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振り返ると、壁一面に大きな口があった。
まるで鯨の口に人間の唇をつけたかのような、大きな口だ。
ぷっくりと膨れ上がり、腫れ物のような朱色をしている。
「さっきからぶつぶつと言っていたのはお前か。まったく、うるさくてかなわんぞ」
「壁に口あり、障子に何とやら。口は喋るもんって決まってますやろ」
口はへらず口を叩いた。
「うるさい。壁にあるのは耳だろうが。それに、こっちは明日までに原稿を上げなきゃならないんだ。お前の相手などしてられるか」
「原稿? あんさん、ライターかなんかでっか?」
「まあな。三流雑誌になんとか駄文を載せて、生計を立てている。しかし、まだまだ駆け出しだ。一度でも原稿を落としてしまったら、二度と依頼は来まい」
「はあ、そら大変ですなぁ。きっと今までも、いろいろと苦労しなはったんでしょうなぁ。よかったら、わいにグチでもこぼして、気ィでも紛らわしたらどうでっか?」
「口が聞き役に回ってどうする」
「ははは。こりゃ、一本取られましたわ。それやったら、本領発揮。じゃんじゃん喋らしてもらいますわ」
「だから、お前の話を聞いているひまなどないと言っているだろう。こっちはまだ題材も決まっていないような状態なんだぞ」
「そんな怒らんでも……じゃあ、こういうのはどうでっか? わいがあんさんのネタになるような話をするんですわ。わいかて、だてに長いこと口をやっているわけやおまへん。それなりに、人とは違った経験もしとるっちゅうわけです」
「……自信がありそうだな」
「おっ、食いついてきましたな」
「こっちは猫の手でも借りたい心境なんだ。おもしろそうな話があったら、ぜひ聞かせてくれ!」
口は、嬉しそうに両端をつり上げた。
「よっしゃあ、それなら、こんなんはどんなんですか? 去年の夏、あんまり暑うてしょなかったもんやさかい、プールの床に現れてみたんですわ。そしたらですな、クソガキ
どもに、あのでっかいブラシで歯を磨かれそうになったんですわ。プール掃除をするあの堅いブラシでっせ。思い出しても、ああ恐ろしや……」
口は、もったいぶるように間を置いた。
「ほんま、開いた口が塞がらない、っちゅうのはあのことでしたわ。わははは」
「……他には、ないのか?」
「つまらんでしたか? いい笑い話や思いましたんやけど。そうでんなぁ。そんなら仕方がないですな、悲しい思い出やけど、トンネルの中に現れたときのこと、話しますわ」
口はすねたように唇の先をとがらせた。
「ちょうど向かいの壁に、薄紅色の綺麗な唇の艶をした口がいましてな。互いに一目惚れしましたんや。まあ、目はないから一口惚れとでも言うたほうがいいかもしれへんけど。とにかく運命の出会いっちゅうやつでんな。その口、サクラちゅうんですが、サクラとわいは、いつも暇さえあれば、愛の言葉を交わし合っていたんです。サクラはごっつ、情熱的な口でしたねん。わいのことを好きで好きでたまらんかったらしく、いつもクニヒコさんと熱い接吻が交わしたいと言うとりました。そいで勢い余ったのか、あるとき、向かいの壁からわいのいる方へ、勢いよくジャンプしましたねん。あっ、て思いましたな。一言わいに言ってからジャンプするべきやったんや。口なんやから。ちょうどその瞬間、トンネルの中を列車が……」
「お前はクニヒコという名前なのか……。シュールすぎる。というか、どこが面白いのか、まったくわからない。どうせ、作り話なんだろう?」
「ありゃま、お見通しでっか? 口八丁手八丁て言いますやろ? 口車にのせられるとでも思いました? あははは……面白くありまへん?」
「面白くない」
「口さがない人でんな。さじの先より口の先ってことわざ知りまへんのか?」
「さっきから、ことわざとか言葉遊びがしつこいだけで、内容はまったく参考にならないぞ」
「むむむ……それなら仕方がありまへん。とっておきの話しましょ。でも、あんま大きな声で言えまへんのです。もうちょっと、ちこうに寄ってくれなはれ」
「なんだ? 期待できるんだろうな」
「もっと、ちこうに、ちこうに」
「これでいいか?」
「おおきに」
突然、太くてよくくびれた喉ちんこが、男の目の前に現れた。
ぱくり。
むしゃむしゃ。
「あんさん、口は災いのもとでっせ」
*
男は、そこで目を覚ました。
執筆中に、机の上でうとうと寝入ってしてしまったらしい。
時刻は、深夜をとっくに過ぎていた。
机の上に置かれてある原稿は、いまだ真っ白だった。
締め切りに追われていたせいか、奇妙な夢を見たものだ。
男は尿意をもよおして、洗面所に向かった。
ふと、暗がりの中、鏡に映った自分の顔が目に入り、足を止めた。
明かりをつけ、顔を近づける。
鼻の下に、大きな唇がついていた。ぷっくりと膨れ上がり、腫れ物のような朱色をしている。
その口は、男の意思とは無関係に、楽しそうに笑った。
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