第三章 霧雨、平穏と募る違和感

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第三章 霧雨、平穏と募る違和感

《一》蜜月ごっこ  手首の痣は、少しずつ元の肌色に戻ってきていた。  青黒く濁った色が薄まるにつれ、じくじくとした不快な痛みも和らいでいく。痛みが引き連れてくる余計な記憶も、近頃では、以前のように頻繁に思い出すことは少なくなっていた。  あれ以来、尊さんは毎日私の手首に触れては具合を確認し、痛み止めの薬湯を用意してくれている。  初めて身体を重ねた夜から数日が経過した頃、いつも通り手首に触れた尊さんが、微かに目を瞠ったことがあった。どうかしたのかと声をかけたけれど、彼はすぐに首を横に振り、「治ってきて良かったですね」と微笑んだ。その笑顔にうっかり見惚れ、そのまま、過ぎった違和感はうやむやになってしまった。  あんなふうに微笑まれると胸が高鳴る。息が乱れて、脳裏には瞬く間にあの夜の詳細が蘇る。  普段の温厚な彼からは想像もつかない情熱的な口づけや吐息を思い出すと、それだけで私の呼吸は震える。もしかしたら、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。  寺院の中には、私と尊さん以外に誰もいないし、誰も訪れない。  細い雨が降りしきる中、今日も私たちはふたりきり。  お寺さまが抱える事情や常識は、私にはよく分からない。けれど、果たしてこれは普通のことなのかと疑問に感じることがある。  例えば、尊さんの両親や兄弟姉妹は今どこに住んでいるのか。こういう世界では世襲ばかりがすべてではないのかもしれないが、そういう話題になったことは今のところ一度もなかった。  尊さんは、こちらが恥ずかしくなるくらい私に触れたがる。初めて肌を晒したあの夜、遠回しに経験がないと口にしたはずの彼は、それから今日までの間、執拗に私を暴き続けていた。  たどたどしさを滲ませて私の肌を泳ぐ指先は、回を追うごとに大胆になり、どこにどう触れれば私が陥落するのか、すでに私より正確に把握できていると思われた。  私が初めて身体を許した相手は、相手も初めてだったせいか、互いに手探り状態だった。そうこうしているうちに別の女性がどんなものか興味が湧いたのだろう、彼は隠れて浮気をした挙句、相手の女性を妊娠させてしまった。  先日まで自室に居座っていた男は、女慣れこそしていたものの、自分さえ快楽を得られれば良いと考えるタイプだった。経験の浅い私をどうこうしようというよりは、自分への奉仕を優先させてばかりだった……と、今なら冷静に振り返ることができる。  だからこそ衝撃的だった。  尊さんは妥協しない。なにもかもが手探りだろうに、私に尽くしたがる。羞恥に耐えかねて「もういい」と訴えたところで、動じる素振りなど露ほども見せない。  濃厚な愛撫と行為は、日に日に妄執的な気配を増していく。ふたりの男性と肌を重ねることで得た私の経験や、情交に対する考え方は、そのせいで完全に壊れた。  手首、髪、頬、瞼、唇。指を滑らせては、今度は同じ場所を薄い唇が這う。最後に触れ合う唇同士はすぐに解かれ、間を置かず、私は身体も心も彼に支配されてしまう。今日もまた、同じだ。  あの一夜を機に、私は、それまで身に着けていた自分の服を借り物の着物に切り替えた。想像通り、きちんと着付けるのは骨が折れた。それでも着物を借りることに決めた理由は、いくつかある。  普通とは異なる雰囲気に満ちたこの場所に心まで呑み込まれたくない、頑なに張っていたその意地が緩んだというものがひとつだ。ずっと不安に感じていたはずが、急にどうでも良くなってしまったのだ。むしろ、ずっと尊さんの隣にいたいという気持ちが日増しに強くなっている。  必要量が減ってきた痛み止めの薬湯も、毎回口移しされるようになった。  恥ずかしいからと何度たしなめても、向こうは聞く耳を持たない。そのうち私も絆されてしまうから、余計にたちが悪かった。一方的に彼を責めるわけにもいかない。  薬湯を口に含むたび、尊さんは露骨に表情を曇らせる。多分、苦いからだ。それならやめればいいだけだろうに、彼は絶対にそうしない。  わずかに開けた口の隙間から流し込まれてくるそれは確かに苦く、けれど自分ひとりで飲んでいたときに感じていた苦さとは少し違う気がしてしまう。私の喉がこくりと動いたことを確認すると、尊さんはすぐさま口づけを深め、わざと音を立てることで私の羞恥を煽る。  そうやって唇を啜って、絡め取られて……こんな口づけはこの人とが初めてだ。 「ん……」 「ごめん、まだ残ってた。もう一回だね」  悪戯っぽい表情を浮かべ、薬湯が入った湯呑みを視線で示しながら動く唇は、今にも私のそれと触れ合ってしまいそうだ。近距離からかかる吐息が孕む熱に、おかしな声が零れ落ちそうになる。  溺れている、などというものではない。何度も男に騙されては傷ついてきた記憶すら、簡単に薄れて消えていく。  尊さんが好きだ。好きで好きで、おかしくなりそうなほど。  深く口づけてほしい。骨が軋むくらいきつく抱き締めてほしい。身体も心も、全部支配してほしい。  ――もうなにも考えられなくなるくらい、激しく私を抱いてほしい。  口移しを終えてそっと腕を撫でた後、彼は決まって、私の身体に残る痣をひとつずつなぞる。さほど痛みを感じなくなった腹部や大腿にも指を這わされる。羞恥に赤く染まっているだろう私の頬を眺めては、心配そうに目を細めつつも満足げに微笑み、今度は同じ場所に唇を寄せる。  甘えた声が微かにでも漏れれば、もうなにもできなくなる。傷を労っていたはずの彼の指と唇は、官能を呼び覚ますそれに即座に変わり、与えられる愉悦と熱に私はただ溺れるばかりになる。  昼も夜もなく、唇を重ねては身体を重ねる。  爛れた日々を送っている自覚はある。でも。  ……もう少しだけ。私の思考は、最後には必ずそこに辿り着いてしまう。  この人の熱に溺れていれば忘れていられる。何日経っても降りやまない雨のことも、ここに来てから尊さん以外の人を見たことがないという事実も。  山奥の廃寺は、廃寺ではなかった。そこには人がいて、古くても手入れの行き届いた本堂があった。でも、なにもかもがおかしい。  尊さんは、寺院の敷地から外へ出かけようとしない。一日二食、あるいは三食の食事をきちんとふたり分作って食べているはずなのに、食料は少しも尽きる気配がない。湯浴みに使うお湯を運びに行くのは決まって午後三時の十分前だ、その時間になると毎日計ったように雨が弱まるから。  まるで時間が経っていないかのよう。  いや、正確には、同じ一日を繰り返しているだけ、みたいだ。  ぞわりと背筋が粟立った。  ねえ尊さん、あなたはなにか知ってるの? この寺院には、なにか私の知らない秘密があるの?  訊きたい。それなのに怖くて訊けない。訊いたら最後、尊さんがいなくなってしまう気がする。理由なんて分からない、でもそんなふうに思えてならない。  だから、知らないままで、いい。  彼の両腕が私を掻き抱く。  口づけは、いつしか激しく貪るようなものに変わっていた。  火傷しそうなそれに、ひたすら溺れ続けることにする。  そうやって私は、なにより優先して考えるべきことを、今日もすべて放棄する。
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