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金松葉
澪をひく和船が一匹の鯉を連れ立ってきたのは神無月のころである。
あまねく山を駆ける国の守は馬をあおって狩に興じ、池の鯉を気にかける者は一人を除き誰もない。皆辺境の地に影をひそめる大小の鷹や兎、鹿、猪を狙い、息巻いていた。
毎日狩りくらし、生きものを射殺す暮らしは不向きだ。青く茂る山々が紅葉に染まり、やがてただ冬枯れの木々に成り果てようとも、国の守に追従することはない。
ほっそりと白い腕を伸ばすと、狩衣の袖が池に浸った。美しい瓜実顔の若人ただ一人が鯉に寄り添いつづけていた。狩衣に身を包んだ姿はいささか華奢で未だあどけない少女のようななりをしている。
船宝紫苑女が単を着たことは一度もなく、代わりに海蘭という名を持っている。過去に不義の子を身ごもったという母と同じ、女子に父が恐れをなしたのだ。以来、船宝紫苑女は小さな頭に烏帽子を乗せ、男児として辺境の地へ追いやられたのであった。
女が池に指をつけ、しばし大人しく待っていると、水面が淀み、瞬く間に黄金の光を放つ。気を良くした女は涼しげな目許をなおいっそう細くして破顔した。
「金松葉、いざ給へ」
凛とした声に鯉が応えた。跳ねた尾びれから水滴が舞い、陽の光で金色の粒は薄黄に変わった。
短い髭が上を向き、人間と同じく口唇を持つ口が何度も開閉する。その姿は言葉を発しているかのようだ。鯉が擦り寄る仕草を見せる。女の手にその身を撫でつけ指先が輝く。
金松葉はただただ目も眩む美しさを身にまとっていた。金色の体に松葉の網目が重なることから名付けたが、女はこれほど眩い鯉を見たことはない。
その金松葉は鱗がところどころ剥がれ落ちていたのだ。
父である船宝紫苑は度々女に物資を送った。その船に半ば引きずられる形で金松葉は女のもとへやってきた。
あまりに傷ついた鯉を一目見た女は既に鯉が息絶えているのではないかと思い、庭先へ埋めてやろうと両の手ですくい上げる。すると女の指の腹にわずかにひりつく痛みが走った。剥がれた鱗で指が切れたのだ。黄金の一枚の鱗に血がついていた。それは鯉が身じろいだため剥がれた鱗であった。生きている。鯉の生命力に女は感謝した。自分は生きものを射殺す国の守とは異なり、生かす人間なのであろう。女の心に光が差して献身的な世話と治療にかりたたせたのだ。
女の献身は今ようやく実を結ぼうとしていた。
自身の世話をする者たちは寝食の支度をし、国の守は馬とともに狩で山を駆けている。一人と一匹で静謐な時を過ごす。
船宝紫苑女と金松葉は、はげしい矢音でなく水の跳ねる音と草木の青い匂いより淡水の匂いを好んだ。
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