女王蜂(アーサー)

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★ファウスト  話を聞き終えて、驚きに心臓が痛くなった。  何一つ覚えていなかった。それは今も、思い出せる感じがしない。冷たくて、暗くて、怖かったという感情しか残っていないのだ。  そしてラモーナの記憶も、とてもふわっと途絶えている。覚えているのは黒い影に赤いルージュ。それがいつも怒鳴りつけ、殴り、蹴り、母をけなしていたと思う。  けれどそれ以上に強烈に覚えていたのは、そんなラモーナの後ろでとても楽しそうに、暗い目をして笑っていた義兄チャールズの姿だった。 「その後、お前が完全に回復する前にチャールズを外に出した。そしてお前を本邸に招き、傾いた家を建て直し、お前には様々な師を付けて剣術や弓術、槍に馬にと身につけさせた。祖父様の血を継いでいるんだろう、お前は吸い込むように身につけていった」  ファウストは頷く。とにかく一日中稽古になった。学問に武術にと、とにかく忙しくて目が回った。  そして、アーサーはそこに関わる事がなかった。嫌いだからそれでいいと思っていた。 「お前を騎士団に入れる。お前は覚えていないかもしれないが、それがお前の夢だと信じて私は……」 「……覚えてはいなかった。けれど、騎士になりたい気持ちは何故か揺らがなかった」  不思議だったが、それだけは確かだったのだ。おかしなものだ、忘れたのに奥底で覚えていたのだろうか。 「……ファウスト」 「ん?」 「ランバートと、添い遂げるつもりか?」  問われ、途端に胸の奥が暖かく、そして苦しくなった。思わず側に彼を探してしまいそうになるくらいには、恋しい気持ちが募っている。だが同時に、こんな事に巻き込まれなくて良かったとも思うのだ。  今頃、心配しているだろう。悲しませ、苦しませているのだろう。そう思うと申し訳なさと、早く彼の側に戻りたいという気持ちで一杯になってくる。 「……こうしてお前に話していると、若い頃の気持ちを思いだした。私は、お前に似ているのだろうな」 「ランバートにもそう、言われた」 「あっちはジョシュアに似ているぞ。やることが斜め上だ」 「突飛な部分はあると思うが、それほど似ているとは……」 「そのうち分かる。お前、絶対に勝てないぞ」  小さく笑うアーサーの、こんな表情は初めて見た。いや、そもそもこんなに向き合った事がなかったのだ。 「……お前の思うとおりに生きなさい」 「え?」 「愛する者と離れる苦しみや、裏切りの罪悪感。そういうものを、思い出した。老いたな、私も。いつの間にかお前に家を残す事で、様々な事の恨みを晴らそうとしていたようだ。お前の苦しみや葛藤を、思ってやれなかった」  ふわっと笑うその表情は、思い出した記憶の中にある。優しい父の、諭すような顔だった。 「すまないな、ファウスト」 「だが父様、そうなれば家はどうなるんだ」 「それについては考えがある。お前を煩わせるような事にはしないから、安心しなさい」  だが、そんな都合のいい方法があるのだろうか。ないからこそ、ファウストにもランバートにも無理を押しつけたのではないだろうか。  不安にかられ、声をかけようとした。その時、ドアの外が僅かに騒がしくなった。 「もぉ、本当に使えないな! 医者も呼べない薬もないなんて、どういう管理してるわけ?」 「……すいません」 「もう、いいよ」  聞き覚えが十二分にある声がする。そして申し訳なく謝っているのは、知らない声だ。  ドアが開いて、手に毛布を持ったルカが入ってくる。当然のように入室後鍵はかけられたが、明らかに主導権はルカが握っていたようだった。 「あっ、兄さん起きたの! 大丈夫? まだ、具合悪い?」 「あぁ、いや。それより、何を騒いでいたんだ?」  問えば、ルカは「あぁ」と、とても疲れた顔をした。 「兄さんが倒れたのを知らせて、医者を呼べって抗議したんだ。でも流石に受け入れてもらえなくて」  当然だ、こちらは拉致された側で、そもそもそんな主張は通らない。 「それなら薬はないかって聞いても、ないって言うし。買いに行けって言ってもそれはできないの一点張りでさ」  そうだろうな…… 「本当に使えない。結局毛布くらいしかなくて。しかも埃っぽいの! 洗濯まではできなかったけれど、埃はたいてきたから」 「あぁ……」  にっこりと差し出される毛布を受け取ったファウストは思う。リーヴァイの豪胆さを受け継いだのは、間違いなくルカだと。 「それと……これは確証がないんだけれど」  ルカは少し困惑した様子で口を開く。首を傾げたファウストとアーサーに、ルカはおずおずと口を開いた。 「僕もちゃんと覚えてるわけじゃないから、間違ってるかもしれない。でも……ここ、もしかしたら昔、僕たちが暮らしていた家かもしれない」 「え?」  思わぬ事に、ファウストもアーサーも顔を見合わせる。そして、二人揃ってどうにか立ち上がり、辺りの物を見回した。  打ち付けられた窓の隙間から、僅かにオレンジ色の光が漏れている。その薄明かりで見る室内は、確かに見覚えがあった。 「まさか……本当に?」 「間違いない。調度品も昔のままのはずだ。ここは子供部屋だ」 「!」  思い出したら、また吐き気がこみ上げてくる。ふらふらと、ファウストは壁際の一角へと向かった。そこはきっと、カーペットの色が違うだろう。この奥が、あの小さな隠れ家だ。今では入口すらも入るのが精一杯な大きさだ。 「兄さん……」 「母様……」  その場に膝をつき、ファウストは悲しみに涙をこぼした。  事が動いたのは、その翌日の事だった。
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