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「うんうん。その時にさ」
慎二が穏やかな表情で愁を見つめた。慈愛に満ちた眼差し。まるで恋人を見ているかのような目。
今までも慎二はよくこういう表情をしていた――と、愁は思った。今まではその視線の意味を考えることなどなかった。その慈愛に満ちた表情も、穏やかで甘さを含む視線も、慎二の人柄故のことだと、当たり前に感じていた。
「名刺の受け渡しの仕方とか? 菓子折りの渡し方とか? なんかマナー研修の時だったかな? すんごい退屈な一日があったじゃんね?」
「うん」
慎二はいつもと同じように話しているのに、意識してしまった愁は何となくソワソワしてかしこまったような返事をしてしまう。
「あの時さ、配られた資料に落書きしてたろ? たぬきの」
「えっと……そうだっけ」
正直、落書きのことは覚えていなかった。でも、子供の頃からたぬきの落書きはノートの隅や、教科書、机、いつもどこかしらに描いていたのは覚えている。
「うん。妙に上手な絵だったから二度見したもんな。てっきり真面目にメモの書き込みでもしてるのかと思ったらたぬきの絵かよ……ってインパクト強かった」
愁は突然、予想外な所を褒められ、照れ臭くなり鼻先を指の背でピッピと擦った。
「昔からヒマがあれば描いてたから、クセみたいになってたんだよ」
そう言った愁だったけど、実際はヒマな時だけではない。不安な時や寂しい時、落ち着かない時など、心の安定にたーさんを欲し描いていたのだった。
「そうなんだろうなって思った。描き慣れてるタッチだったもん。それに……」
慎二は思い出し笑いしたのか言葉を濁しクスッと笑った。
「え、なに?」
「うん」
慎二は笑いを堪えた目で愁を愛おしむように見つめた。
優しく温かい。そして綺麗な表情だと愁は思った。
「描いたたぬきの絵を見て、愁はいつもニコニコするんだ。それが可愛いっていうか、癒されたっていうか……。あの時、俺、絶対こいつと友達になろうって思った」
「可愛いって……」
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