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小さな決意
「ただいま」
学校から帰ると、家は穏やかな温もりで迎えてくれた。おじさんと私が暮らす家は古い。おじさんが育ってきた家だから当然だけれど。この家が私は大好きだ。使い込まれた木々の温もり、よく手入れされたキッチンの優しさ。私の幸せはいつだってここにあった。
この家は、おじさんの優しさそのものだと思う。この家の温もりに包まれて、私は本当に幸せだった。いつまでも、この穏やかな温もりに包まれていたい。
けれど、そんなおじさんにもひとつだけ不可解なところがあった。
私が小学生の時だったろうか。おじさんに一度だけと思い、質問したことがあった。
「ねぇ、おじさん。おじさんのこと、『お父さん』って呼んでもいい?」
おじさんは何か言おうとしたものの、その顔は悲しげに沈み、黙り込んでしまった。
実の父の存在を消したいと思ったのではない。ただ、おじさんの娘になりたかった。それだけだった。おじさんは答える代わりに、私の頭を優しく撫でた。いつもと変わらない優しくて、大きな手で。その顔はとても寂しそうだった。
「ごめん、今の冗談! おじさんは私のおじさんだもんね、アハハハ!」
必死にごまかした。おじさんを悲しませてはいけない、苦しめてはいけない、絶対に。父も母も側にいない私にとって、おじさんは私の全て。例えお父さんと呼べなくても、おじさんが私を娘のように大事にしてくれているのは間違いない。それでいい、それだけで私は十分幸せなのだから。
「朱里、そのことはいつか……」
「ううん、いいの。本当にいいの。ごめんね、変なこといって」
「朱里……」
「おじさん、お腹空いちゃった! おやつにしよっ!」
「おやつにはクッキーがあるよ。チョコチップが入ったやつ」
「おじさん手作りのクッキーだね? わーい! 私、おじさんのクッキー大好き!」
「じゃあ、手を洗っておいで」
わざと大きな声で喜び、おじさんもいつも通りの優しい笑顔に戻った。
私達はあのとき、お互いに問題から目を逸らした。そうすることで関係を保とうとしたのだ。あのときはそれが最良だった。
しかし、いつまでも目を逸らし続けているわけにはいかない。私はもう小さな子どもではないのだから。実の娘ではないことは知っている。それでも養女にするという方法があったのではないかと思うのだ。養女であれば、おじさんを『お父さん』と呼んでも差し支えはない。おじさんは私を娘のように愛してくれたが、養女という形で本当の娘にはしてくれなかった。
「そろそろ聞かないとダメ、だよね」
おじさんとの関係が壊れてしまいそうで怖かった。それでもおじさんに、いつまでも全力で甘えているわけにはいかない。私は知らなくてはいけない、自分自身のことを。実の父のこと、母のこと、そしておじさんをなぜ、お父さんと呼んではいけないのか。
キッチンに向かうと、食卓の私専用の椅子に座った。お気に入りの可愛いクッションが敷かれた私だけの特等席。食卓を挟んで向かい側がおじさん。おじさんの優しい笑顔がすぐに思い浮かぶ。
「きっと大丈夫。私とおじさんの仲は、これからも変わらない」
それは自分自身へ言い聞かせようとしていたのかもしれない。
「うまく話せなかったら、海斗はまた話を聞いてくれるかな」
飄々とした顔で、私の話を聞いてくれる少し変わったヤツ。あいつの照れくさそうな笑顔を思い出すと、不思議と勇気が湧いてくる。
「さて、洗濯物を取り込みますか」
ゆっくり立ち上がると、洗濯物が干してある庭に向かった。
その夜、仕事から帰宅したおじさんと一緒に、いつも通り晩御飯の支度をした。食器を食卓に並べ、何でもない空気を漂わせながら、おじさんに聞く。
「ねぇ、おじさん。後でごはん食べるときに聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
おじさんが私をじっと見る。いつもより少し長めに。
「おじさんも朱里に話したいことがあるんだ。後でゆっくり話そう」
ああ、おじさんもきっと悩んでいたんだ。私みたいに。そう思った。
「うん、わかった」
今晩のメニューは焼き魚と豚汁。いつもより少し苦い焼き魚になりそうだ。
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