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 顔を向けると、庭の木の間からひょっこり現れたのは場違いなスーツ姿の人間だった。男が愁を見て「よっ」と気安く手を上げる。 「慎二?」  信じられない。  愁は呆然と慎二を見つめた。慎二が次に来るのは週末。つまり三日後だと本人から電話で聞いていた。今日はまだ水曜日だ。  さっきまでたーさんと慎二の話をしていた。それで本人がひょっこり現れるだなんて、まるで狐にでも……いやたぬきにでも摘ままれたようだ。 「……え、な、なんで? 仕事は?」 「調整できた。これで俺も長期休暇だ」  慎二はなんでもないことのように笑っているが、スーツ姿ということは今朝なにかしらの仕事を済ませ、そのまま飛行機に飛び乗ったのだろうと想像できる。  縁側に座ったまま、いつまでも慎二を見つめポカンとしている愁を見下ろし、慎二が両手でフワッと愁の頬を包んだ。思いがけないスキンシップは否応なしにたぬきとの会話を呼び起こし、慎二の手の温もりの中で愁は自分の顔が熱くなっていくのを感じた。 「見違えるくらい顔色良くなってるじゃん」  嬉しそうな声。安堵した表情。黒目がちな慎二の瞳はキラキラと輝いていた。全身の力が抜けたように「はぁ」と息を吐き、動けない愁をもたれるように上から抱きしめてくる。  すごくそばにいる。  愁はとても近くに慎二を感じた。単純に距離だけの話ではなく、愁はそれを心で感じていた。しかしそれをどう認め、どう返していいのかわからず、目に見える範囲の情報で誤魔化す。 「あ、あの……疲れたよね。休む?」  支えるように慎二の背中へ手を回す。その行為も誤魔化しのおかげで存外、自然とできた。  毎晩、電話で話していても、慎二は常に明るく、心配する素振りなどまったく愁へ見せなかった。今日あった出来事を話し合い、冗談を言って笑う。他愛のない会話。そのおかげで愁も気楽に話すことができた。  思い出すこと全てに、慎二の深い思いやりを感じる。
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