真夜中に猫とビター

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                            *  北新地を抜けても、ピートと私は変わらず塀の上を歩いていた。 黙々と進み続けるピートに思わず見入って気付かなかったが、この不思議な塀はまだ続いているようだった。かなり歩いているためか、靴ずれが痛かった。  淀川をこの高さから見るのは初めてだった。職場が大江橋駅から直ぐのところなので、実際には毎日見ているのだが、目線の高さが違うと世界は変わって見えるのだ。  歩きながら、森君のことを思い出していた。今日の午後から、私の頭は男の像の形ばかりを練っている。 孝二、森君、それから、今までに付き合ってきた何人もの男たち。 考えると身体のあちこちがふてくされたような反応をしようとするので無視していたのに、急に溢れ出て来るのが困った。  誰もかれも私を置き去りにする。一人にする。あの頃の私や彼等の声が残響にさえなって耳から忍び込もうとするので、見たくもない、去っていく男の後ろ姿ばかりが脳裏で再現されていく。  阪神高速の直ぐ真下をしばらく歩いて、車の音で色々なものをかき消して、そこを抜けると塀が急に開けた。 歩幅が三倍くらいになって、妙に明るい。塀の両側に、幾つものライトが真っ直ぐに設置されていた。  ピートはニャア、と一声鳴くと、急に走り出した。 私も小走りでついていくと、ライトに照らされた塀の上にアーケードが展開されていた。  アーケードはガーデンブリッジに並ぶようにして伸びていて、下は淀川の只中だった。私はいったい何処を歩いているのだろうと思ったが、答えは出そうに無かったので考えるのを止めた。  アーケードの一番手前の屋店の前で、ピートは私を待っていた。 「急に走らないでよ」  文句を言うと、ニャアとだけ返ってきた。それから、いらっしゃいと店主が声を掛けてきた。 「若い新入りさんだね、いらっしゃい」  店主の風貌は、はっきり言って小汚かった。ブルーシートにくるまっているような出で立ちで、にも関わらず人生に満足味を得たような穏やかな顔をしている。  テーブルの上には何もない。何もないというより、商品らしきものは何も無いというほうが正しいのかも知れない。男の趣味なのか、ガラクタばかりが広げられている。ガラクタは、少しだけ酸の臭いを発していた。  それよりも、「新入り」という言葉が気に掛かった。私もここで何か出店するというのだろうか。 両側に構えられた他の屋店を見て回ると、どこも同じような感じだった。 学生くらいの少女、少年、中年の男、少し目を凝らして視線を奥までやると、私より少し上くらいの女もいた。  年齢も性別もバラバラないくつもの人たちが、皆一様に何かを悟ったような、あきらめたような顔で行う、客影の見えないアーケード。 奇妙な空間のことを少しでも探ろうと感覚を研ぎ澄ませてみても、そこに散らばる距離とか位置とかはぼやけるばかりだった。 ただ一つ、何かの輪郭が私の皮膚を伝って、私の体温を少しずつ上げていくのだけは感じることが出来た。  アーケードを抜けてみると、塀はその先には無かった。道と呼べるものはここで潰えていて、先には暗闇にせせらぐ淀川の水面の音と御堂筋沿いのビル街のネオンだけが広がっている。 「ここでお終いなんだ」  奇妙な塀の冒険は終わりだった。世界の果てまで歩いてきてしまったような感じがして、少し物寂しくなった。  私は、何処か知らない世界に行けるかも知れないと思っていた。きっと、誰にでもそういう思考に至る瞬間はあるのだと思う。 現実は辛い。辛くて、痛くて、なかなか報われない。だけど死ぬのも怖い。 嫌な事で溢れている世界で、少しでもマシな生き方をしようとして、たいていの人はもがいているものだ。私もそうだ。 「残念だな。ピート、私ね、あなたが何処か知らない世界に連れてってくれるかもって、少しだけ期待しちゃった」 「連れて行くことは出来ますよ。でも、退屈すると思って」  突発的に、私は耳をいじった。耳がおかしくなったのかと思ったのだ。 足元から返事の声が返ってきたのに、足元にはピートしかいない。 「ね、もしかして今、何か言った?」 「言いましたけど」  ピートが、喋っていた。喋るだけでなく、二本足で立ってペタペタと歩いている。 「ここは、マヨイガアーケードです。店の人たちは、現実で生きようとすると死ぬほど苦しいからと、思い出の品をここに出品して、こっちの世界の住人になった人たちなんですよ」 「はい?」  聞き返すのも無意味だと思ったが、身体が勝手に反応した。 猫に「はい?」と聞き返すのも相当おかしな光景だったと思う。だが、実際にピートが喋っているので、そうするしかなかった。 「ほら、今の世の中って、辛いことのほうが多いでしょう。働いてても、家に帰っても、一人でいても家族で過ごしても、安息なんかない。私は、そういう人をここへご招待する、いわば案内人です。……あ、猫だから案内猫か」  ピートは「間違えた」という感じで、左前足の平の上に、拳にした右前足をポンと置いた。 肉球と肉球がぶつかるので、人間と違って乾いた音ではなかった。子供の遊具のような、ぷう、という緊張感のない音だった。   「若葉さん」 「え?何で知ってんの、私の名前」 「若葉さんが教えてくれたではないですか。おまけに私にも名前を」 「ごめん、ちょっと混乱してるの。あ、もしかしてピートって名前、嫌だった?」 「いいえ。前のお客さんがくれた叉五郎ってやつより、ずいぶんマシです」  混沌とした会話が続いていた。妙な路地に入って妙な店でピートをもらって、妙な塀の上を歩き続けて妙なアーケードに出て、妙な店主たちを見ながら、人語を話し二足歩行をする妙な猫と妙な会話をしている私は、きっと相当に妙な女に見えているだろう。ピートからして、きっと、私がピートを見る目と同じくらいに。 「それで若葉さん、あなたはどうされますか?」 「どうって?」 「元の世界、人間の社会に戻りたいですか?それとも、こっちの世界に居たいですか?」 「ここに居たら死んじゃうんじゃないの」 「いいえ。死、という概念は無いのです。歳も取らないし、お腹が空いたら、好きな時に好きなものを食べられる。働かなくてもいいし、何ならこの先もずっと旅をして、塀の上から世界一周も出来ますよ。でも、それはかなり退屈だと思いますよ、私は。猫なら天国でしょうけどね」 「どうして、私をここに連れてきたの?」 「それは、私よりあなた自身がよくご存じのはずです」  確かに、私は何処かで「知らない世界に行きたい」と思っていた。私は孤独で、色々な男に常に置いてけぼりにされる。 一人ひとりを好きだった時間に逆行して、一人で悶え、溺れかける。  今日でさえ孝二と道を別れ、森君のことを思い出し、きっとこの先も、他の男のことを思い出して一人で苦しんだだろう。 新しくいい人が出来たって、いつ手放されてしまうだろうと不安に駆られて、何も出来ず何もわからないまま、呼吸の仕方さえ忘れてゆくのかもしれない。  誰もがそうなのだ。誰もが、出口の無い迷路の只中に放られている。伸縮自在の不確かな距離の中で、死ぬまで形も無く匂いもしない何かに苛まされ続ける。 それが人生だと割りきるのは簡単だし、楽だ。ただ生きてるだけなら、なんとでもなる。  でも私は違う。きっと、すべての人たちも。人間はみな、生きてるだけじゃ足りない生き物だ。 「ポケットの中に、何か無いですか?」  ピートが言うのでポケットを探ってみると、中に森君からもらったキーホルダーが入っていた。入れた覚えもないし、そもそもずっと前に失くしてしまっていたはずだ。 「それが、あなたの品物です。一番想いの強い品が現れるんです。それは何ですか?」 「初恋の人からもらったもの。ちょうど、今みたいな真夜中に二人で散歩して、口止め的な感じのもの。小学校時代の、私と森君をつなぐザイル。うんと秘密にまみれた」 「そうですか」  ピートはそれからしばらく黙った。勿論、私も黙った。 黙っている中で、私は考えていた。 この世界にとどまって住人になるのも良いかもしれないが、ピートの言うとおり退屈は直ぐにやってくるだろう。  しかし、あの辛いばかりの現実で生きるのも怖い。すべてをここに置き去りに出来ればいいのに、そうもいかないということは直ぐにわかった。 アーケードの店主たちは、忌まわしい記憶の品物をここで捌いているのだ。 あれらをすべて捌ききったら、きっと、もうここから出られないのだろうし、出られたとしても品物は彼らの記憶や思い出だ。 喪ったまま、生きていけるようなものではないのだ。 「どうしますか?その品をあそこ、ほら、アーケードの真ん中に細い建物があるでしょう?あそこで品物登録すればいいんです」  ピートが言うそれは、高速道路の料金所みたいな小さなボックススペースだった。あまりいつまでも、まごまごと迷えるわけでもないようだった。 「ここと、現実と、どっちが幸せ?」 「私には判断できません、なんせ猫ですから」 「退屈だろうって思ったのは?」 「ああ、あれは勘というか、若葉さんの顔を見て思っただけです。特に深い意味はありません。現実もここも、辛いと思う人は辛いし、楽しいと思う人には楽しい」 「私次第?」 「はい、ですから後悔の無いように」  森君の記憶も、孝二や他の男たちのことも忘れたいと思った。それは確かだった。 だが、忘れたところで私は、この世界で何を求めるのだろう。私が今欲しいものは、ここにも、きっと現実にもあるだろう。  アーケードの店は徐々にシャッターを閉めはじめ、両側のライトだけが力強く照らし続けるアーケードの先の「塀の果て」を、私とピートは眺めていた。  そろそろ、時間のようだった。 「若葉さん」  ピートが静かに、しかし急かすように声を掛けてくる。  私は怖かったのだ。一人で生きていく以外に選択肢がないかもしれないと、そう思っていた。 今でもそう思っているし、その可能性は勿論ある。でも、私は好きになった男たち、私を置いてけぼりにした男たちの記憶をここで捌くのも、怖くなった。  幸せだと誤魔化すより、幸せが欲しかった。忘れるのではなく、別の方法で向き合って、折り合いをつけたいと私は思った。 きっと、とても大切なことなのだ。 残酷だけど瑞々しい。彼らとの日々は、あの時、確かに瑞々しかった。 「ピート、私、戻りたい。ここじゃ、きっと私、生きていけない」 「あなたの決断ですか?感情でも自棄でもなく、あなた自身の決断ですか?」 「そう」 「その選択、承りました。若葉さん、さあ、こちらへ」  ピートは何処からか、似合わない帽子とジャケットを身に着けて、私の手を取って走り出した。 アーケードを突っ切って、塀の果てから飛ぼうとする勢いだった。 「手を離さないで!」 「え?飛ぶの?ここから!?ホントに飛ぶの!?」 「行きますよ!」  ちょっと待って。深呼吸させて。そう言おうとしたが、間に合わなかった。心拍数が高鳴ったまま、私を引っ張って、ピートは飛んだ。  落下の速度は緩やかだった。緩やかで、私たちは、風に乗った木の葉だった。 いつか見た映画のワンシーンのように、私とピートは真夜中の大阪の空を滑空している。  淀屋橋を越えそうになったところで急旋回して、私の眼前には、私の住む曽根崎の光景が広がった。  世界は眩しい。いや、世界というほどのものでもないかもしれないと思った。 私が日々を過ごした、ただの街だ。 ただ一人分切り取られて、誰からというわけでもなく分け与えられたぶんだけの空を、ピートに連れられて私は滑っていく。 「そろそろお別れですよ、若葉さん。素敵な名前を、どうもありがとう」  ピートがそう言って、私がそれに反応した時、私の身体は既に地に足を降ろしていて、ピートは元の四つん這いでただの猫に戻っていた。  澄んだ空の冷たい空気が、私の中に入ってきた。秋だ。  季節は、きっとこれからも私を追い抜いて置いてけぼりにするだろう。息せき切らせて走る人生の坂が、また待ち受けているだろう。  これから誰と出会い、誰と日々を過ごし、いつ離れ離れになって、また誰かと溶けて一つになって、最終的に私があとどれほどの時間を一人きりで過ごして、どれほどの時間を永遠の二人として過ごすのか、今は見当もつかない。  だが、世界から一ミリずれた奇妙な空間で孤独を正当化して永遠をさまようよりは、ましな人生が待っているのだろう。もともと、何処に向かうかなんてことは決めてなかったのだ。それが、きっと人なのだ。 ピートに問いかけても、もちろんニャアとしか返ってこない。  鳥の声がする。私はピートを小脇に抱いて、雑踏に紛れていく。景色は流れるように、私の指と指の間をすり抜けていく。  いつしか、空はうっすらと白みを帯びていた。  夜が明けていく。ときどき、世界の音だけが私に重なる。
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