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息子がいなくなって五日目になった。
小学校の野外活動で、息子の大輝はクラスで近くの小さな山に行った。そこに班ごとに自然を観察したり、木の枝や葉っぱを集めて簡単な工作をしたりする。
クラスメイトの話では、大輝は荷物も持たず、一人で山の中に入って行ったという。クラスのボス格の山下君に命じられ、工作の材料になる木の枝を班の全員分取って来させられたのだ。
そのまま、大輝は日が傾いても戻って来なかった。さすがに子供達も隠しておけなくなり、先生方が手分けして辺りを探してみたが、大輝は見つからなかった。野外活動は急遽中止となった。
翌日から地元の人達や警察の人達が大勢で山に入って捜索に当たったが、大輝の姿はどこにも見当たらなかった。そんなに大きな山ではないのに、大輝は煙のように消えてしまっていた。
神隠し。
そんな言葉が頭をよぎる。
昔だったら、そう言われていたのだろう。しかし、携帯もGPSもない時代ならともかく、現代ではただの行方不明だ。
今日も、食事が喉を通らない。今この時も大輝が山のどこかでお腹をすかせていると思うと、自分ばかりが食事をするわけには行かないと思う。
「体が持たないから、食事だけは取っておけよ」
そう言って、夫は仕事に出かけた。わたしは家に取り残される。家にいても、連絡を待つばかりで何も手につかない。
気づかなかった。気づいてやれなかった。大輝が、山下君の使い走りのようなことをさせられていたなんて。本を読んでばかりいるようなおとなしい子だったから、強い子の言いなりになっていたのだろう。大輝のことは、ちゃんと見ていたと思っていたのに。
嘆いてもどうしようもないとわかってはいても、思考がぐるぐると頭を巡る。
と。
電話が鳴った。
わたしは急いで電話に飛びついた。
警察から、大輝が見つかったという連絡だった。
夫に連絡をしてから、電話をくれた警察署に向かった。大輝は近くの病院で、体調に異常がないか診察を受けているという。
病院の方に行くと、ちょうど診察が終わった頃だった。看護師さんに付き添われ、大輝が姿を見せる。
息子は思ったよりも元気そうに見えた。食べ物なんて持っていなかったというのに、やつれている様子はなかった。……いや、むしろ血色が良くなっているようにも見える。
「ママ!」
大輝がわたしを見つけ、叫んだ。
その、ほんの一瞬。何とも言えない違和感があったように思った。具体的に何が、というわけではない。ただ、何かが違う。前の息子とは、何かが。
しかし次の瞬間には、大輝は全く元の大輝に戻っていた。今のは一体何だったのだろう?
この五日の間、大輝は山の中をうろうろしていたのだという。木のうろのような場所で眠り、清流の水を飲み木の実を食べて過ごしたと、おまわりさんに語っていた。
その結果、知らない間に遠くまで行ってしまっていたようだ。大輝が見つかったのは、隣県に近い村だった。子供の足でそこまで行けるものかとも思われたが、大輝は一人で歩いて行ったと言い張った。
結局、不審な人物を目撃した人もいなかったことから、大輝の言い分が正しいのだろうということになった。多少の矛盾は見逃された。
そして、大輝は家に戻って来た。
しばらくは、何かと騒がしかった。いくつかのマスコミが取材をしに来たり、噂好きのご近所さんからあれこれ聞かれたりした。
しかし、大輝は「山道で迷って、いつの間にか遠くにいた」を繰り返すばかりで、じきに人々の興味は他に移って行った。
迷子になるきっかけになった山下君のことも、特に誰かに言うこともなかったようだ。それは大輝なりのクラスでの処世術なのかも知れないし、案外本当に気にしていないのかも知れない。それはわたしにはわからなかった。
喧騒が去った頃、わたしは妙なことに気づいた。
大輝の食が、目に見えて細くなったのだ。
もともとそんなにたくさん食べる子ではなかったが、おかずやご飯を残すことが増えた。どんな好物を作っても、以前程には食べなくなった。しかし特にやせ細ることも、反対に変に太るということもない。見た目には変わらず元気そうだ。
夫に相談しても「どこかでおやつをもらってるか、買い食いでもしてるんだろう」とあまり真面目に取り合ってはもらえなかった。
その上。
ふとした瞬間に、大輝に違和感を覚えることが何度かあった。大輝が戻って来た時に感じた、あの違和感だ。
無論、一瞬のことでしかない。ただ、前の大輝には感じなかった、何かが違っているような感じ。気になり始めると、その頻度は増えた。
何だろう、これは。
何がどう違うのか、何故違うと感じるのか、それがわからないことがさらにわたしを不安にさせた。それでもわたしも大輝も、表面上は平穏な生活を送っていた。
そんな折。
あの山下君が、姿を消した。
大輝の行方不明からしばらくは、山下君もおとなしくしていたようだ。ほとぼりが冷めた最近は、前のようにボス然と振る舞うようになっていたらしい。
それが、突然いなくなった。
無論大掛かりな捜索が行われたが、山下君は見つからなかった。最近、あちこちの家で飼われているペットや、学校の飼育小屋のウサギも何匹か消えているという話も伝わって来た。
大輝の時と同じように行方不明になったということで、大輝にも警察の人が話を聞きに来たが、「知らない」という答えが返って来た。
その顔にまたあの違和感を覚えて、わたしは不安になった。
──大輝は、嘘をついているのかも知れない。
そう言い切れる程の確信もなく、その場はそれで終わった。
その夜。誰もが寝静まった深夜に、何か物音を聞いた気がして目が覚めた。夫は何も気づかずにぐっすり眠っている。
忍ばせてはいるが、かすかに聞こえる軽い足音。わたしはそろそろと寝床を抜け出し、ドアを細く開けてみた。暗闇の中、小さな影が動いているのが見えた。
大輝。
自分の部屋をこっそり抜け出し、息子は外へ出ようとしていた。こんな夜中に、どこへ行くつもりだろう?
わたしはこっそり後を追った。人気のない真っ暗な道を、大輝は迷いのない足取りで歩いて行く。たどり着いたのは、学校の裏手の使われていない倉庫だ。
穴の空いた壁の一部をふさいでいるトタン板を外し、大輝は中へ潜り込んで行った。黒い穴が、誘うようにぽっかりと開いている。少し迷ったが、わたしは意を決して続いて中へ入ってみた。
中はまるで洞窟のようだった。手ざわりも、空気も、全体的にじっとりと湿り気を帯びている。ここは本当に室内なのだろうか? 倉庫にしては、何だかやけに広い。
少し離れたところに、ぼうっとした光が見えた。警戒しながらもそろそろと近寄ってみる。
それは、奇妙なものだった。細く白い茎のようなものの先に、丸く細長いぷにぷにしたような感じのものが生えている。つやつやした真珠色のそれが、ぼんやりとした光を発していた。先端部分が揺れると、食欲をそそる香りが漂った。
全体的には大きなキノコのようにも、また巨大な虫の卵のようにも見える。それがいくつもびっしりと生えていたのだった。
その、わけのわからないものの前に、大輝がいた。
大輝は虫の卵のような先の部分をぶちり、と両手でもぎ取った。そのまま、口を大きく開けてそれにかぶりついた。
ぐしゅぐしゅと湿った音を立てながら、大輝はそれを咀嚼し、飲み込む。息子の顔には、性的なものすら思わせる恍惚の表情が浮かんでいた。
「大輝……」
わたしは、ふらふらと大輝の元にさまよい出た。大輝が振り返る。
「ああ、ママ。よくここまで来れたね」
何だかわからないものを食べながら、大輝はこともなげに言った。
「大輝……何なのここは。何を食べているの」
声が震えているのが、自分でもわかった。
「ここはね、山の抜け道だよ。普通は山の奥の方に入り口が開いてるんだけど、ここらへんみたいに山を切り出して作られた街には、時々入り口が開くことがあるんだ」
「それは、一体何なの!」
「僕はアムブロシアって呼んでる。ギリシャ神話の、神様の食べ物の名前」
大輝は手元のそれに視線を落とした。
「山で迷子になった時、この抜け道に入り込んだんだ。そしたら、とてもいい匂いがしてさ。お腹がすいてたから食べてみたら、すっごく美味しかったんだ。一つ食べたら、一日食べなくても平気だし」
食欲をそそる香り。それは、熟れた果物のようにも、焼き立ての菓子のようでもある。こんな場所で嗅ぐそれが、わたしには殊更に気味悪く感じた。
「抜け道から出てみたら、結構遠くまで来ててびっくりしたけどさ。大人の人に見つけられて、もうこれを食べられないのかなとがっかりしてたら、この入り口を見つけたんだ」
さわさわと、白いそれが揺れる。
「アムブロシアは抜け道の中でしか育たないみたいなんだ。外に出したら、すぐに枯れちゃって。だから、ここに畑を作ったんだ。──畑を作るのも大変だったんだよ、これは動物の死体にしか生えないんだから」
言われて、わたしは思わずそれが生えている根元を見た。先端の部分に隠れて見えにくかったが、その根元にあるのは猫、犬、鳥、ウサギ、そして──子供の手が、見えた。
わたしは、悲鳴を上げた。
「山下の奴はさ、勝手に僕について入って来てここを荒らそうとしたから、畑になってもらったよ。人間を使うと他の動物よりたくさん採れるし、味もいいんだ」
平然とそんなことを言う大輝が、まるで自分の息子の姿をした何か別なもののように見える。
「そうだ、ママもアムブロシアを食べてみてよ。ママには一度食べさせてあげたかったんだ」
わたしは思わず後ずさった。大輝が、アムブロシアを手に近づいて来る。
走って逃げようとして、湿った床に足が滑った。バランスを崩し、倒れる。咄嗟に立ち上がれない。
わたしの口に、大輝がアムブロシアを押し込んだ。
──瞬間、えも言われぬ甘美な味が口中に広がった。
甘味や酸味が絶妙に混じり合い、背後で苦味や塩味が引き立てる。時々、思い出したように辛味が弾け、じわりと旨味がにじみ出る。味のバランスを絶妙に保ちながら、舌の上で次々と変化して行く。
美味しい。
こんなに美味しいものは、食べたことがない。
「わかったでしょ、ママ」
すぐそばにいる大輝の声が遠く聞こえる程に、わたしはこの美味に没頭していた。
「僕、これをパパにも食べさせてあげたいんだ。他にも食べさせてあげたい人はいるよ。でも、それにはもっとこれを増やさないと」
もっともっと、これを食べたい。
そう、子供の死体にこれだけ生えるなら、大人の死体にはもっと生える筈。
「だからね、ママ、畑を広げるのを協力して欲しいんだ。いいよね?」
わたしは何も考えられず、ただ大輝の言葉にうなずくばかりだった。
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