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「ハシュルツ様、ハシュルツ様」
まずは天蓋の外から声をかける。毎回思うが、青い天蓋より赤いもののほうが絶対に
似合う。いや、やっぱり黒だろうか。赤は、そうだあいつらを思い出してしまう。今度黒を薦めてみよう。
「ハシュルツ様」
天蓋のカーテンを捲ると、大きなベッドにこんもりと山ができているのが目に入る。
アレを、いただけるのだろうか。
唾を飲み込む音が聞こるのと同時に、体が微かに震え出した。
枕の場所までかかっている布団をゆっくりと捲っていく。
長いローブの下から蛸足のような触手が何本か生えている。それが僕に伸ばされた。
「ああっ」
今日も、今日も触手を巻き付けてくださった! 骨が軋むこの感覚が、たまらない!
ありがたき幸せ!
「………スラーシュ」
「おはよう、ござい、ます……ハシュルツ様」
起きてしまわれた。こうなると、もうあの痛みは味わえない。触手が解かれていってしまう。名残惜しい実に名残惜しい。
我が主の触手は黒々として、光沢があって非常に美しい。美の塊が僕のような下賤の徒に触れてくださっていると思うと立ち上がるモノがある。吸い付いてくる大きな吸盤たちも可愛らしい。
「二足には強すぎたか」
「むしろもっと強くてもそれか頭に御御足で一撃を!」
「……」
ああ、麗しい瞳が僕を見る。ハシュルツ様は中々僕の慈悲を求める声に応えてはくださらない。けれどその代わりにこの身を視界に入れてくださる。
ハシュルツ様に“体”という概念は無い。代わりとなっているのはローブの中の黒霧だ。その霧の中から鮮血の眼球が浮かんでは消えてを繰り返している。僅かな間しか見れないのは非常に残念だが、我が主は僕だけを“個”として見てくださる。
僕だけを。
「行く」
「はい、行ってらっしゃいませ」
この館の隣に神殿があり、毎朝そこでハシュルツ様は信者たちに御言葉を届けている。
届けているといっても、実際は僕が御言葉をいただきそれを信者たちに伝えているだけなのだが。
僕のような卑しいものが、先に神殿に入ることは許されない。他の信者もそうだ。だから集会は朝、神殿の入り口に日が差し込む頃と決まっている。それゆえハシュルツ様の朝は早い。我が主に付き添うようになり早十年経つが、この方の“眠り”についてよく分からない。いや、それだけではないか。ハシュルツ様は分からないことだらけだ。
そうは言ったが、恐らくハシュルツ様は朝が弱いほうなのだと思っている。僕が毎朝起こすたびに、あの艶やかな触手が絶対に体のどこかを殴打する。締め付ける。正直に言うと少し出てる、何がとは言わない。
寝起きはローブの中の黒霧が散り散りになっている。その姿に愛おしさを感じる。起きてすぐにベッドのシーツを伸ばす両手もそうだ。人の身では勿論ないため僕らと同じ色はしていない。いや、丁度人間の健康な肝臓と同じ色だろうか。あいつ酒好きだが中は意外にも綺麗だったな。止めよう、一昨日の鉄錆の臭いがしてきた。腹が立つ。
「さて、手早く済ませよう」
ハシュルツ様が神殿に向かわれた後、館の私室を掃除するのが日課の一つだ。
起こす時間も至福だが、この掃除も至福の一時だ。
通ならば我が主のプライベートなど、思うだけで不敬だ。僕だけはそれが許されている。ハシュルツ様の御部屋に入室することを許されている。
これほど幸福なことがあるだろうか!
「ああ、またこんな所に本を置いてしまって……」
あの方は片付けというものに少々無頓着だ。曰く、自分の所有物はどこにあっても分かるそう。だからベッドや長テーブルの上に乱雑に積んでしまう。それを片付けることができる。
私室に入れるだけでなく、私物に触れることができる。
幸せ過ぎて今すぐにでも生贄になりたい。
もし生贄になる時がくるのであれば、その瞬間に精液を布越しにぶちまけるだろう。いやぶちまけるに決まっている。
「はあ、あの方に体臭があればいいのに」
ハシュルツ様は我が主、我が神だ。そんなもの概念すらない。それがまた惜しい。
今日も試しにハシュルツ様使用済みの枕やシーツに顔を埋め、深呼吸してみる。
やはり無臭だ。
強いて言えば、少しだけ薔薇の香りがするが、これは僕が供えた香水のものだろう。奉納した後すぐに使用していただいた時は、尊すぎて昇天してしまうかと思った。けれどそれだけじゃ足りない。あの方のものでなければ僕はずっと飢えたままだ。
こうして私物に触れられて、奉納した物も使っていただいて、これ以上ない喜びだというのにもっともっとと心が吠えまくる。
「やはり人間は浅ましいな。……もう行かなければ、遅れてしまう」
できてしまったシーツの皺を元通りに伸ばし、枕の位置を整えると神殿に向かうためハシュルツ様の御部屋を出た。
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