434人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ
★ファウスト
話を聞き終えて、驚きに心臓が痛くなった。
何一つ覚えていなかった。それは今も、思い出せる感じがしない。冷たくて、暗くて、怖かったという感情しか残っていないのだ。
そしてラモーナの記憶も、とてもふわっと途絶えている。覚えているのは黒い影に赤いルージュ。それがいつも怒鳴りつけ、殴り、蹴り、母をけなしていたと思う。
けれどそれ以上に強烈に覚えていたのは、そんなラモーナの後ろでとても楽しそうに、暗い目をして笑っていた義兄チャールズの姿だった。
「その後、お前が完全に回復する前にチャールズを外に出した。そしてお前を本邸に招き、傾いた家を建て直し、お前には様々な師を付けて剣術や弓術、槍に馬にと身につけさせた。祖父様の血を継いでいるんだろう、お前は吸い込むように身につけていった」
ファウストは頷く。とにかく一日中稽古になった。学問に武術にと、とにかく忙しくて目が回った。
そして、アーサーはそこに関わる事がなかった。嫌いだからそれでいいと思っていた。
「お前を騎士団に入れる。お前は覚えていないかもしれないが、それがお前の夢だと信じて私は……」
「……覚えてはいなかった。けれど、騎士になりたい気持ちは何故か揺らがなかった」
不思議だったが、それだけは確かだったのだ。おかしなものだ、忘れたのに奥底で覚えていたのだろうか。
「……ファウスト」
「ん?」
「ランバートと、添い遂げるつもりか?」
問われ、途端に胸の奥が暖かく、そして苦しくなった。思わず側に彼を探してしまいそうになるくらいには、恋しい気持ちが募っている。だが同時に、こんな事に巻き込まれなくて良かったとも思うのだ。
今頃、心配しているだろう。悲しませ、苦しませているのだろう。そう思うと申し訳なさと、早く彼の側に戻りたいという気持ちで一杯になってくる。
「……こうしてお前に話していると、若い頃の気持ちを思いだした。私は、お前に似ているのだろうな」
「ランバートにもそう、言われた」
「あっちはジョシュアに似ているぞ。やることが斜め上だ」
「突飛な部分はあると思うが、それほど似ているとは……」
「そのうち分かる。お前、絶対に勝てないぞ」
小さく笑うアーサーの、こんな表情は初めて見た。いや、そもそもこんなに向き合った事がなかったのだ。
「……お前の思うとおりに生きなさい」
「え?」
「愛する者と離れる苦しみや、裏切りの罪悪感。そういうものを、思い出した。老いたな、私も。いつの間にかお前に家を残す事で、様々な事の恨みを晴らそうとしていたようだ。お前の苦しみや葛藤を、思ってやれなかった」
ふわっと笑うその表情は、思い出した記憶の中にある。優しい父の、諭すような顔だった。
「すまないな、ファウスト」
「だが父様、そうなれば家はどうなるんだ」
「それについては考えがある。お前を煩わせるような事にはしないから、安心しなさい」
だが、そんな都合のいい方法があるのだろうか。ないからこそ、ファウストにもランバートにも無理を押しつけたのではないだろうか。
不安にかられ、声をかけようとした。その時、ドアの外が僅かに騒がしくなった。
「もぉ、本当に使えないな! 医者も呼べない薬もないなんて、どういう管理してるわけ?」
「……すいません」
「もう、いいよ」
聞き覚えが十二分にある声がする。そして申し訳なく謝っているのは、知らない声だ。
ドアが開いて、手に毛布を持ったルカが入ってくる。当然のように入室後鍵はかけられたが、明らかに主導権はルカが握っていたようだった。
「あっ、兄さん起きたの! 大丈夫? まだ、具合悪い?」
「あぁ、いや。それより、何を騒いでいたんだ?」
問えば、ルカは「あぁ」と、とても疲れた顔をした。
「兄さんが倒れたのを知らせて、医者を呼べって抗議したんだ。でも流石に受け入れてもらえなくて」
当然だ、こちらは拉致された側で、そもそもそんな主張は通らない。
「それなら薬はないかって聞いても、ないって言うし。買いに行けって言ってもそれはできないの一点張りでさ」
そうだろうな……
「本当に使えない。結局毛布くらいしかなくて。しかも埃っぽいの! 洗濯まではできなかったけれど、埃はたいてきたから」
「あぁ……」
にっこりと差し出される毛布を受け取ったファウストは思う。リーヴァイの豪胆さを受け継いだのは、間違いなくルカだと。
「それと……これは確証がないんだけれど」
ルカは少し困惑した様子で口を開く。首を傾げたファウストとアーサーに、ルカはおずおずと口を開いた。
「僕もちゃんと覚えてるわけじゃないから、間違ってるかもしれない。でも……ここ、もしかしたら昔、僕たちが暮らしていた家かもしれない」
「え?」
思わぬ事に、ファウストもアーサーも顔を見合わせる。そして、二人揃ってどうにか立ち上がり、辺りの物を見回した。
打ち付けられた窓の隙間から、僅かにオレンジ色の光が漏れている。その薄明かりで見る室内は、確かに見覚えがあった。
「まさか……本当に?」
「間違いない。調度品も昔のままのはずだ。ここは子供部屋だ」
「!」
思い出したら、また吐き気がこみ上げてくる。ふらふらと、ファウストは壁際の一角へと向かった。そこはきっと、カーペットの色が違うだろう。この奥が、あの小さな隠れ家だ。今では入口すらも入るのが精一杯な大きさだ。
「兄さん……」
「母様……」
その場に膝をつき、ファウストは悲しみに涙をこぼした。
事が動いたのは、その翌日の事だった。
最初のコメントを投稿しよう!