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H.M.K
事務所のドアが外からの風を受けてキイ、キイ、と揺れている。
背の高いヤクザは「すぐ帰る」と言い残し、わざとらしくドアを大きく開いたまま出て行った。
チャンスと言えばチャンスなのだが、目の前にいる男が……同じく腎臓を担保に取られた男が、恐ろしく爽やかな笑顔を浮かべて手を差し出してる。
仕方が無いから手を出した。
「俺は成瀬健二、葵の苗字は?いくつ?身長は何センチ?細くてちっこいな」
……呼び捨てかい。
この世で一番嫌いな質問には答える気が無いから黙ったままブンブンと手を振ってさっさと離す。
こんな悪意の篭った握手で満足するのもどうかと思うが、健二は気にする様子も見せずにドサっとソファに体を預けた。
「まずはどんな仕事を手伝うのか聞きたいよな、その前にジュースがもう無いな、おかわりあるよ?今度は何を飲む?もうオレンジジュースは無いからコーラか……ビールだな」
「ビールをください」
健二は「ハイハイ」と笑って本当にビールを持ってきた。
飲んだら終わるけど……
もう一回「飲めない」って言うのも悔しいから一応タブを開けてみる。
「あ、あ、」って心配そうに手を振り回す手は何だ。そう来るならと、見せつけるように一口飲んでみた。
「本当に飲むんだ、冗談のつもりだったのに」
「いいから仕事の説明をしてください」
手伝う気なんか無いけどね。
説明くらいは聞いてもいい気になって来た。
ビールのせいじゃ無いよ、幾ら何でも一口舐めただけで酔ったりしない。
うん、と頷くと健二もうん、と頷いた。
「じゃあ説明するけどさ、葵はあんまりわかってないみたいだからこれだけは言っとく」
「……はあ」
二回目のフェイント
早く言えっての、思わず舌打ちをしそうになったよ。
でも悪態をつくのは損をするだけだと学んでる。
もう一回、なるべく素直そうに頷いておいた。
でも苛っとした事はバレたらしい。
健二は苦笑いをして「ほらね」と頭を撫でられた。
「葵はさ、椎名さんを誤解してるんだと思うよ」
「"しいな"ってさっきの人ですか?何も誤解なんかしてません」
まあ、多少、最初に登場した銀の男よりチンピラ感は80%オフ、一般人の水とセレブっぽい水で希釈されてヤクザ果汁5%って所だが、窓の真っ黒い車が本物だって言ってる。
「見たまんまです、見事な熟成ヤクザでしょう」
「うん、そこは否定しないけど、椎名さんを誤解しないで欲しい、あの人はさ、葵を助けてくれたんだよ」
「拉致して脅して嘘を付いといて何を言ってるんですか」
「葵の気持ちはわかるけどな、これだけは覚えとけ、椎名さんがいなけりゃ今頃どうなってたかわからないんだぞ」
どうなってるってこうなってる。
「何が言いたいんですか」
「闇金は貸したお金を決して諦めないって事。逃げても一生追われるし、逃げてる間に利子が嵩んで本当にどうしようもなくなる。そうなるとまともな生活なんか出来なくなるぞ」
「俺の借金じゃ無いし……助けたって言ってもこうして監禁してるんじゃないですか」
「監禁なんかしてない、逃げたいのなら逃げればいい、多分椎名さんは追って来たりしないと思うよ」
じゃあ、「さよなら」って言おうとしたけど、タイミング悪く階段の方から聞き覚えのある足音が上がってくる。
健二!
言うの遅いよ。これは「椎名」の革靴が立てる音だ。
「ちょっと買い物」って本当にちょっとだった。
「ただいま〜」と呑気な声を出した椎名がコンビニの袋を下げて事務所に入って来た。
「早かったですね」
うん、本当に。
「葵くんが腹を空かしているからね、可哀想だろ?弁当とかサンドイッチとかお菓子を買ってきた、焼肉弁当と天津飯とサンドイッチ……他にはプチシュークリームとポッキー、どれがいい?」
それはご好意痛み入りますが……、最初に捕まった時からずっと、何を言っても崩れない胡散臭い笑顔が食べ物が並べて行く。
「焼肉がいい」と手を出した健二の腕をパチンとはたき落として「葵くんが先」って……何の演出だ。
こんな事で油断したりしないけど、どっちにしろ焼肉も天津飯もサンドイッチもポッキーもいらない。
「俺は……」
「食べなきゃ駄目だよ」
「どうしてですか、変な同情とか見せかけの温情はいりません」
「俺が心配だから食べなきゃ駄目。これは命令。葵くんは朝から何も食べてない、違う?」
そうだけど……腎臓を寄越せと言われ、逃げて捕まって死ぬ覚悟をしたばかりなのだ。今、俺の胃は縺れて捩れて三つ編みになっている。
「あ〜お腹すいた」って言える程神経太く無い。
本当にいらないのに……健二が食べたいと言った焼肉弁当の蓋が開いて目の前に押し出された。
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