第四章 叢雨、彼岸と此岸の狭間

1/12
136人が本棚に入れています
本棚に追加
/65ページ

第四章 叢雨、彼岸と此岸の狭間

《一》君と僕の名前を  今日も、耳鳴りが聞こえる。  梅雨はまだ明けない。細く降り続く雨の音に混じり、きん、と鼓膜の奥に突き刺さってくるそれは、普段よりも深く私を苛んでいた。  尊さんは、初めて肌を重ねた日から一夜も置かず、私を抱き続けている。  拒絶はできない。したいとも思えなくなることばかりだ。私だって尊さんのことが好きで、だから少しくらい身体が怠くても拒むつもりはなかった。  私の手首に手製の数珠をかけてくれた日以来、尊さんが私に対して滲ませる感情には妄執めいた気配が宿っている。そして、それが日を追うごとに色を濃くしてきていることは、私も十分理解していた。  中に潜り込んだまま行為を終えるということがなにを意味しているのか、彼が知らないとはさすがに考えにくかった。なぜなら彼は、終わった後、いつも愛おしげに私の下腹を撫でるからだ。すでにそこに宿っていてもおかしくないだろう新しい命が、まるで見えてでもいるみたいに。  私は今日も、身体の一番奥、最も深い場所で彼のすべてを受け止める。  このまま妊娠したとしても私は構わない、でも尊さんはどうだろう。彼はこれだけ立派な寺院の住職だ。その身分から考えても、こんなふうに安易に子供を作るなどしては、反対する人間も出てくるのではないか。  ……反対する、人間?  そんな人はきっといない。だって、ここには私と尊さんしかいない。  すぐ傍に人の暮らす町があるのに、この場所からはなぜか、なにかが生きている気配を感じられない。おかしい。訪ねてくる前には、麓の店にも確かに立ち寄ったのに。  寺院は、やや小高くなった場所に建っている。見渡そうと思えば、麓に広がる町を一望できるはずなのに、降り続ける雨が生み出す霧はあまりにも深い。景色ごとすべてが白くくすみ、まるで明確な形を成していない。  この世から切り離された場所にあるのではと、あり得ない錯覚を抱くほどだ。  そこに、降りやまない雨と耳の奥をじりじり犯す耳鳴りが重なり、二十数年の人生で積み上げてきた私の常識をどんどん覆していく。  尊さんは私を放そうとしない。先日、眩暈がするという話を伝えて以降、それはますます顕著になった。  以来、なにをするにも傍についてくれている。今では、本来そのために雇われたはずの炊事や掃除などの仕事も碌にさせてもらえていない。もしくは、つきっきりで手伝ってもらってばかりだ。  乾ききった砂礫の上に成り立っているに等しい、浮雲のような日々。  胸を覆い尽くさんばかりに膨らみ続ける緊張と不安の正体に、私は近づきたくないと思っている。それなのに、おそらくはゆっくりと引き寄せられてしまっている。  耳鳴りが次第に大きくなっていく。日に日に強さを増している気がする。同じ音を、尊さんも聞いているはずだった。なぜなら、彼は音がするたび顔を強張らせて私に触れるからだ。  思えば、初めてこの寺院を訪れた日もそうだった。強く引かれた腕の感触を思い出す。それから、耳鳴りを聞きながら顔を強張らせていた、尊さん自身の様子も。  尊さんは、あのときからすでに私を庇ってくれていたのだ。  得体の知れない耳鳴りから――そして、それを私たちに浴びせているものから。
/65ページ

最初のコメントを投稿しよう!