真夜中の過ごし方

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真夜中の過ごし方

「…あっ、あ、ぁんっ」  心臓とか、脳みそとか、それよりもっと直結した部分とか、ドキドキいってる。ちらつく絶頂、追いかけているのはまさにそれで、額を押し付けた枕に声と息がこもる。握り締めた右手に大きな手が重ねられ、軽く撫でるようにしてその感触が去ると、湿った唇が押し当てられる。はふっ、弾む息を詰まらせて、乾が熱っぽくささやいた。 「ケート…」 「はっ、あっ」  慧斗の中を繰り返し攻めていた彼が、動きを止め、ぴったりと腰を押し付ける。慧斗を背中からぎゅっと抱きしめて、身体を震わせながら勢い良く注ぎ込むから。 「ふっ……うぅっ」  息を止め、奥歯を噛み締める。真っ白に飛んだ数秒の後、零した精液はシーツに受け止められる。どちらのものともつかない荒い息と、全身を濡らす汗。睫毛に絡み付いているのは、涙かもしれない。慧斗はべったりと顔に張り付いた前髪をかき上げ、目尻をこすった。ちゅ、うなじに贈られたキスの音、んちゅっ、一本の生き物が引き抜かれた音。背中の重みがなくなったので、ゆっくり寝返りを打つと、 「あっちい…」  首を拭いながら乾が身体を起こすところ。ささやかな防音対策は、ベッドの中、ひいては部屋の中を高温にする副作用がある。のぼせた身体を起こす努力をしている間に、乾によってベランダの窓が開けられ、停滞した空気にゆっくりと夜風が進入してきた。 「空、すっげー晴れてるよ」 「ふうん…」  今夜は快晴だって。  梅雨は果たして明けたのか、七月も終わろうというのに曇りがちな毎日だが、夜になって晴れたってあまり実感できない。興味の湧かない情報に、返事は自然と上の空になる。それに気を悪くしたふうもなく、薄闇の中で乾は楽しそうに口元を緩めた。再びベッドに戻り、片膝を乗せるから、端が沈む。見上げた彼の胸板はまだ大きく上下しているけど、それは慧斗にしても同じことだ。こちらを見下ろす、青白く不明瞭ながら、何かたくらむようなにやり笑い。声より先に落ちてきたのは大粒の汗一滴で、頬に直撃して思わず目を瞑ってしまう。 「なあ」 「…なに?」 「ちょっと相談」 「うん」 「夜は始まったばかりです」 「あ、はい」  コンポのデジタル時計は、日付が変わるまであと一時間半くらいの時刻を示している。これから夜明けまでを夜と呼ぶつもりなら、確かに、始まったばかりだろう。言葉の真意が、もし、3ラウンド目を要求するためのものなら…なんて想像が顔に出たのかもしれない。 「あ。今、何考えた?」 「べつに…何も」  揶揄う目つきから逃げる間もなく、頭を押さえられ、髪の毛をかき回される。くく、短く喉の奥で笑ってから、彼は明朗な口調で言ったのである。 「海行こうぜ、海」    十分ずつのシャワーと、五分の着替え。CDのセレクトに、あと五分要する。助手席の慧斗がシートベルトを締めるのを待って、車はゆっくりと動き出した。目的の海岸までは、平日の夜なら一時間足らずで着いてしまうだろう。ちょうどアルバム一枚分。オーディオに飲み込まれたCDが、穏やかに前奏をかなで始める。アコースティックギターのシンプルな音。今年最初に買った、サーフミュージックの旧盤だった。 「いいね」  運転手は機嫌よく頷いて、ステアリングを撫でる。 「でもちょっと…昼間っぽかったかも」 「ああ、昼間聴いたら、もっといいね」  太陽の似合うナンバーだったかもしれない。そう慧斗が反省点を挙げても、乾にとって大した問題ではないみたい、あっさり頷いてみせるだけだ。  関東の大きな湾を有する土地で育った彼にとって、十代の全てと二十代の一部をサーフィンに費やした彼にとって、海には特別な思い入れがあるのかもしれない。真冬にも一度、やはり思い立ったように車を走らせたんだっけ。彼との最初の海は、とても寒くて薄暗い色をしていたのに、どことなく楽しい場所だった。 「ねえ、乾さん」 「んー?」 「なんで、海なんですか?」 「あ、嫌?」 「…やじゃないけど、全然」 「そっか、よかった」  車は市街地を抜けて、国道に乗る。これからずっと続くまっすぐな道を快調に飛ばすための、加速。短い沈黙から回復し、乾がふとまた口を開く。 「なんつーのかな、なんか、呼ばれるんだよね」 「呼ばれるって…海に?」  そういう意味だと思ったのに。 「ははは、いいね、それ」  愉快そうに笑うから、詩人ぶったことを言ってしまったと恥ずかしくなる。気まずい気持ちで窓の外に顔を向けると、前髪が大きく舞い上がった。  オーディオのボリュームを、少しだけ上げる。開け放った窓を勢い良く抜ける風が、さっきからスピーカーの音をさらっているのだ。生乾きだった髪は、そう言えば、もう完全に乾いている。 「気持ちいいなあ、風」 「うん」  鼻先をくすぐる一筋を指で払い、慧斗は再び窓の外に目を逸らした。    潮の匂いを感じる頃には、もう車は海岸通りを走っていた。次第に匂いは強まり、防波堤の脇に車を停めると、エンジン音のなくなった途端波の音に包まれる。  すぐ近くには、一本の外灯が立っている。白っぽく光るそれは誘蛾灯のようで、羽根を持った虫がひらひらと周りを飛んでいた。 「おーい、中村くん?」 「あ、行く」  階段を降りながら乾が振り返るので、慌てて後を追う。  海岸沿いには外灯が等間隔に立っているものの、足元はやはり薄暗い。すがるように触れたTシャツの背中は、少し汗ばんでいた。 「お、誰もいない」 「…ほんとだ」  言われてはじめて気づいたが、砂浜は無人だ。夏休みの学生とか、いると思ってたんだけど。 「中村くんは、夜の海、見に来たことある?」 「来たことはあるけど、見に来たことはない…です」 「なるほど」  コンクリートの階段は砂まみれで、歩くごとにざらざらとその感触を変化させる。お気に入りのスニーカーはローカットで、くるぶしの隙間からすぐに砂が侵入してしまう。まとわりつくざらつきを手で払いながら、慧斗は再び乾の背中を追いかけた。一番下の段に腰を下ろすので、横並びに座る。 「見てみ」  彼の指差した前方に広がるのは、黒々とした、暗黒にも感じる海。表面だけが時折きらりと光り、地球が水を湛えていることを証明している。 「晴れてると、案外見えるでしょう」 「…うん。きれい」  もし雲っていたら、この先は本当にどこまでも暗黒が続くだろうし、太陽の下では、こんなふうに存在感を探るような気持ちにはならない。  軽く空を見上げると、左斜め上の位置に月、ちらちらと星も見える。ぷつりと途切れた会話、けれど重苦しさはなく、慧斗は膝の上で頬杖をついた。ブラックベルベットのようだ、なんて、やっぱり下手な詩みたいなフレーズが浮かぶ。そんな比喩から生まれるものは一つもなくて、ただ、目の前に黒々と輝く海があるのが事実というだけだった。 「記憶にさ」 「え?」  空想に似た考え事に、柔らかいテノールが割り込んでくる。 「ほら、呼ばれるって言ったろ?記憶に呼ばれる、ってのが近いのかなぁ」  びくりと肩を跳ね上げた慧斗に横目で笑いながら、乾が小さく腰を浮かせる。ワークパンツの尻ポケットを探ったが、特に何を取り出すわけでもなく、しれっとした顔で元の体勢に戻るから。車の中に置き忘れたんだろう、慧斗は笑いを噛み殺しながら、彼と同じように腰を浮かせた。潰れたソフトケースを取り出し、一本を咥え、一本を差し出す。 「サンキュ」  カチ。勢い良く上がったライターの火に、同時に顔を近づけて。にわかに明るくなった半径30センチ内で、示し合わせたように目が合ったのは偶然。すぐに薄闇に戻り、ふー、と吐いた煙もはっきり見えなくなる。 「…さっきの、記憶って」 「ああ、うん。天気のいい夜の海が、そーいやきれいだったって思い出したんだよ。ガキの頃の俺は、朝から晩まで浜にいてさ…色んな表情見てるけど。そうゆうのって俺にとっては嫌んなるほど原風景でも、きみにとっては違うだろ?」  海育ちの彼と違って、慧斗は内陸育ちだ。海に関するほとんど全てのことが、非日常だし生活圏外だった。 「…うん」 「その記憶を、実現させたくなったっつーか。見せてあげたいじゃん、やっぱ――俺の話、意味通じてる?」  自信なさそうに苦笑し、ふーっ、俯いたまま煙を吐き出す。 「だいじょぶ、通じてる…すごく」 「はは、すごく、ってなに?」  原風景、と表現されたことに慧斗はすごく納得している。それはゆらぐことのない彼のアイデンティティーなどではなく、変化する環境とか進んでいく時間とか、もっと大気的なイメージの中にある本質だと感じる。話し合えば理解できるものではないし、たとえば写真を見たからって実感できるものでもない。共有する方法は一つ、時空を越えて、同じ景色に二人で存在するしかないのだ。今、それが成功している。  慧斗は返事をしないまま、乾の膝頭に手を置き、素早く頬に唇を寄せた。一瞬触れて戻るつもりが――驚くくらいに躊躇いのないスピードで肩と背中を引き寄せられ、気づけばキスの体勢になっていた。  温かい唇が、唇に触れてる。 「は」  舌先が絡み合い、小さな音になる。突き放そうとしたのかもしれない右手が、彼の胸から鎖骨を通過して、首筋を撫でる動きに変わり、最後腕ごと絡まる。  バン。  頭上から急に聞こえた異音に、始まりと同じくらい突然キスが終わる。  階段を見上げると、乾の車からはやや離れているが、やはり階段付近に駐車しようという腹の、白い車が停まっていた。ドアを閉めた音だったのだろう、五、六人の小集団がこちらに向かって歩いてくるところで、見えるわけもないのに濡れた唇を拭っている自分がいる。  大声で笑い合いながらの会話は筒抜けで、どうやら花火をしに来たらしい。 「…さて。譲りますか」  のんびりと言って、乾が立ち上がる。慧斗は短くなった煙草を咥えなおして、差し出された手に掴まった。 「よっ」 「え、わ」  予想以上に力強く引っ張り上げられるから、前のめりになる。 「…ありがと」 「いえいえ」  離した手のひらが少しざらついていて、慧斗はくすくす笑いながら手のひらをジーンズにこすりつけた。 「どした?」 「ううん。なんか、砂まみれだなって思ったら…笑えてきた」  お気に入りのスニーカーも、ジーンズも、足の裏や手のひらも。  ふっ、弾ける失笑。指で挟んだ煙草を指揮棒のように揺らして、乾は一段抜かしで階段を上り始める。  滑らかに流れ出した口笛は、っさきまで聴いていたアルバムを全曲ごちゃまぜにしたような、オリジナルのメロディーだった。 <捕捉> 季節があっちこっちいってしまってすみません。
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