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モリーの花園
1666年の大火により一掃されたロンドンの街は、美しい近代都市へと生まれ変わった。火事に焼かれないよう街並みを彩る建物は石造りとなり、街の曲がりくねった裏手すら整然とした石畳が敷かれている。
けれども一世紀がたったのちの美しいその近代都市は、犯罪者の跋扈する治安の悪い街へと変貌していた。辻馬車と共に行き交うセダン・チェアは夜中だというのに遊園や劇場に紳士淑女を送り出すのに忙しく動き回り、ひとたびガス灯の明かりが届かない裏路地に行けば、着崩した娼婦たちが、胸元も露わにロビンを誘惑する。
その美しい胸元に欲情を覚えながらも、エドワルダに手を引かれるロビンは薄暗い路地を歩んでいく。路地のあちらこちらには建物からぶちまけられた糞尿が散らばり、それを踏むごとにロビンは不快感に口元を歪めていた。
そんな汚物に塗れた路地裏にひっそりとそのコーヒーハウスは佇んでいる。看板に羽ペンの描かれたそこは名を『シェイクスピア』といった。その名にふさわしく、文壇に花咲きたいと願う若者たちが集う憩いの場だ。
看板の下にある扉を潜り、エドワルダはロビンをコーヒーハウスの中へと誘う。室内は広く、各々の席で何やら議論に耽る青年たちを、コーヒーポットを温める大きな炉が優しく照らしていた。豪奢にも燈心草蝋燭ではなく蝋燭を灯した円形のシャンデリアが吹き抜けの室内を暗く照らし出し、その吹き抜けを取り囲むように本棚の配されたテラスが二階には張り巡らされている。
物書き御用達ともいえるこのコーヒーハウスの二階へと、ロビンはエドワルダに誘われるままに登ってきていた。
エドワルドは薄暗く照らされるペチコートをゆらしながら、シェイクスピアの台本が置かれた戸棚の前で立ち止まる。ぎゅっと彼女はロビンの手を強く握りしめ、ロビンに言った。
「ここから先に広がっているのは、妖精の国だ。だから君は、ここでの出来事を思い出せないし、誰かに喋ることもできない。分かるね、捕らわれのロビン」
くすりと、彼女の眼が笑みを描く。ロビンは大きく眼を見開いて、彼女の顔を眺めることしかできなかった。彼女は、この先に花咲く園に自分たちを連れて行こうとしている。
モリーたちが集う、秘密の花園に。
エドワルダが本棚を押す。すると本棚は後方へと押しやられ、扉のようにきぃっと音をたてながら開いたのだ。
驚愕するロビンを後方に控えながら、彼女はその中へと歩んでいく。眩い光に包まれたその場所に足を踏み入れた瞬間、ロビンの耳朶に拍手が巻き起こった。
そこは、コーヒーハウスと同じく、吹き抜けのテラスが設けられた大きな広間だった。その広間を鳥籠の形をしたシャンデリアが照らしている。そのシャンデリアの周囲には、大きな人のはいった真鍮の鳥籠が幾重にも連なって吊るされていた。
そこから流れる引くテノールのアリアを聴いて、ロビンは大きく眼を見開く。
鳥籠の中に翼を生やした女性たちが捕らわれている。よく見るとそれは、女のドレスを着た男たちだった。そんな見目麗しく着飾った彼らが、まるでカストラートのようにアリアの一節を口ずさんでいるではないか。
吹き抜けの広間には円形のテーブルが置かれ、そのテーブルにつく婦人たちもまた、よくよく見れば背の高い男たちだった。そんな男たちが不格好なのも承知で、化粧を顔に施し幾重ものペチコートをパニエの下から生やしている。
扇を手に持つ彼らは、お互いに微笑みあいながら、紅茶を啜り、大皿に盛られた菓子パンやプティングへと手を伸ばしていく。
まるで女性たちのお茶会と寸分たがわぬそれを見て、ロビンは唖然とすることしかできない。そんな彼を祝福するように、鳥籠に繋がれたモリーたちが低いアルトやテノールでアリアを奏でる。
「あら、久しぶりの新人さんね」
「マダムっ!」
男だらけのその空間の中で、高い女の声が響き渡る。そちらへと顔を向けると、テラスに一人の尼僧が立っていた。黒い衣服に身を包んだ彼女へとエドワルダはロビンの手を放し抱きついていた。
案内人を失ったロビンは、どうしたものかと手持ち無沙汰に手を虚空にさまよわせる。その手を尼僧が握りしめてくれる。尼僧は、大きな胸が、コルセットからはみ出しそうなほどに盛り上がった豊満な体つきをしていた。その胸にロビンは思わず釘付けになる。
「あらあら、性欲は女に覚えるタイプのモリーか。珍しいね」
「モリーたちはソドマイドでは?」
「カストラートみたく男の大事な部分は失っても、女を愛せる奴らもいる。君はその手のモリーってことさ」
聖職者には似つかわしくない俗っぽい話し方だ。そんなところに引っかかりを覚えつつも、ロビンはマダムの手をとりそっと腰を低くしていた。
「失礼、マダム。ロビン・フォーカスと申します。以後、お見知りおきを」
「ようこそ、ロビン・フォーカス。モリーたちの花の園へ。今日から君も我らの同士だ」
そっとマダムの手を放し、ロビンは彼女を見あげた。マダムは嫣然とした微笑みをブラウンの眼に刻み、もう片方の手でエドワルダを優しく抱き寄せている。
長身な彼女の肩は張っており大柄に言えるが、豊満な胸と引き締まった腰が彼女の女らしい魅力を引き出していた。
それでももしやとロビンは思ってしまう。
「まさか、あなたもモリー……?」
「この胸が作り物に見えるかい?」
マダムが苦笑する。彼女は豊満な胸をこれ見よがしにゆらしてみせた。
「そうだね。マダムは女だけど、女じゃない。僕たちモリーによく似てるんだ」
エドワルダが笑う。それはどういう意味なのだろうと思いつつ、ロビンはマダムへと顔を移していた。マダムは苦笑しながら、そんなロビンを見つめ返す。
「それは服を脱がないと教えられないからね。どうしたものか……」
「はあ……」
個人の秘密を詮索する趣味はロビンにはない。けれども妙な引っかかりを覚えて、彼はマダムをじっと見つめていた。
「そんなに私の体が気になるかい」
ブラウンの眼を細め、マダムが笑う。ロビンは何だか申し訳なくなって彼女から視線を逸らしていた。どうも会話からマダムはこのモリーハウスを仕切っている女性らしい。そんな女性が秘密を抱えていてもおかしくはないだろう。
さて、どんな風に仲間たちのこの場所を教えるか。それとももう少し中の様子を探った方がいいかもしれない。
「エドワード。新しいお客様にお召し物を」
「はい。マダム」
マダムがそっとエドワルダを放す。彼女はロビンに軽く会釈をして、その手をとった。
「エドワルダっ」
「行こう。ロビン、今日から君も僕らの仲間だ」
腕を引っ張られ驚くロビンに、エドワルダは笑ってみせた。
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