水曜日の桜

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水曜日の桜

 四月に入ってから、晴れと雨が交互に訪れるような、なんとも不安定な日が続いていた。  汗ばむほど暑かった一昨日から一転、昨日はまるで冬に逆戻りしたかのような寒さ。おまけに酷い雨で、一斉に満開を迎えた桜はおそらく、昨日のうちに大半が散っただろう。  そして今日はといえば、昨日の豪雨が嘘のような好天気だ。  ベランダに出ると、温かい空気に鼻先がくすぐられ、くしゃみが出る。この時期なんとなく、くしゃみが多かったり目が痒くなったりするのだが、他人のそれと比べて明らかに症状が軽く、花粉症と名乗るほどでもない気がするなあと思いつつ毎年春が終わる。  ――半袖一枚ではやはり、少し肌寒いか。  ガラス戸を閉め、鍵を掛ける。Tシャツの上にパーカーを羽織り、作業着をバッグに詰めて、準備完了。時刻を確認するために左腕を見て、腕時計をし忘れていたことに気付く。  文字盤はあと少しで十時をまわる。もう出発していいだろう。  さっきからCMばかり流れていたテレビの電源を切り、乾は部屋を出た。    車に乗り込み、エンジンをかける。最初に向かうのは郊外の職場ではなく、駅前の百貨店だ。ああ、その前に、同じく駅前の銀行で振り込みを済ませるのだった。いちいちコインパーキングに停めては出したりするのが地味に面倒だが、車本位で行動するための宿命だろう。  ウィンカーを右に出し、表通りに出る。    到着時刻は、十一時過ぎ。予定よりも早い。が、約束したわけでもなく、一方的な予定に過ぎない。  アパート脇の路肩に駐車し、車を降りる。  帰宅したわけではない。自宅とは趣の異なる、二階建てのアパートだ。  ベランダを見上げる限りでは、いるともいないともつかない、ひっそりとした外観。階段を上がる前に、駐輪場へ回ってみると、目的の原付バイクが停められている。朝方、まだ乾ききらない道路を走ったのであろう車輪には泥が跳ねていて、桜の花びらを何枚も巻き込んでいた。  こんなところで原付バイクを眺めているよりも、その持ち主の顔を見るほうが有意義だろうことには、すぐ思い至る。階段を上った先、いつもの号室のドアホンを鳴らし、返答のあるなしに関わらずドアノブを回すのもいつものことだ。このように、鍵が掛かっているのであれば、合鍵の出番というわけ。  ジーンズの尻ポケットに手をやったのと、内側から開錠の音がしたのは、ほぼ同時。  はい、と、消え入りそうな返事とともにドアが開いた。 「おす」  乾の挨拶に答えるでも頷くでもなく、無言で見上げてくる。  面食らっているのは、実は、彼だけではない。おそらく留守でないとは思っていたが、風呂上がり――この感じ、あるいは途中だったのかもしれない――とは予想外だ。スウェットのスボンを履き、頭から無造作にバスタオルを被っただけの姿。ドアを支える手から、腕にかけて水が伝っている。全体を認識すると、急に、ボディソープの強い香りに気付かされる。  お互い息を呑んだのはわずかな時間だったろうが、一瞬、自分のほうが早く回復したようだ。 「入っていい?」  尋ねながら、やや強引に部屋に入る。 「んな色っぽいかっこで、出て来ちゃだめだろー」  本心からの注意だったが、思わず笑ってしまったせいで、冗談めいて聞こえたかもしれない。奇妙に無配慮なところのある彼には、恋人の欲目を差し引いても、気を揉まされているというのに。  眼下の慧斗は、バスタオルの裾で顔を拭いながら、ぼそりと呟いた。 「宅急便かなと思って…」 「何か頼んでたの?」 「本…」  語尾が、くしゅ、と、小さなくしゃみに変わる。 「とりあえず、上、着なさいね」 「うん……てか乾さん、何で?」  肝心な質問が後回しになるのも、彼の特徴といえば特徴かもしれない。  Tシャツを被る慧斗の後姿を横目で見つつ、床のスペースを適当に広げて腰を下ろす。 「今日、午後からでさ」 「あ、うん」 「ちょっと寄ってみました。驚いた?」 「うん」 「嬉しい?」 「う――なに、言ってんの」  惰性で返事をするからだ。慧斗はにやついた乾を軽く睨んだあと、ふい、と目を逸らす。 「てか、変な感じ…日曜日会ったばっかなのに」 「だな。またメールするとか言っておきながら、何の連絡もなしに来るしな」 「うん、ほんとに」  そんなことないよと否定するところでは、確かにない。ただ、そう言って頷いた慧斗の口元は機嫌良くほころんでいる。  じゃあまた、などと交わして別れた日曜から二日後の、水曜日。会えない時は会えないが、会えるとなると案外あっさり会えるもので、こればかりは均等に分配された試しがない。今日の半休が実現するかどうかも、実際のところ昨日までわからなかったのだ。 「これ、一緒に食おうと思ってさ」 「…何?」  持参したビニール袋から、包装紙に包まれたパックを取り出す。受け取った慧斗が、包装紙の隙間から中身を覗くように目を凝らすのに、噴き出しそうになる。 「開けていいって、普通に」  セロハンテープに爪を立て包みを剥いた彼が、意外そうな顔をしたのも当然だろう。 「桜餅?」 「うん。ほら、こないだ、日曜にさ、子供の頃以来食ってないって言ってたじゃん」 「え、だって乾さん、苦手って言ってなかったっけ」 「いや、食えないほどじゃないけどね。なんか、粒々の食感があんまりね」  そう、自分は桜餅が苦手だし、慧斗はそもそも甘党から程遠い味覚の持ち主だ。  先日、どんなきっかけだったろうか、そんな話をした。その時は特に何も思わなかったのだが、昨夜たまたま見ていたバラエティ番組で桜餅が紹介されていて、うっかり食指が動いたというのが真相。乾自身もう何年も食べていないし、今なら新しい発見があるかもしれない。 「で、これを今から、手分けして食うわけですね…」  そんなに悲壮な顔で言わなくてもいいだろうに。五個が購買の最少単位だったのだから、仕方ないではないか。 「まあまあ。あ、お茶淹れようぜ、お茶」  そこで更に、途方に暮れた顔になる。 「お茶…」 「買ってきたから安心して。急須ある?」 「あー…る、かも、しれない」 「だよな。そう思って、ティーバッグにしました」  感嘆の声とともに、拍手が送られた。シミュレーションの賜物というやつだ。  乾は立ち上がり、バスタオルを被ったままの慧斗の頭に手を置いた。 「俺やるから、頭乾かしてきなよ」  タイミングを計りかねていたのだろうと申し訳なく思っての提案は、しかしゆるりと首を振った慧斗に拒否される。 「いい…あとで」 「後って、いつ」 「乾さんが行ったら」  即座に反応できなかったのは、即座には結論が出なかったからだ。つまり、突然の、それも出勤前に顔を出す程度の訪問が、思ったより功を奏しているということだろうか?しゃがみ込んで覗いた慧斗の表情は、都合の良すぎる解釈をするなと乾を戒める種類のものではない。 「いいからさ、お湯沸かしてる間に乾かしちゃいなよ」  なお渋るように、ほんのわずかに唇を尖らせる。  その唇に誘われるなというほうが、無理な話だった。洗い立ての滑らかな唇は、乾の口付けに抗わず、ゆっくりと開く。たっぷり吸ってから、離れ、もう一度今度は喉元へ口付ける。襟ぐりを少し下げ、左右の鎖骨のちょうど中心あたりに残っている、薄っすらとした跡へ。日曜の自分の所業以外に考えられないが、当日は気付かなかった。 「乾さん?」  細い指に、髪を撫でられる。 「ん?」 「や…べつに」  なぜそこにキスをするのかと、訊いてくれてもいいのに。ただし、消えかけのキスマークが舞い落ちた花びらのようだったので――などという詩的センス皆無の感慨を口にしてもいいのなら、だが。慧斗はさぞえもいわれぬ(ほど複雑な)顔をすることだろう。 「よし。俺はお茶を淹れる、きみは頭を乾かす」 「…うん」    茶を淹れるといっても、やかんを火にかけ、熱湯をマグカップに注ぐだけだ。慧斗のカップに熱湯を注いでいると、タイミング良くドライヤーの音が止まる。 「そういえば、駅前あたりの桜、全滅だな」 「うん、昨日雨だったし」 「見といてよかったな」  花見目的ではなく寄り道ついでだったにせよ、満開の桜を見られたのは幸運だったろう。  振り返り、背後で待機していた慧斗にマグカップを渡すと、彼は大人しく部屋へ戻って行った。自分のカップを持ち、乾も後に続く。見覚えのないラベルだからだろうか、慧斗はティーバッグの箱をまじまじと見ている。駅前の百貨店で買ったのだと告げたが、正解を聞いてもぴんと来ないようだ。 「本館にさ、なんか紅茶屋?みたいな店あるじゃん」 「…あったっけ」 「あるんだよ。緑茶も売ってたから、そこで買った」 「ふうん」  気のない返事をする彼に、 「中村くん、はい」  桜餅を勧める。端の一つを摘み上げ、そのまま口に運ぶのを確認してから、乾も隣の桜餅を取った。 「どう?」 「おいしい…と思うけど。すごい、桜の味がする。あと結構しょっぱい」  感心したように言って、もう一口。乾はまず、苦手要素の一つ、周りの葉の塩漬けを取り去ってから、歯を立てた。慧斗ほどではないが、久しぶりに食べた桜餅。確かに、強烈なくらいの桜のにおいが鼻から抜ける。それと、この、独特の粒の食感に、つぶ餡の柔らかい食感が重なって…。 「どうですか?」 「うん?こんな味だったなあ、と」  苦手意識が強まることこそなかったが、薄まりもしない、といった感じだ。 「でも、なんつーか、春の味だね」 「ですね…」  最大の苦手要素はやはり、もち米の存在感だろうか。熱い茶を飲んで、はー、とため息をつく。向かい側の慧斗が、目を伏せてくすりと笑った。
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