僕が明け方にバイクで走る理由(後編)

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僕が明け方にバイクで走る理由(後編)

 恋人が帰宅した後は、しばらく布団の中でごろごろしているのが常だ。  残滓の感触は決して気持ちの良いものではないけど、終わったらさっさと風呂、なんていうのはあまりに効率重視で合理的すぎる。そもそもそういうのから最もかけ離れた行為だし、名残惜しいし、切ないし。  未練がましく煙草を一本吸ってから、鈍く疼く重い腰を上げてユニットバスへ向かう。  シャワーを浴び終えて、ざっと身体を拭いてから歯を磨き、少し鬱屈した気持ちで鏡を見る。薄く曇った鏡面をてのひらで擦ると、無愛想な自分の顔が見返してくる。水を吸って垂れた髪を掻き上げてみても、無愛想さが強調されるだけ。これをきれいだと言った物好きは乾くらいだったが、今もまだそう思ってくれているだろうか。  つまらないことを考えていると自分でも思う。浮き上がった骨の目立つ身体は貧相としか言いようがなくとも、ところどころに散った小さなうっ血はまさに彼に愛された証拠だというのに。 (倦怠期、なのかな)  しくり、と胸が痛む。  言わなくても判ることや、知っていることが増えたのは、単純に嬉しい。経験則に従って動くのも悪くないというか、元々そういう方が好き。自分にとって心地良いペースが、相手にとってそうでないかもしれないなんて、傲慢だけど思ってもみなかった。  全部、被害妄想だけど。  呪わしいのはやっぱり、この口下手だ。  慧斗はため息を吐いて、ユニットバスを出た。  パジャマ代わりのスウェットとTシャツを着て、煙草を咥えようとして降ってきた水滴に邪魔される。濡れた煙草を捨て、がしがしと髪を拭きながら、もう一度ため息を吐く。朝まで、いや眠くなるまで、買い溜めた本を読もう。どうせ、きっと、眠れない。    知らない作者の、しかも翻訳小説となると、ちょっとした冒険だ。ネットの書評を信じてシリーズ既出分を全巻買ってみたが、そこそこ当たりだった。思っていたより軽めの内容で読みやすい。三冊目を読み終ったところで、カーテンの向こうが白んできたのに気付く。  もう朝になる。  小説はそこそこ面白かったのに、内容はあまり頭に入っていない。作者のせいでも翻訳者のせいでもなく、考え事ばかりしていた自分のせい。  もう朝になるのだ。いっそのこと、もう、行ってしまってもいいと思う。  夜通し考えていたのは、そればかりだった。  パーカーを引っ張り出して、頭からかぶる。下は、そのままでいいや。スニーカーに足を突っ込んで、ヘルメットを引っかけて、もどかしく玄関の鍵を閉めて階段を駆け下りる。  人気のない静かな空気をエンジン音で破り、慧斗は走り出した。    203号室のドアを合鍵で開ける。  カーテンをきっちり閉めた室内は薄暗く、物音といえば自分の足音くらい。目当ての人物は、ベッドの中で安らかな寝息を立てていた。膝からベッドに乗り上げて、肩を揺らす。最初少し躊躇ったけど、どのみち迷惑なんだからなんて身勝手な理由で、手に力を込める。 「ん……」  鬱陶しそうに眉を寄せ、夢と現実の間を彷徨っていたのだろう乾は、やがてうっすら目蓋を上げると、ゆっくりと目を見張った。 「……どうした?」  寝起きのいがらっぽい声で、でも、不作法な来襲者をまず心配してくれて。気だるそうに腕を上げて、慧斗の頬を撫でてくれる。 「ん?なんかあった?」 「あの……」 「うん」 「俺、変わらない毎日みたいなの、すごく好きっていうか、満足で……もしかして乾さんは飽きてるかもなんて全然考えてなくて」 「ん、なんだ、どうした?」 「つまんなかった?」 「中村くん?」 「俺ばっか幸せで、ひとりよがりだった?」 「おーい、話が見えん」  乾は困ったように笑いながら、慧斗の両頬を包んで、宥める。 「倦怠期って……言った」 「俺が?いつ」 「昨日……」  それでもすぐには反応がなく、しばし考え込むような間の後やっと、口の端にくっきりと苦笑を刻んだ。 「――言ったな。言いました」 「あれからずっと気になっちゃって、自分でも考えすぎだって思うんだけど、でも、もしそうだったらって思ったらもうどうしようもなくなって」 「うん」 「ごめんなさい俺、自分のことばっかで……」  頬から体温が遠のき、背中に回ったと思ったら、きつく抱きしめられた。 「単なる冗談というか、言葉のあやだったんだが」 「うん……」  嫌だな、涙声になってる。 「俺、重いでしょ……?」 「軽いよ。せっけんのいい匂いだし」  顔を押し付けた乾の胸元も、せっけんのいい匂いがする。 「俺が言いたかったのはさ、事実だけ並べるとまるっきり倦怠期のカップルがやってることみたいなのに、なんでこんな幸せなのかなぁってことでさ。きみばっかじゃないよ、ちゃんと両想い」 「うん……ごめんなさい……」  欲しかった言葉をもらうためなら手段を選ばない、こんな自分にも優しくて、やっぱり涙声になる。  うーん、と大儀そうに唸りながら、慧斗を抱いたままごろりと寝返りを打って、乾が言う。 「でもまあ、最近、ちゃんとしたデートしてないのも確かだな。近々計画立てよう」 「無理しないで」 「俺はどっちも楽しいからね、インドア派のきみと違って」 「うん。あの、乾さん、まだ早いのに起こしちゃって……ごめんなさい」 「落ち着いた?」 「うん……」 「きみに寝込みを襲われるのは、久しぶりだな」  眠たそうに、いや、本当に眠いのだろう、とろんと半分落ちた目蓋から覗く眼が、揶揄の色を帯びている。まだ恋人どうしになれるなんて思ってもいなかった頃、寝顔に心動かされてキスしたことを言ってるんだろうか。その後だって、結果的に襲った形になったことならある気がする。思い当たる節がいくつかあるって、問題じゃないか。  忘れていた羞恥が呼び戻されて、耳まで熱くなる。  くくく、とやはり喉の奥で満足そうに笑って、事もなげに彼は言った。 「好きだよ」  思わず見上げると、目と目が合う。揶揄半分、かな。でもいい。 「俺は、大好き」  早口で言って抱きつくと、体勢がさらにごろりと半回転し、慧斗はベッドに押し付けられた。 「こらー、煽るなよ」  笑いながら覆いかぶさってくる乾の首に、腕を回す。 「目、覚めちゃった?」 「おかげさまで。目が覚めただけなら、ほんの三文得しただけだが」  ちらりと目線を落とすのにつられて覗き込むと、スウェットの生地が持ち上がっている。朝だからというわけだけでないのは、乾の言葉が裏付けている。 「俺は、いい、よ?」 「あーくそ」  乾が左手を上げて、手首を目に近づける――腕時計を見る仕草。もちろんそこには何もない。 「って、なにやってんだ俺」  慧斗が指摘するより先に自分で気付き、盛大に顔をしかめるので、ハの字になった眉を指先でなぞって、大体の時刻を告げる。 「まだ六時過ぎ」  逆算すればじゅうぶん時間があるのだと。  まるで誘うみたいに、じゃなく、事実その通り。まだぼんやりと彼の感触が残っている場所に、もう一度。また命じるなら声に出して乞ってもいいと思ったけど、彼は無言で、慧斗の唇にその唇を押し当てた。  薄暗かった部屋が、いつの間に青白く明るい。  朝になっていた。  それも、目を閉じてしまえば判らなくなる。 「好き……」
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