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トン、トン、トンとゆっくり板を踏む足音が近づいてくる。つぎに「よいしょ」と小さな声が聞こえた。膝頭に手をあて、最後の段を登る光景が浮かぶ。小さな足音が近づいてきて隣の部屋の襖が開いた音がした。次に愁の眠っている和室へ続く襖が開く。
「おはようさん」
愁はしばらく沈黙を続けたが、家主に声をかけられそのままというわけにもいかない。瞼を持ち上げ、しぶしぶ布団からノソリと顔を出した。肘を突き、重い体を半分だけ起こすと、こじんまりとした体型の老婆にお辞儀をした。老婆は目尻の横の皺と同じくらい目を細めニコニコ微笑んでいる。
「ようねむれたね? 暑うなかったね?」
愁は目を伏せた。放っておいて欲しい気持ちを押し殺し、もう一度小さく頷く。
「朝ごはんできとるばい。食べよう」
「……僕は、結構なので」
ボソボソと話す愁の言葉を遮るように老婆が続けた。
「はよう食べんば片付かんけん」
ニコニコ顔だが、用意された分は食べないといけないという圧をゴウゴウと放っている。チラッと老婆を見た愁は、顔を強張らせ慌てて視線を外し仕方なくといったふうに頷いた。
「温め直すけん、布団持って降りてきなっせ」
「え……布団?」
「よか天気やけん干せば夜きしょくよかばい」
思いもよらぬ指示にビックリして聞き返す。愁は方言による何かかとも思ったが、本当に布団を干すので持ってこいということらしい。しかし、やはり後半の言葉はサッパリわからなかった。結局、気色が良いのか悪いのか。
「早うね」
老婆は糸目で微笑むと部屋から出ていった。また階段をゆっくり降りて行く足音が聞こえる。その音を聞きながら、愁は鼻から静かにため息を漏らした。
他人様の家で動きたくない、何もしたくないは通用しない。慎士に言われるがままついてきてしまったことを今さらながらに後悔する。
「来るんじゃなかった」
ボソッと愚痴を零し、もそもそと体を起こす。重い体。それでもまだ、昨日よりはスムーズに体が動いた。ああ、めんどくさい。パジャマから普段着に着替えながら、愁の頭の中にはそれしかなかった。
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