season.2 二人暮らし

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season.2 二人暮らし

『後悔、してますか……?』  翌朝目が覚めたら、畑野と裸のままで縺れ合って眠っていて酷く落ち込んだ。後輩とこんな関係になっても平然としていられるほど、経験豊富ではないのだ。 『罪悪感とか、感じちゃってます……?』  しょんぼりした顔で覗き込まれて返答に困っていたら、畑野は淋しそうに笑った。 『あのね。罪悪感なんて、先輩が持たなくていいです。あたしが、どうしても先輩とシたくて、襲っちゃったんですから』 『……でも、……もっとちゃんと、拒むことは出来たんじゃないかって……』 『……女同士って不思議なもんで、最初の警戒心がないから、嫌悪感も抱きにくいんですよ。だからアッサリ流されることって、あると思うんです。今までもこういうことあったし。……これが男相手だったら、警戒心もあるしすぐに嫌悪感が沸いちゃって、ちゃんと拒否できると思うんですね。まぁ、そこから先ちゃんと止まってくれるのかどうかは、相手の誠意次第なんでしょうけど。……だからね、先輩。後悔とかしないで欲しいです。あたしホントにむちゃくちゃ……人生で一番気持ちよかったですから』 『……』  にっこりと笑っているくせに淋しそうな畑野が、きゅっと私の手を握った。 『あたしは先輩が好きです。セックス出来て嬉しかったです』 『はたの……』 『あ~、また名字で呼ぶ~。彩月って呼んで下さいよぉ』 『……彩月』 『んふ、嬉しい。……先輩。あたしは先輩のこと、セックス抜きで大好きだし、職場の先輩としてむちゃくちゃ尊敬してます。……だから、お願いですから、絶交だとか、仕事辞めちゃうとかはナシにして下さいね』  ね、と上目遣いで見つめてくる畑野の口調は、いつも通りの声だ。後輩に気を遣わせてどうするんだと自分で自分を叱咤したら、努めていつも通りに笑って見せた。 『分かった。……これからもよろしくね』 『……はい!』  シャワーを貸して、最低限の化粧品も使わせて。簡単な朝食を二人で食べて畑野を見送ったら、そのまま週末から来週にかけての食材の買い出しに出掛けたのだけれど。 「…………なんで?」 「あっ、先輩遅いですよぅ!」  荷物を両手に抱えて帰ってきたら、玄関扉の前で畑野が待っているなんて思いもしなかった。 「ちょっ……なんで!? なんでいるの!?」 「えっとぉ……」  そのぉ、と言葉を探している畑野の後ろに、大きなキャリーケースが隠してある。 「なに、その荷物……」 「あ、バレちゃった」 「バレちゃった、って……」 「先輩お願いです! 一緒に住ませて下さい!!」 「はぁぁぁ──!?」  家族とは、上手くいっていない。全部あたしが悪いのだと分かってはいるが、自分の娘が自分の思う通りの人生を歩まないというだけで虐げられるというのも切ないものだ。  上手く誤魔化せたら良かったのかもしれない。どうにか隠し通せさえすれば、人生は変わったのかもしれない。でも、どうしようもなかったのだ。  幼い、まだ純粋だった頃。お友達だった女の子と結婚したいと、母に満面の笑顔で言ったらしい。相手の女の子はたぶんその場のノリで、あたしは少なくとも真剣だったけれどおままごとの延長だったとも言える。  無邪気な無邪気な戯言だった。 『何言ってるの!! 女の子同士で結婚だなんて出来る訳ないでしょう、気持ち悪い!!』  ヒステリックに叫んだ母の声は、今でも心を抉りにくる。驚いて泣き出した友達とは裏腹に、ぎゅっと引き結んだ唇をしばらく動かすことさえ出来なかったあたしは、ただただすがる目で母を見つめていたつもりだったのに。 『睨んだって同じよ! 私の娘が女の子と結婚だなんて冗談じゃないわ!!』  睨んだつもりなど、あるはずもない。  思えば頑是ない戯言をまともに受けて金切り声を出す母は、やはり昔から狂っていたのだと思う。  あの後あたしは、二度とあの子と遊んじゃいけません、だなんてキツく叱られて、友達の方も母のことが怖かったらしくてそれきりになった。  以来ことあるごとに、結婚は男女でするものだの、恋愛は男女でしてこそ美しいだのと散々言い聞かされた。そう出来ないあたしのことを嘆いた母に、あんたは私の子じゃないなどと散々怒鳴られた記憶は今も新しい。  一度だけ、意を決して家を飛び出したことがある。まだ小学生くらいの頃だ。家の玄関が見える距離にあった公園のベンチで小さくなって母が探しに来てくれるのを待っていたのに、結局母が家を出てくる気配さえ一度もないまま夜になった。  空腹に耐えかねてトボトボと家に帰ったら、玄関で仁王立ちしていた母に突き飛ばされて、土下座しても家に入れてもらえなかった。今なら確実に児童相談所かどこかへ通報されたのだろうけど、当時はまだ躾と言い張れば済む時代で、結局一晩縁側で過ごした。寒くない季節だったのが、不幸だったのか幸いだったのかすら分からない。  翌朝無言で掃き出し窓が開いて、頬を平手打ちされた。呆然と見上げた先で、お母さんを苦しめて楽しいのと鬼の形相で泣く母に震え上がって土下座したあたしを、母はその後1週間近く部屋に閉じ込めた。最低限の食事に、トイレは申告制。前半はそれでもまだマシだった。地獄だったのは、最後の1日。両親は、あたしを部屋に残して出掛けてしまった。  鍵をかける音だけが聞こえた、あの絶望。  泣いても喚いても誰の返事も返らない、耳が痛くなるほどの静けさ。  どれだけドアを押しても引いても叩いても開かず、トイレは勿論垂れ流すしかなかった。小学生にもなってお漏らしするしかない惨めさに心は折れた。窓のない部屋で自分の排泄物の臭いが染み付いていく体を抱えて、(うずくま)ることしか出来なかった。  両親が帰って来たのは、その日の晩、夜も遅くなってからだった。  玄関の開く音に目を開けて、部屋の扉が開く音に体を起こしたら、母が上機嫌に笑っていた。 『あらあら。彩月ちゃんは小学生になってもおもらしだなんて、赤ちゃんみたいね』 『おかあ、さん……』 『お母さんがいないと何も出来ないのに、家出なんかするからよ』 『ごめ、なさ……』 『もう二度と、あんなことしないでちょうだいね?』  優しさを取り繕った低い低い声で、耳に直接吹き込まれた呪い。  それ以来ずっと、居心地の悪い家で目耳を塞いで暮らしてきた。父はいつも母の機嫌をとることに精一杯で、あたしを助ける余裕などなかった。  どれほど家族と上手くいっていなかろうとも、あの日のトラウマが一人暮らしの夢を打ち砕いて結局実家にとどまらざるを得なかったのだ。 「……あたし、一人暮らしが出来ないんです」 「……どういうこと?」 「一人ぼっちで家にいると、怖くて苦しくなって……息が出来なくなったり、吐いちゃったり。……家族とは一緒にいたくないのに、一人で暮らせないんです……」 「それは……」 「先輩と昨日一晩一緒に過ごして、思ったんです。凄く……凄く心が楽だった。家の中で初めて深呼吸出来た」 「……はたの……」 「……彩月って言ってるのに」 「…………癖だよ、ごめん」  戸惑う顔のまま謝った先輩が、ウンウン唸っている。当然だろう。迷惑をかけることは十分に承知している。  それでも、優しい先輩のその優しさにつけこんででも、一緒に暮らしたいと思ってしまったのだ。 「勿論家賃は半分払います! 水道とか光熱費とか食費とか……とにかく何でもします! 掃除も料理も洗濯も!」  ガバリと頭を下げる。 「親とはもう一緒に暮らせません。だけど一人暮らしも出来ない……。迷惑だって分かってます。でも、お願いです! もう先輩しか頼れないんです」  土下座せんばかりの勢いで深々と頭を下げたら、はぁ~、と聞こえよがしの大きな大きな溜め息が上から降ってきた。  恐る恐る見上げる先で本当に頭を抱えた先輩が、とにかく、と怒った声を出す。 「アイスが溶けちゃうから、中入るわよ」 「──っ、はい!」 「先輩もアイスとか食べるんですね」 「食べるよ。別に普通でしょ」 「なんかクールなイメージあるから、スイーツより日本酒って感じでした」 「あたしが日本酒飲んでるとこなんて見たことないでしょ」 「……甘い系のカクテルばっかですよね、そういえば」  とりあえずリビングに畑野を通しておいて、買い込んできた食材を冷蔵庫に詰める。ちゃんと形を保っていたアイスクリームにホッとしていたら、所在なさげにちょこんとソファーに腰かけた畑野が妙に納得したような声を出した。  小さく固まったままでキョロキョロしている畑野は、親に放り出されて迷子になった子供のように頼りない。  複雑な家庭環境であることはさっきの話でなんとなく理解したけれど、じゃあそれだけのことで後輩と一緒に暮らせるかと言えば答えはノーだ。  どちらかと言えば一人で気楽に暮らしたいタイプだし、彼氏がいた頃も週末一緒に過ごした後の月曜日に一人になってホッとしていたような人間なのだ。つくづく結婚には向いていない。 「で? いつ出てくか決まってるの?」 「……そんなぁ……」  いきなり追い出さないで下さいよぅ、と悲しい声で嘘泣きする畑野の声に溜め息を被せた。 「あのね。ここ、1LDKなの。二人で暮らすには狭すぎるし、そもそも誰かと暮らすのにあたしは向いてないの」 「そんなの分かんないじゃないですかぁ……追い出さないで下さいお願いします~」 「……だいたい、一人暮らし出来ないって、そんなのあたしの知ったこっちゃないわけだし」 「じゃあ先輩はぁ、あたしが毎日漫画喫茶に寝泊まりしててもいいんですかぁ」 「いや……好きにしなよ……」  酷いぃぃぃ、なんてわぁわぁ泣き喚く声は、耳を塞いで聞こえないフリだ。  とはいえ確かに年頃の女の子が毎日毎日漫画喫茶で寝泊まりするというのも危ない。私が気遣ってやるようなことでもないとは思うし、それこそいい大人なのだから自分の身は自分で守って当然だ。  ──そう突っぱねられるなら、そもそも昨日、畑野を家に上げていないだろう。 「ねぇ。……一人暮らし出来ないって、したことはあるの?」 「……しようとしたことはあります。……でも、全然ダメだったんですよ。……親に内緒で物件の内覧に行ったんですけど、不動産屋さんがその場からいなくなっただけで、震えが止まらなくなっちゃって……」 「……そう……」  情けないですね、と笑う顔と声に似合わず、目は底無しに暗い色を湛えている。膝の上で握りしめられた手は、力を入れすぎて白くなってしまっていた。  自分のお人好し加減に溜め息を1つ。それに気付いたらしい畑野の恐々とした表情を見つめる。 「…………家事は」 「っ、……はい?」 「自分のことは自分で出来る?」 「は……っはい!」 「食事は一人分も二人分も変わらないから、あたしが作れる時は一緒に作るけど……そうじゃなければ自分で適当にして」 「はい!」 「掃除は基本週一で掃除機かけて、後は朝に時間があれば乾拭きのシートでサッと掃除するくらいなの。埃アレルギーとかだったら、悪いけど自分で納得いくように掃除して」 「大丈夫です、アレルギーは埃も食べ物もないですっ」 「洗濯はあたしが使わない時に適当に……っ」  使って、と並べようとした次の台詞は、とすん、と背中に擦り付けられた畑野の頭の衝撃に飲み込まざるを得なかった。 「ありがとう、ございます……」 「少しの間だけだからね」 「はい……っ」 「……泣かなくていいって……」  躊躇いは数秒だった。  お腹に回された震えた腕を励ますように軽く叩いた後で、背中に手を回して頭もぽふぽふと撫でる。  ずび、と鼻を啜る音を聞きながら、しばらくそのまま抱き締められていた。  ***** 「初めまして、西川(にしかわ)航太(こうた)と言います。佳歩ちゃんから話はよく聞いてます」 「こちらこそ、初めまして。この度はご結婚おめでとうございます。松原歩叶です」 「やだっ、歩叶もコータも硬い!」 「あのね、大人の挨拶は必要でしょ!」 「えぇぇぇ~、いいよぉそんなの。親もいない場所でぇ」 「あんたねぇ。結婚して西川さんのご両親とか、会社の人に会うってなったらどうするつもり?」 「その時考えるよぉ。歩叶ってば相変わらずお母さんなんだからぁ」 「産んでないわよ!」  ぷぅ、と膨らませた佳歩の頬をきゅうっとつまみ上げる。 「いひゃいいひゃい~」  いひひひひ~、と楽しそうに笑った佳歩に、ふ、と自分の唇が緩む。 「んっとにもう……」  つねっていた指を外して、するすると頬を撫でてやった。  いつも通りのやり取りではあったものの、初対面の相手のいる場所でやることではなかったと焦ったのは、当の西川さんが困りきった顔でおずおずと口を開いてからだった。 「……あの……。……ホントに仲いいんですね」 「でしょぉ、幼なじみだもん」  ね~、と同意を求めて首を傾げる様の可愛さと言ったらない。思わずぐしゃぐしゃと佳歩の頭を撫でてしまって、またハッとする。  一人放ったらかす形になってしまった西川さんに慌てて頭を下げたのに、佳歩はのんきにニコニコ笑っていて、呆れながらも笑ってしまった。  歩叶はあたしの自慢の幼なじみなんだよ、と嬉しそうに笑っていた佳歩が、噂の幼なじみの隣に立った途端にふにゃっふにゃの柔らかい笑顔を浮かべたのには愕然とした。  いつも穏やかで少しおっとりしていてふわふわした印象は強かったけれど、真っ直ぐな芯が通った人で、この人となら一緒に暮らしていける、支え合って励まし合って──いつか産まれるかもしれない子供の、いいお母さんになるに違いないとそんな風に思っていた。  自分にしか見せない顔で笑ってくれていると、信じていたのに。  まさか、幼なじみに向ける笑顔の方が底抜けに明るくて幸せそうで、何もかもを預けきったような開けっ広げな顔をするだなんて。  女性相手に嫉妬するだなんてバカバカしいと思うのに、二人でカフェのメニューを覗き込んで楽しそうに会話しているのが憎い。自分はこんなに狭量な男だったのかと凹みながら、だけど全てをかけて守るつもりだった彼女が、まさか全てを預けてくれていなかっただなんて思ってもみなかったのだ。  渋い顔で水を啜ることしか出来ないでいたら、西川さん、と涼やかな声に名前を呼ばれた。 「はい!?」 「ぇ、あ……ごめんなさい、ビックリさせましたか?」  驚いて大きな声を出したオレに目を丸くしたその人が、すみません、と頭を下げるのに慌てて手を振る。 「あ、いえ……すみません。二人が凄く仲良くて、話に入る隙がなかったもんだから、ボーッとしちゃってました」 「……すみません……」 「あ、いや……」  言うつもりのなかったことまで動揺して零してしまったことに、内心盛大に舌打ちする。  ふふふ、と隣に座った佳歩が笑って、小さな子供みたいなイタズラめかした指先にちょんちょんと肘をつつかれた。 「歩叶はあたしの親友でお姉ちゃんでお母さんなの。特別なんだよ」  へへへ、と照れ臭そうに笑う顔ですら初めて見る表情だ。複雑な想いを無理やり飲み込んで、慈しみ深い顔で佳歩を見つめている歩叶をチラチラと観察する。  潔く短くした髪型が似合う、キリっとした眉。佳歩を見つめる目は切れ長だけれど優しい。化粧は薄くて服装もパンツスタイルだから、どこぞの歌劇団の男役みたいだ。  だけど細い手首は間違いなく女性のもので、なんだか不思議な感覚に陥る。きっと仕事も出来るんだろうな、なんて卑屈になってしまうのは何故だろう。 「いつも……ホントに、佳歩ちゃんからよく話は聞いてたんです。かっこよくて自慢なんだって。……ホントでした」 「やだ、なんの話してんの?」 「色んなことだよ」  にひひ、と笑った佳歩が何かを誤魔化すみたいに大きく手をあげて店員を呼ぶ。 「あの……佳歩のこと、よろしくお願いします。……この通り無邪気っていうか何て言うか……ハラハラすることばっかりなんですけど。……保護者役は、もう必要ないでしょうから」  にこりと綺麗に笑ったその人の、目が少し潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。  じっと見つめ返した先で、その人はにっこりと笑みを深くする。 (なんだよ、余裕綽々じゃん……)  こっちはむしろ最強の幼なじみに会って自信をなくしているというのに。いつもと変わりないらしい凛とした声に屈辱さえ噛み締めながら、勿論です、とせいぜい澄ました声を出してやった。 「佳歩ちゃんは、オレが幸せにしますから」 「なぁに言ってんのよぅ!」 「ぃてっ」 「二人で幸せになるんだからね」 「……佳歩」  佳歩の言葉にオレとその人が目を丸くする。  感動というのか、なんなのか。言葉を続けられないオレより先に立ち直ったその人が、また優しくて優しくて優しい顔で笑った。 「ホントそうだね。……ちゃんと幸せになってね」 「おわっ、先輩なんですかそのカッコ!! むちゃくちゃキレイ……」 「ぇ? はた…………彩月。早かったね、おかえり」 「ただいまです~!! すごい! おかえりってこんなに嬉しいんですね」 「……ちょっと待って……おかえりすら言ってもらえない環境だった訳?」 「言ってもらってましたけど、なんかニュアンスが全然違います! こういう『おかえり』なら早く帰りたいなって思えますね!」  あっけらかんと笑った畑野に、さすがに笑い返せなかった。  畑野と暮らし始めてしばらく経つけれど、大体同じ時間に帰宅していたせいでそんなことすら初めて知った。 「ゃ、……やだなぁ。そんな可哀想な感じの顔しないで下さいよぅ! そんなことより、どうしたんです? すんごく素敵なドレス姿ですね?」  困った顔であははと笑った畑野が思いきりよく話題を変えるのに、申し訳ないながら有り難く乗っかる。 「ん。……今度ね、友達が結婚するから。前に買ってた服、ちゃんと着れるか確認しとこうと思って」 「ふぇぇ、そっかぁ、おめでとうございますですね。ドレスもすごく似合ってます……後ろ、やりましょうか?」 「ぇ? あぁ……ホント? 助かる」  ありがたい提案に、鏡を見ながら四苦八苦していた紐をアッサリ手放す。正直腕がつりそうで途方にくれていたのだ。  買ってあったドレスは背中に編み上げのあるタイプで、前回着た時は当時の彼氏に手伝ってもらったのだった。畑野が神妙な顔つきで後ろに回って、優しく紐を調整してくれる。 「凄く素敵ですね。体のラインも綺麗に出てるし……脱がせたくなっちゃいます」  畑野の囁く声に、顔が熱くなる。体を重ねたことがあるせいで、服を脱がされた先にある行為が具体的に頭に浮かんでしまったのだ。 「……ばか。やめてよ。クリーニングしてあるやつなんだから」 「……じゃあ式当日ならいいですか? ……花嫁のために綺麗になった先輩を、めちゃくちゃにしたいです」 「何言ってんの。そんな仲じゃないでしょ」 「そういう仲になりたいんです」  相も変わらずの真剣な声音に、思わずキュンとしたのは事実だ。それでも、流されて付き合うことほど虚しいこともない上に、今はひとつ屋根の下で暮らしているのだから、気まずい要素は避けるに限る。  聞こえなかったフリで通そうと思っていたのに、畑野は鏡越しに私を優しく見つめてきた。 「だって、式ってきっと、先輩の心のど真ん中にいる人が主役なんでしょう?」 「な……んで、それ……」 「分かりますって。表情と声でモロバレです」 「嘘でしょ……」 「嘘じゃないです。……そんな人のために着飾った先輩をむちゃくちゃに出来たら、きっとはちゃめちゃに気持ちいいです」  はい出来ました、と冗談に紛らせる声に促されて姿見に自分を映す。  ラインは崩れていないし、キツくもなければ(ほつ)れたりもしていない。当日もたぶん問題ないだろう。 「……先輩、やっぱり目が凄くしょんぼりしてます」 「……うるさい」  横からひょこんと鏡を覗き込んで来た畑野は、心配そうな目で鏡越しに私を見つめてきた。 「大丈夫ですか?」 「……大丈夫に決まってるじゃない。……それに……幸せになってもらわないと、……困る」  奪い返したくなるから、とはさすがに口に出さなかったのに、そのことにさえ気づいているらしい畑野が、ぎこちない手付きで髪を撫でてくれる。 「あたしがいますよ、先輩」 「……弱ってるとこにつけ込むとかどうなのよ」 「ありゃ、落ちませんね」 「当たり前でしょ」  ふっと笑って、溜め息をひとつ。 「オッケ、ありがと。これ以上着て(ほつ)れたり汚したりしても困るから、もう脱ぐわ」 「はぁい。じゃあ手伝いますね」  しゅるしゅると紐を解いていく畑野の手付きをぼんやりと眺めていたら、ふふふ、と畑野が笑う。 「ぇ? なに……?」 「いえ……ずっと見てるから。そんなに信用ないのかと思って」 「えぇ? 違っ、」 「いますよね、知ってます。……ねぇ先輩。今日一緒にお風呂入っていいですか? 何もしませんから」 「…………あんたも物好きだよね」 「んふ。だって先輩、何だかんだでいっぱい甘やかしてくれるんですもん。嬉しくって」  えへへ、と笑った畑野が、はいもう大丈夫です、と声をかけてくれる。ありがとう、とモゴモゴ返事をしたら、ドレスをそっと脱いだ。 「あぁ……。……やっぱり、何もしないのは無理かもしれません……」 「ばか。……変なことするなら一緒に入らないから」 「……はぁい」  ちぇーっと小さな子供のように口を尖らせる畑野を見つめてそっと笑う。  畑野は、一緒に暮らし始めてすぐの頃から、こんな風に小さな子供のような甘え方をすることがしょっちゅうある。まるで親と築き損ねた何かを取り戻そうとするみたいな甘え方に、呆れるより先に甘えさせてあげなければと思ってしまうのが不思議だ。  体を重ねたのはあの一度きりだけれど、無邪気に抱き付いてきたり、頬にキスしてきたりの軽いスキンシップは頻繁にある。でもそれは恋人同士のそれというよりも、小さな子供が母親に親愛を込めてするのと同じくらいの軽やかさで、だからこそ甘やかしてしまうのかもしれない。 「そうだ先輩、あたし入浴剤買ってきたんです! 今日使いましょう!」 「あ~、それ掃除大変なやつじゃん。昔使ったことあるけど、浴槽ベトベトになるんだよねぇ……」 「あたし掃除しますって!」 「……絶対だよ?」 「勿論です! じゃ、お湯溜めてきますね~」  ルンルンと弾む足取りが浴室へ消えるのを見送ってやれやれと笑う。ドレスをハンガーに掛けてクローゼットにしまったら、今日手渡された結婚式の招待状を鞄からそっと取り出してみる。 『歩叶には直接渡したくて』 『佳歩……』 『絶対来てね。約束だよ』 『……分かってるってば』  おねだりする上目遣いに笑い返しながら、震えそうになる手で招待状を受け取った。  中学だったか高校だったか。当時の彼氏をフッた佳歩が散々愚痴った後で、歩叶が男だったら結婚したのに、と呟いた一言を、未だに覚えている自分の未練がましさを嗤うしかない。  それを真に受けるほどバカでも単純でもなかったけれど、たぶんあの日が人生で一番幸せで一番不幸だった。  淋しさに歪む唇を誰からともなく隠すように俯きながら、招待状を封筒に戻そうとして初めて、絶対来てね! と馴染みのある佳歩の字が招待状の隅っこに添えられていることに気付いて、鼻の奥がツンとした。 「せんぱ~い、お風呂の準備出来ましたよ~」 「……今行く」 「? 先輩?」  ひょっこりと部屋を覗きに来た畑野がこっちを見て目を丸くする。 「ちょっ……どうしたんです、か……」  手元にあるのが招待状だと気付いたのだろうか。  しおしおと勢いをなくした畑野の声に、ごめん、と無理やり笑ってみる。 「ちょっと……色々思い出してただけ。……こんなんであたし、当日どうするんだろうね」  あはは、と笑い飛ばしながら、招待状を引き出しに大切にしまいこむ。 「……先輩」  後ろから優しく抱き締めに来た畑野が、優しく耳元で囁く。 「あたしがいますって」 「……だから、弱ってるとこにつけこむなってば」 「いいじゃないですか、ちょっとくらい」  ちゅ、と音を立てて畑野の唇が耳に触れた。 「ちょっ」 「大丈夫ですって、何もしません」 「……」 「先輩、あたし、見ませんから。……泣いていいですよ」 「え……?」 「覗き込んだりしませんから。……こうやって抱き締めてたら、泣き顔は見えませんから。……だから、泣いていいですよ」 「……さつき……」 「だから、一人で泣かないでください」 「……キザ」  ふふ、と笑ったつもりだったのに、パタパタと雫が零れた。  なんでこんなに泣けるのかも分からないのに、ただひたすら静かに涙が溢れてくる。  前で交差する畑野の腕にすがりながら、気の済むまで泣かせてくれる畑野に心から感謝していた。
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