第五章 天泣、崩れる砂礫と君

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第五章 天泣、崩れる砂礫と君

《一》からくりの正体  沈黙は、ほんのわずかにも、逆にひどく長いものにも思えた。  靄に包まれたきりの周囲の異様さも手伝ってか、感覚はさらに掻き乱され、まともな判断がつかなくなっていく。不意に思い出したように吐き出される自分の息が、沈黙の中で控えめに音を刻むばかりだ。  ぴりぴりとしたその静寂を裂いたのは、尊さんだった。 「ああ、そうだ。ひとついいことを教えてあげようか」 『……なに?』 「あんたがその姿になってから言った、寺院を潰せっていう話。知ってた? あれ、あんたに言われたからやったんじゃなくて、僕が望んでやったんだよ」  靄の向こう側で、お兄さんが――護さんが大きく目を見開く。  尊さんに触れる私の指も、それと同時に派手に震えた。  この寺院を潰したのは、尊さん自身? しかも本人の意志で?  空いた手で、私は思わず口元を塞いだ。露骨な反応を示した私に、傍に立つ尊さんが気づかないわけはなかった。指に絡んだ尊さんのそれにはさらに力がこもり、逃がさないとでも言いたげだ。  ……いや、違う。恐れているのかもしれない。私が、勢いに任せてこの手を振り払ってしまうことを。 「あんたの言いなりになったふりをした。あんた、すごく楽しそうだったね。あんたに逆らえなくて、守るべき寺院を逆に衰退させていくしかできない。そんな僕を眺めて、胸のすく思いだったでしょう」 『……な……』 「もうどうでも良かった。死後婚に偽の絵馬を使ってみたり、口うるさく罵ってくる連中を、奴らがやってたのと同じ方法で殺してやったり。ひとり殺せば、ふたりやろうが三人やろうがもう変わらなかった。別に直接自分の手を血に染めてるわけじゃないし」  護さんは、大きく目を見開いたままだ。  私たちと対峙して以降、護さんは、初めてここまであからさまな動揺を覗かせていた。 「皆、僕があんたに取り憑かれて狂ったのかって怯えてたよ。寺院が傾いて潰れるまで二年もかからなかった。ああ、それはあんたも知ってるかな。潰せって命じた張本人なんだから」 『尊、お前……』 「禁忌を犯す、人を殺める、そういうことに心を痛める必要がなくなった。だってどれだけ心を砕いたって変えられなかった。どいつもこいつも、協力どころか邪魔しかしてこない。そもそも弱りかけてて、それも全部壊れた。あんたと藍のせいで、全部」  藍……またその名前だ。  それに今、尊さんはなんと言った? 人を殺した? 尊さんが? 「僕が明日名を殺して、絵馬に僕らふたりの名前を書いてこの世から消えること、そんなに心配だったのかな。だから今日現れたんでしょう。この百二十年、僕の前には一度だって姿を見せなかった癖に」 『……黙れ』 「生きた人間でなければ絵馬に名を記せない。だから、僕にあんたと藍の名前を並べて書いてほしくて仕方なかったんだよね? 残ってる能力者は……死後婚を成立させられる人間は、今となっては僕だけだものね」  追い詰める。まるで、蛇。  先刻までは護さんこそがそう見えていたのに、今では完全に逆だ。 「誰が書くかよ。さんざん人を追い詰めて、苦しめておいて……僕があんたの幸せを望むとでも思ったか」  尊さんは笑っていた。  毒を含んだ言葉を吐きながら口元を緩ませる彼が、一瞬、知らない人に見えた。喉が乾いた音を立てて、それが自分の発したものだと、私は一拍置いてから思い至る。  護さんは、殺そうと思っていた相手である尊さんに、誤って逆に刺されて命を落とした。護さんは「藍」という女性に想いを寄せていて……尊さんの言葉をその通りに受け取るなら、ふたりは同時期に命を落としたということか。  護さんは、死してなお尊さんの精神を揺さぶり続け、そして尊さんは結果的に護さんの意に沿う形で寺院を潰した。絵馬を使って人の命を奪いながら。忌み嫌っていた方法に、自ら手を染めながら。  ようやく、からくりの正体が見えてきた。  こんなときだというのに、また今まで想像すら及ばなかった話を聞かされているというのに、私の頭は妙にすっきりしていた。度を越した混乱のせいで逆に冷静になってしまったような、そんな不可解な感覚に身体ごと囚われる。  護さんは、尊さんに、自分と藍さんの名前を絵馬に書いてほしいと願っていた。そのために尊さんをここに縛り続けてきた。けれど尊さんは、自分を苦しめた護さんの幸せなんて到底願えず、それを拒み続けてきた。そういうことなのか。  理解はできたが、納得はできなかった。  おかしい。どうしてふたりとも、そこまでして……そう思った直後、急に腑に落ちた。  そうか。ふたりとも、互いに互いへの復讐を続けている最中なのか。  笑っているのに、尊さんの目は少しも笑っていない。私には今にも泣き出しそうな顔にしか見えず、胸を締めつけられる思いがした。  視線こそ私には向いていないものの、尊さんは護さんに話しかけながら、確かに私にもこの話を語り聞かせている。何度も目にしてきた彼の涙、繊細な内面、そして今、彼自身の口から語られる信じがたい話。それらが綯い交ぜになり、この人の本性を、深すぎる靄の奥に隠してしまう。 「僕が明日名を渡せないことを逆手に取りたかったんでしょう? 悪いけど、僕は藍なんてどうでもいい。かわいそうだとは思うよ、でもあんたを苦しめるためなら藍がどうなろうと知ったことじゃない」 『っ、貴様……!!』 「まだ分からないのか? あんただって同じことしてるだろ……僕から明日名を奪おうとしてるだろうが!!」  それぞれの怒鳴り声が耳に突き刺さる。  これが尊さんの本当の顔なのか。兄を憎み、寺院を憎み、人を殺し……それが、この人の。  ――違う。  百二十年。護さんはそう言った。  尊さんは、そんなにも長い間ここで生きてきたのだろうか。当時の姿のまま、この梅雨の寺院の中でたったひとり、お兄さんに恨まれながら、お兄さんを憎みながら、ずっと。  触れ合う指からは、いつしか互いに力が抜け落ちてしまっていた。  漂う空気を震わせるほどに低く、また怒りに満ちた声をあげていた尊さんは、どうしてか指先にはその激情を滲ませていない。そら恐ろしくなった私は、自分の指を彼の長いそれに反射的に絡め直した。  尊さんがゆっくりと私に向き直る。  指を放されそうになり、私はいやいやをする子供のように首を振りたくる。そんな私を、困ったように笑って見つめた尊さんは、やがて静かに口を開いた。 「放してください。明日名」 「っ、尊さん」 「今の話で分かったでしょう? 僕は人殺しだ。これは正しい行いだと自分に言い聞かせながら、好き勝手に人を殺めては手を血に染めて……やっぱり、君はこんな穢れた手に触れてはいけない」  滔々と語る声は、いつかと同じものだった。  絵馬伝承にはなんの確証もないと話していた声と――人殺しのために絵馬伝承を利用しようとした愚かな私を優しく諭してくれたあの日の声と、同じ。  違う。違う。そんなふうに言わないで。  それなら、どうしてあなたは私に触れた? どうして私を抱いた? あんなに苦しそうに私の首に手をかけて、それでもあなたは殺してしまえなくて、泣いて……あの涙が嘘だったなんて、私は絶対に信じない。 『僕も明日名が好きです』 『いつかちゃんと、きちんとしたものを渡すから』 『君がいなくなったら、僕は』  いつだって泣きそうな声で紡がれていたあなたの言葉が、全部嘘だったなんて、私は。 「嫌です」 「……明日名」  再び強く手を握って声をあげると、尊さんはたしなめるように私を呼んだ。  怯むわけにはいかないと、今伝えなければこの先永遠にその機会を取り逃すことになると、ただそう思った。なにを伝えるのかとか、どうして機会がなくなるのかとか、詳細については自分でも理解できていなかった。だが。 「守りたかったんでしょう」 「え?」  ……私はなにを口走っている。戸惑う内心を無視し、口は勝手に動く。  いつだったか、これと同じ感覚を覚えたことがあった。大昔のことだった気もすれば、つい最近だった気もして、なんだかうまく掴み取れなくて、でも。  ああ、思い出した。  あのときに似ている。尊さんの痣と傷を、初めて見たときに。 『この傷までは、消してあげられなかったんだね』  あれは誰の声だった? 私の声、私の言葉……そう、私の。  私が、誰に向けて零した、言葉だった? 「尊さんは、寺院を……絵馬に力を宿すことを憎んでいたのではなくて、その力を悪用することを憎んで、悲しんでいたんでしょう? 本当の意味で、この寺院と死後婚を守りたかったから」  勝手に喉を滑っていく自分の声が、自分のものではないかのような錯覚に陥る。  喋る私を呆然と見つめていた尊さんが、瞬間、大きく目を瞠った。
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