な構図になった。 私の借りているアパートはペット禁止なので、部屋では飼えない。何か考えて誰かに引き取ってもらわないと、捨てたりすると色々とルールに引っかかる。 かと言って、保健所に差し出すのではあまりに忍びなかった。  人は何かを手放す時、どんなことを考えるのだろう。どれほどの覚悟を持って、それまで大切にしてきたものと決別しようとするのだろう。 自分の意志でそうする人は、多分幸せだ。自分で決めたことほど価値のあることはない。けれど、きっとみんながみんなそうではない。余儀なくされる人もいる。 本当は身を切る思いで手放して、そして後悔する。それは、きっと不幸だと思う。  私は、恐らく後者だ。でも、孝二もあの老婆も、きっと前者だろう。いらなくなったか、初めから不必要だったのか、とにかく、要らないと判断して手放したのだ。  私とこの猫は、どこか似ている。  猫を抱き、もと来た路地裏を引き返しながら、明かりの消えた飲み屋の看板を眺めていた。 高級店が津波のようにここに押し寄せてからは、かつて賑わっていたであろう庶民派のお店は、節約のために早期閉店をするようになったのだろうか。来たときは点いていたが、もはやほとんど近辺は薄暗闇と化していた。  猫を抱いたまま入店するわけにもいかず、鬱憤晴らしが出来る店探しはままならなかった。どうしたものかと考えながら歩いていると、猫はふいに飛ぶように私の腕から離れ、アスファルトを踏んだ。 またしても裏路地へと入っていく。放っておこうかとも思ったが、どこかで歯止めがかかった。 猫を追って裏路地へ再び入る。その路地は、どの路地よりも飛び抜けて「古い」外観だった。  それこそ曽根崎にも、こういうところはある。私がかつて練り歩いていたお初天神から少しそれた裏路地にも、平成に取り残された昭和の風景に彩られた小道は幾つかあった。だが、ここはそれをもう少し色濃くしたような印象を覚える。まるで、当時をそのまま切り取ったようで、手放されゆくものの最後のともし火のようにも思えた。 こんな通りがあっただろうか。気のせいか、人の気配もしない。  猫は時々こちらを振り返りながら、どんどん奥へと進んでいった。見失わないように、距離を一定以上伸ばさないようにしてついて行く。 「どこへ連れて行くの?」  私は猫に話しかけた。当然、言葉が返ってくるはずもないが、私はそのまま猫に話続けた。 「私は若葉って言います。あなたは?」  ニャー、とだけ返ってくる。通じてなくても、反応してくれるのは、何だか嬉しい。 私は猫の言葉を勝手に翻訳してみようと思いついた。さしたる意味は無かったが、無言のまま猫と歩いているのもつまらなかった。 子供の頃、母に買ってもらったぬいぐるみに話しかけるうち、楽しくなったことを思い出しながら、調子に乗って私はどんどん猫に話しかけた。 「あなた、名前はなんて言うの?」  ニャー。 「そう、ピート。あなた、ピートって言うのね!」 ニャー。  ピートは、肯定も否定もしなかった。 私のくだらない独り言を聴くのは、どんな心地なのだろう。  突き当たると、塀が構えていた。この路地裏を突き抜けるように伸びている。 不思議な臭いのする塀だった。  ピートは塀の上に飛び乗った。少し高めの塀なので、ピートの跳躍力に驚いた。  塀の上から、ピートは私を誘ってくる。私の身長より高い塀なので、どうしようかと迷った。 しかし、ピートはいつまでも待ってはくれなかった。 少しずつ、私の様子を見ながら歩き始める。 「待ってよ」  私は市営のゴミ箱の上に足をかけて、塀の上に登った。子供の時にだって登ったことは無かったので、登る感覚は新鮮だった。瞬発的に、気持ちがうねった。こんなにもドキドキするものだとは知らなかった。もしも私が猫か男の子に生まれていたら、もっと早くに知ったのかも知れない。                            *  小学校五年生の時、森君という男の子がいた。 森君はどちらかと言うと地味なタイプの子で、休み時間はいつも教室で本を読んでいた。  私の昼休みは、グラウンドに出て、他の騒がしい女子たちに交じって校庭の端っこにボールを取りに行き、消石灰がたくさん詰まったライン引きでグラウンドに丁寧に線を引いて、ドッジボールの準備をするところから始まる。  ラインを引き終わると、さっきまで脇でサッカーをしていた男子たちがやってきて、私の引いたラインに無意味に落書きをしに来て、結果、私と他の女子たちは男子たちを校内中を追いかけまわした。  どういうわけか、あの頃の私たちは男子たちより力が強くて、足が速くて、背も高いことが多かった。私も例外なく校内中を走り回り、無意味にちょっかいを仕掛ける男子たちを追い詰め、力いっぱいにボールをぶつけた。  将来、男のことで何かがおかしくなるとは微塵も思っていなかった。自分たちのほうが強いので 、気にもかけなかった。 そういう時代があった。幸せな感覚は知らないけど、身体の表面部分にしか痛みを経験しない時代。痛みが、身体の内側に巣食って絡みつくようなことが無い時代。 女はいつまでもエネルギーに満ちていると思っていた。  森君は、テストの成績がいつもクラスで一番だった。いつも本を読んでいるせいだと思った。 何の本なのかは、確認したことはない。分厚くて、少し古い表紙の本。タイトルの漢字が読めなかった。時々カタカナで記されていても、その単語の意味もわからなかった。  昼休みを返上してまで本を読むという行為をしたことがない私の成績は、中ぐらいにギリギリ入るかどうかというところだった。  悪い訳ではないが、良いわけでもない。曖昧で、不確かだった。   急に、漠然と怖くなった。  不確かさ、というのは恐ろしいものだ。はっきりとした形を持たない。プラスでもマイナスでもないので、認識されにくい。 褒められも、怒られもしない。 なんとなく、自分がまぼろしのようにも思えた。反して、森君は、確かな光でもって輝きを放っていた。  初めて、誰かに惹かれたのはその時だ。輝きに潜む人と人の距離に惹かれたのか、不確かな自分に不安になっていたのか。 何度も同じ光景を見てきたはずなのに、感情は急に動き出すということを初めて知った。人間の営みの中で、もっとも厄介なものの始まりだった。  ある日の夜だった。  私はベッドに寝転んで、その頃の女子なら大多数が読んでいたマンガ雑誌を広げていた。母が何度か「いい加減に寝なさい」とドアを小突いて来たが、その度に返事をして、結局ずるずると夜更かしをしていたのだ。  夜の魅惑は、何となくわかっていた。説明出来なかったが、静けさの気配だけは感じていた。 メトロノームの静けさに似たものが、空間いっぱいに広がっていて、私の肌を通して、私の中に入り込んで来るのだった。  区切りをつけて下に降り、トイレの後でふと気づいたのだが、玄関には巨大なゴミ袋が放置されていた。きっと母が出し忘れたのだろう。 ゴミステーションは二百メートルほど先の家の横にあるので、気が後に回ると、時々こういうことがあった。  私は、何の拍子かそれを捨てにいこうと考えた。早朝に起きる母が気付いて、業者が来るまでに捨てに行くのはわかっていたが、森君のことで私の中のいろいろなものが変化をきたしつつあった。  頭の中が、毎日少しずつ森君のことで満たされていくことが不思議で、普段に戻れなくなるかもとさえ思ったのだ。  変わることは怖い。  変わってしまうということは、二度と戻れない迷路の只中に入り込むようなものだ。少しでも平常を保とうとして、逆に平常と遠ざかる自分の行動と対峙する経験は、きっと誰の記憶にもある。  私はゴミ袋を持って、玄関を開けてゴミステーションへ向かった。静まり返った住宅街を歩くのは初めてで、こんなに暗いのかと驚いた。 どうせすぐ先だが、もしもこれがもう少し遠くて複雑な道のりだったなら、何処か知らないところへ迷い込むかもしれないとさえ思った。  ゴミステーションの脇の電灯にホッとしながら、私がステーションの扉をスライドさせてゴミ袋を放り込んでいると、後ろから突然「よお」と声を掛けられた。 驚いて振り返ると、森君がいた。  色々なものが頭の中を駆け巡って、ふにゃふにゃになった。 「何してるの?こんな時間に」  ようやく絞った言葉がそれで、森君は一瞬だけギョッとしたような顔になったが、直ぐに持ち直して「白田こそ」と言った。 白田というのは、私の苗字だ。 「ゴミ捨てに来たの。お母さん、忘れてたから」  もっともらしく言うと、 「ふうん」  とだけ返ってきた。 「ゴミ、捨てに来たの?」 「違う」 「じゃあ何?」 「散歩」  森君との奇妙な問答が続いた。私が警官で、森君が不審者みたいな構図になった。 「白田も来る?そんな遠くまで行かないし」  私を共犯にするつもりだったのかもしれなかったが、森君が私を誘った時、私は声を濁すしか出来なかった。森君が、禁止されている夜間徘徊をしているということもそうだったのだが、森君に誘われるということに焦っていた。 みんなで一緒に下校しよう、といういつもの掛け言葉とは、 違ったから匂いがしたからだ。  商店街が真っ暗なのを見るのは初めてだった。新しく建ち始めたコーポの群れの中には点々と明かりがあったが、私は夜の静寂ばかりに気が行ってしまっていた。 人の気配のしない暗い道を、森君と二人で歩いているのが不思議だった。 森君が好きだった私は、心臓の鼓動が速くなるのを徹底的に無視して無言を通していたが、森君も何も喋らないので、耐えきれずに声を掛けた。 「どこまで行くの?」 「服部緑地。中には入んないよ、傍を通って周って帰るんだ」 「いつもこんなことしてるの?」 「うん、いつも」  森君は優等生だ。優等生は学校や親から言い渡された規則は守るものだし、勉強もたくさんする。そこに奇妙な差異があった。 「俺、夜の街が好きなんだ。何でかわからないけど、胸がスースーする」  千里川の傍の歩道を歩きながら、森君が言った。  森君はブロック塀に登って、猫みたいにその上を歩いた。 「危ないよ」 「平気だよ」  森君は構わず歩いた。会話が途切れそうになるので、私は当たり触りの無いことを森君と喋った。 「俺、本当は勉強ばっかしたくないんだ。休み時間にまでして、何か、貴重なものを捨ててるみたいな感じ。でもしないと怒られるんだ、父さんも母さんも先生に言いつけて、見えないところからも俺を監視しようとする」 「だから夜が好きなの?みんな寝てるから?」 「かもしれない。あんまり深く考えたことないんだ、好きな事をするときは、好きって気持ちだけあればいいと思うし」 「じゃあ、他にこの事を知ってる人は?クラスの男子とか」 「居ないよ。誰にも秘密なんだ、白田に会うのだって想定外だったし」 「声掛けなきゃ、わかんなかったよ」 「もし見られてて、黙って通ったら学校で聞かれるだろ。先手必勝」 「じゃあ、秘密?私と森君の?」 「うん、二人だけの秘密。もし喋ったら、ひどい目にあわせる」  森君はそう言って笑った。  誰かと秘密を共有するのは、何だか気分が良い。ひどく歪んでいるようだったが、私は嬉しかった。好きな男子と二人だけの秘密を持つのは、子供心に甘美だった。 「これ、あげる」  森君は私に、小さなキーホルダーをくれた。外国のキャラクターを真似たような独創的なデザインのペンギンがついていた。 私は着の身着のままだったのであげるものが無かったが、森君は「いいよ、別に。その代わり絶対に秘密な」と笑った。  私たちは、服部緑地の傍まで行って、何処に寄るでもなくそのまま帰った。 部屋にこっそり戻って、甘い匂いのするまま布団にもぐって眠った。森君と特別な関係になった気がして、来週が来る前に気持ちを話そうと思った。  しかし結局、その想いは叶うことは無かった。私が気持ちを話そうと思った時には、森君は既に何人かの女子たちから告白されていて、気になっていた子がいたのだそうだ。  初めて男のことで頭をかき回されたその日、私は初めて男のことで泣いた。女は男の事で泣くのだということも知った。
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