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遠くの谷あいから届いた遠吠えが、長く穏やかな声が尾を引いて夕闇にとける。
その余韻が消えるのを待ち、同じく遠吠えしようと息を吸ったイオタは、吸い込んだ空気に知らないにおいを感じて動きを止めた。
湿った土のにおい。すこしくすぐったい苔のにおい。土に還る途中の木の葉のにおい。嗅ぎなれたそれらにまじって、わずかに漂う知らないにおい。
すんすんと鼻を鳴らして嗅いだにおいが、仲間のものでないとわかった途端、イオタの脚は地を蹴っていた。
ぬかるみ、飛び出た木の根、落ち葉、羽虫、石ころ。
見慣れたものが視界のはしに映っては飛ぶように消えていくなか、においを頼りに駆けていたイオタは、ぴたりと脚を止めて長い尾をひとふりした。
「だれだ、お前」
ぐるる、とうなり声交じりに問えば、見つけたにおいの元がびくりと震える。
けもの道をはずれた木立ちのなか。土がえぐれてできた、穴というにも粗末な暗がりに、うずくまるようにして身を隠す影があった。
小ぶりな影はイオタの声が聞こえただろうに、わずかに震えたあとは沈黙を守っていた。
「ことばが通じないか? ここは犬神一族の治める地。他種族は立ち去れ!」
告げてからもう一度、低い声でうなってやる。これで、ことばがわからずとも伝わるだろう。
イオタの思惑は、けれど成功しなかった。
影はたしかにうなり声を聞いて、おおきく肩をふるわせた。けれど立ち去る気配はなく、さらに体を丸めて固くうずくまる。
「居座る気なら、子どもであろうと食い殺す!」
イオタが苛立ち交じりに言って吠えようとしたとき、ちいさな影の手前からゆるゆると持ち上がるものがあった。ひどくゆっくりと、宙をかくようにして伸ばされたそれは、痩せてところどころ毛の抜け落ちた腕だった。
「やさしく、かしこい、犬神のかた。どうか、話を聞いてください」
最初からそこに横になっていたのだろう。土にまぎれる色の毛皮をした痩せた腕の持ちぬしが、かぼそく、弱々しい声で言う。イオタのおおきな耳をすましてようやく拾えるほどの、弱々しい声だ。
「……話とはなんだ。この土地に住ませろというなら、無理だ」
警告はしたのだ。隠れている子どもともうひとりの喉笛に食らいついたところで、イオタに非はない。けれどもそうしなかったのは、咳き込みながら話すものに死のにおいを嗅ぎ取ったからだった。
ぐるぐる鳴らしていた喉を静めてイオタはその場で話とやらを待っていたが、すぐにしびれを切らせて木立ちに跳んだ。
「聞こえん。はっきりしゃべれ」
びくり、とふるえるちいさな影には目もくれず、イオタは死にかけに声をかける。
「申し訳ない……どうにも、思うように……」
死にかけは土のうえに横になったまま咳き込み、その合間にぼそぼそと枯れ葉をこするような音でしゃべる。聞き取りづらさに舌打ちしてさらに一歩踏みだしたイオタの前に、ちいさな影が勢いよく両手を広げて立ちはだかった。
「おじさんを食うな! 食うならさきにあたしを食え!」
甲高い声とともに暗がりから飛び出してきたその姿を見て、イオタはぽかんとくちを開けた。
涙目で震えながらにらみつけてくるのは、イオタがはじめて見る種族の少女だった。
全体に毛が少ない。けものの毛皮を巻き付けた胴体はわからないが、頭部と目のうえ以外、顔も首も肩も両腕、両脚すべて、つるりとした肌が露出している。背筋は曲がらず、二本の足ですんなりと立っている。牙はなく、爪はまるく短い。尻尾はどこにも見当たらない。
おどろきに停止する思考のなかでイオタは、これらの条件を満たす種族を思い出していた。
「にんげん、か……?」
ぽつりとこぼれたイオタのつぶやきに、飛び出してきた少女がはっと自身を見下ろす。そして慌てて倒れている死にかけの元へ戻ると、その腹にかけていた大きな毛皮を頭からかぶり暗がりで体を丸めた。
今さらそんなことをしたところで、すでにイオタはその全身を見てしまっている。けれど、見たものへの衝撃が大きすぎて、目を見開いて固まっていた。
「この子は、先祖返りで……どれほど人間の遺伝子を保持しているか、わからないんだ……」
緊迫したふたりの間に、喘鳴まじりの声が落ちる。続けて嫌な音の咳をする死にかけに、少女が慌ててかぶったばかりの毛皮をかけなおすのを見て、イオタはため息をついた。
がさがさがさっ。
遠慮なく落ち葉を踏み散らし、音が近づいてくる。
四つ脚が地を蹴る音。荒く吐き出される呼吸の音。犬神の仲間の音だ。
「イオタ、どした」
低木を飛び越えてやってきた仲間が、イオタの前で首をかしげる。さきほど、遠吠えをしていた犬神だ。遠吠えを返さないイオタを不審に思い、自身の見回りを終えてからやってきたのだろう。
「ああ、いや……きょうはお前のほうが早かった。お前の勝ちだ、ココ」
いつもどちらが早く見回りを終えるか張り合ってくる仲間、ココにそう言えば、ココはうれしそうに口をあけて尻尾を振る。
「おれ、かち! おれ、かち!」
無邪気な仲間の様子に微笑みかけたイオタは、ココの尾がぴたりと止まり、耳がぴんと立つのを見て息を止めた。
イオタの様子に気が付かず、すんすんとにおいを嗅いだココは、ぐるりとのどを鳴らす。
「へんなにおい。くさい。なに?」
急に駆け出しはせず問いかけてきた仲間に、イオタはこっそり息をついた。
「死体だ。熊族(キムンカムイ)だと思うが、毛が抜けていてわからん。病(やまい)か、年だろうが……」
「たべれない? たべちゃだめ?」
首をかしげる仲間に苦笑して、イオタはその首もとを掻いてやる。獣の血が濃いココは、四つ脚では掻けない箇所に手が届いてうれしそうに首をのばしてイオタの答えを待っている。
「だめ。病で死んだものを食うと、病をもらう。教えただろう?」
「そか。おぼえた」
「よし。なら、集落まで競争を」
しよう、そう言いかけていたイオタは、急に駆け出したココを目で追うことしかできなかった。
ココの四つ脚が土を蹴り飛ばし、木立ちに落ちている熊族の死体を飛び越える。そして、その死体の影にうずくまっていた生き物の首をくわえて引きずりだした。
「これ、生きてる! これ、食える?」
嬉々としてイオタの前に生き物を引っ張ってきたココは、暴れる獲物を咥えなおそうとして、獲物の全身をその目に映した。
とたんに、金色の目が真ん丸になる。
見開かれた目のなかで、地に落ちた獲物がココをにらみつけている。毛のない細い手足を地につけて、むきだしのほほを強張らせ、よく動く表情を怒りに変えて、すこしも尖っていない歯をむきだしにしてココをにらみつけている。
「……ほしい。にんげん、ほしい、ほしいほしいぃぃ!!」
人間の姿を認識したとたん、ココのわずかな理性は吹き飛んだ。
遠い先祖が組み込んだ犬の本能が、わずかに残っているはずの人間の本能が、絡まりあって真っ当な人間の遺伝子を欲していた。
よだれを垂らし本能をむき出しにして襲い掛かるココに、少女は引きつった息をもらすことしかできなかった。いとも容易く組み敷かれた体のうえで牙をふるったココは、邪魔な毛皮を食い破った。むきだしになった少女の脚の間に己の腰を押し付けようとしたところで、衝撃を感じ意識がぶれる。
「くそっ、乗れ!」
豹変した仲間の姿に舌打ちをして、イオタは震える少女の体を担ぎ上げた。駆け出しざまに死んでしまった熊族の男に被せてあった毛皮を剥ぎ取り、背中に放る。
犬神の集落に背を向けて一目散に獣道を駆け下りていく。
場所はすでに縄張りの端。いくらも行かないうちに、知ったにおいは途絶えて、不快な多種族の気配が濃くなってくる。
張り出した木の枝をいつもの調子で避けようとして、背中のやわい身体を思い出しぶつかるに任せたとき。
「ヴァルルルッ」
うなり声とともにココが、頭上から降ってきた。
獣になりきれないイオタでは、四つ脚の速さに敵わない。平素であれば頭を使って引き分けに持ち込む競争は、背中の荷物と本能のままに猛り狂う仲間相手では勝負にならなかった。
イオタたちの前に着地したココは、毛皮をふくらませ牙をむいてうなる。
「ココ、やめろ。お前はやさしいやつだ。女を無理矢理ものにするなんて、しないはずだ」
「ガウゥゥ!」
「やめてくれ、ココ。話そう、落ち着いて話せば、まだ止められる。いつものお前に戻れる」
「グルァウゥ!」
祈るようにことばをかけるイオタだが、仲間から返ってくるのは吠える声だけ。そこに込められた意味は、敵意しかない。
それがわかっていてなお、イオタは仲間に牙をむくことができないでいた。
四つ脚のけものと、二本足で立つけもののにらみ合いが続く。
「……おろして。あたしを殺して」
イオタの背中でふるえながら少女がささやく。
「だまれ。いまはそんな暇はない」
ささやきの前に、肩をつかむ手に力がこもるのをイオタは感じていた。丸い爪しか持たない細い指では、けもの混じりの身体を痛めつけるには至らない。
震えながら死を覚悟する荷を捨てることもできず、仲間に攻撃することもできないイオタの脚が知らず後ずさったとき。
ひゅん、と何かが上から飛んできた。
とっさにイオタもココも飛び退るが、あちらこちらから降ってくる石に右へ左へ踊らされる。
「いぬくさい。いぬくさーい」
「それおいてけー。にんげんおいてけー」
「おれたちにそっくり。おれたちのもーの。いぬはされー」
「いぬくさーい。にんげんよこせー」
石とともに、かん高い声がばらばらと降ってくる。
イオタたちを囲むように四方の木の上から見下ろしてくる影は、丸めた背中と石を放る長い手指、枝をつかむ器用な足が特徴的だった。
「くそっ、もう猿(ましら)どもに気づかれたか」
毒づくイオタに、ココも牙をむく先を猿に変える。
あたりを警戒しながらじりじりとイオタの背に寄り添うココの姿に、イオタは希望を見た。
「ココ、合図したら集落に走れ。やれるか」
猿に聞こえないよう口の中でささやけば、ココは視線をくれないまま耳だけをイオタに向ける。
その仕草に理性のかけらを感じたイオタは、ちらりと向けられたココのひとみに仲間が戻ってきたことを見てとった。
「イオタは? こないか?」
ちらちらと背中の少女を気にしながらも、仲間の身を案じることばを発するココに、イオタは状況も忘れてほほえみを浮かべた。
「おれはすることがある。後で戻るから、先に行け、ココ!」
首の毛を掻いてひと声吠えれば、ココが勢いよく来た道に向かって駆け出した。
イオタの声に怯んだ猿の何匹かは、急に動きだした四つ脚につられてその背を追って木を伝う。
その瞬間に、イオタはココから目を離して全速力で山を駆け下りはじめた。
「にげるか。いぬめー!」
「それおいてーけ」
「にんげーん! おれの!」
「おれのめすー!」
やや遅れて気づいた猿の数頭が、イオタと少女を追って木から木へと飛び移る。
姿の見えない相手に追われながら、イオタは谷を駆け下りる。
ぜい、ぜいと荒い呼吸音が耳にうるさい。付かず離れず追ってくる猿どもの声がうるさい。
四つ脚ならばもっと速く走れただろうか。背の荷を放って引き返せば、また変わりない明日を迎えられるのではないか。自身も理性を捨てて、この少女を思うさま貪ってしまえば楽になるのではないか……。
がむしゃらに走るイオタの頭に疑問が浮かんでは消えていく。
けれど、イオタは脚を止めることなく駆けていく。すでに知ったにおいなどかけらも見つけられない山のなかをただひたすらに駆けていった。
足の裏の肉球が燃えるように熱い。吹き付ける乾いた風が、固い地面のうえで渦を巻いている。照り付ける太陽に毛皮が焼かれ、頭がくらくらとしてくる。焼けた風ばかりを嗅いだ鼻は、においにさえも熱さを感じるようになっていた。
猿に追われるまま山を下りたふたりは、草木の生えない平らな地面を進んでいた。遠い祖先が捨てたかつての居住地。灰海と呼ばれる、灰色の固い石に覆われた都市の残骸。
そこに生き物の気配はない。けもの交じりのどの種族も、鳥や虫も、まして森の端まで追ってきていた猿の姿もずいぶん前に見えなくなっていた。
とうとう熱さに耐えきれなくなって、石の割れ目にわずかな土を見つけて足を止めたイオタの背から、少女がするりとすべりおりる。
それを確認する余裕もなく、イオタはだらりと舌を垂らして熱い息を吐く。
「……そうしてると、やっぱりあんたも犬なのね」
ぽつりと落ちた声にイオタがゆるゆると顔をあげて少女を見れば、毛皮をうまく使い頭から足まですっぽりと覆い隠した姿があった。見れば、ちいさな足には木の皮を剥いでなめしたものが巻かれている。死んだ熊族の男が用意したのだろうか。
「犬じゃない。犬神だ。四つ脚でこそないが、尾も耳も鼻もちゃんとある。毛皮だって、お前に比べればしっかり生えてる」
自身の吐く息の熱さに辟易しながらも、イオタは少女に言い返す。その勢いで重い足を持ち上げて、山に背を向けまた歩き出す。
けれど、数歩進んでイオタは脚を止めた。脚を止め、振り向いた先にうつむいて立ち尽くす少女を見つけた。
「ここは暑い。歩くぞ」
イオタがうながしても少女は動かない。熱さにゆらゆらとゆれる地面をじっと見つめるばかり。
「歩け。背負ってくれた熊族の男はもう死んだ。次は自分の脚で歩け」
吠える元気もなくそう言うが、それでも少女の足は前に進まない。代わりにぽつりとことばが落ちた。
「なんでよ」
「なんで? それはお前が」
言いかけたイオタをさえぎって、少女が声を荒らげる。
「なんでっ、あんたも着いてくるの? あたしなんて放っておいて。もうおじさんは見てないもの。放って仲間のところへ帰って、あたしがどこか遠くで野垂れ死ぬのを待てばいいでしょう!」
吠えた少女の表情は毛皮と暑すぎる太陽によってできた濃い影にかくれて見えない。けれども、鋭い爪をもたないその手が固く握りしめられ、丸い爪がむき出しの柔らかい皮膚に食い込むのを見て、イオタは考える。
「……お前は、人間にしか見えない。人間の遺伝子が薄れていくけもの交じりにとって、お前は理性を壊す劇物だ。おれは、仲間が理性を失くす姿を見たくない。だが、お前を殺すのは、理性あるひとのすることではないから、できない」
言いながら、イオタは自分の考えをまとめていく。ここまではその場を逃げるので精いっぱいで、考える暇などなかった。ちょうどいい機会だと、考え、まとめながら自分の思いを口にしていく。
「それに、あいつと約束してしまった。あの熊族の男。あいつ、死ぬまでお前を心配してた」
病で抜け落ちてはいたが、熊族の男はしっかりと毛皮を持った濃いけもの交じりだった。それでも、あの男は死ぬまで理性を手放さなかった。その姿が、イオタの記憶に焼き付いていた。
「だから、探す。あの熊族が言っていた、純粋な人間だけが群れて暮らす理想郷(ガンダーラ)とやらに、お前を連れていく。それが、人間としての理性を持つおれの矜持だ」
そう言って歩き出したイオタは、すぐに尾を引っ張られて足を止めることになった。
振り向けば、イオタの尾の先放した少女が自身のまとう毛皮にとがった石を当てて、切り裂いているところだった。
「なにを……」
「これ、足に巻きなよ」
イオタが問うよりも早く、少女が細長く裂いた毛皮を差し出した。
「さっき山で助けてもらったお礼。その代わり、約束して。この先、無理だと思ったらいつでもあたしを置いて帰って。もう誰もあたしの人生の道連れにはしたくない」
だまってうなずいたイオタは、受け取った毛皮を足に巻き付けて立ち上がる。
すこしだけ裾の短くなった毛皮をまとう少女が自身の横に立つのを確認してから、イオタは再び歩きだす。少女は今度こそ立ち止まらず、イオタのとなりに立って歩きだした。
ふたりが去ったあと、ひび割れた舗装路のわずかな土のうえに残ったのは、大きなけものの足跡とちいさな少女の足跡。
乾いた土のうえについた足跡は、まったく似ていなかったけれど、となり合って同じほうを向いていた。
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