season.3 親愛なる君へ

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season.3 親愛なる君へ

『いつも、つまらなさそうな顔してるね』 『…………』  放課後、母の待つ家に帰りたくなくて、人の気配がある間はグズグズと教室に居残ることが多かった中学時代に、その人──武藤(むとう)(はるか)と出会ったことは、あたしのその後の人生を決定付けたと思う。  いつも可愛い女子に囲まれてその中心で笑いながら、だけど人を見下すことは絶対にしない、なんとも完璧というしかない性格の持ち主だった。  母にかけられた呪いを反芻して無価値な自分を呪っていたあたしは最初、中途半端な憐れみなどいらないと、悠を無視していた。  めげずに声をかけてくれた悠に根負けするまで、2週間くらいだっただろうか。  放課後の教室でポツポツと言葉を交わすようになってから、キスするまでは早かったと思う。  抱き締めあうことの気持ちよさも、キスの心地よさも──スキンシップの優しさを教えてくれたのは悠だった。  他のみんなに隠れてするキスの気持ちよさは当時のあたし達には刺激が強すぎて、付き合い始めた頃は休み時間の度にトイレや階段の影に隠れてキスしていた。  爛れた生活だったかもしれない。それでも、あの時間があったからこそ、愛情に飢えていたあたしがなんとか生き延びられたのだと今も信じている。  中学卒業と同時に悠は県外へ引っ越してしまったけれど、お陰で高校では明るい自分を取り繕うことに成功したし、何人かの彼女も出来た。優しさに溢れたスキンシップは何よりもあたしを癒してくれたし、彼女の家でするおままごとみたいなセックスも、気持ちが満たされる貴重な時間だった。  大学時代に初めて年上の彼女が出来た時に、セックスの本当の気持ちよさを知ったと思う。その人とは結局3年近く付き合って、あたしが依存しすぎたせいでダメになってしまったけれど、あたしをなんとか受け入れようとしてくれたことには感謝しかなかった。  そして、今── 「ねぇ、ちょっと動いてもいい?」 「だめでーす」 「ちょっとぉ……もう30分は経ってるんだけど……」 「だめでーす」  ただの後輩でしかないあたしを、何だかんだと文句を言いながらも受け入れてくれる先輩が、傍にいてくれる。心があたしに向いていようが向いてなかろうが、関係ない。先輩はあたしを絶対邪険に扱ったりしないし、どれだけ甘えても最後まで甘やかしてくれる。  一度しかセックスはしていないけれど、むしろ体の関係を重視せずに一緒にいてくれることが、あたしの呪いを解いてくれるような気がしている。  学生時代の恋は、結局肉欲に紐付いていた。あたしのこの感じやすい体を気に入ってくれているだけだと、いつも思っていた。  今でも時々無性に淋しくなって先輩に抱き締めてもらったりはするけれど、絶対に最後まではいかない。ただ優しく抱き締められて、おでこや頬っぺたに親愛のこもったキスをされるだけで満たされるのだ。こんなことは初めてだった。  今も先輩を後ろから抱き締める形で二人でソファーに座っているだけなのに、ずっとこのままでいたいくらいに幸せだった。 「……ねぇ先輩」 「なに?」 「なんで先輩って、そんなに優しいんですか?」 「……別にそんなに優しくないと思うけど……」 「だって、今だって結局動かないでいてくれるじゃないですか?」  キョトンとした先輩を後ろから伺えば、うーん、と本気で悩んでいるらしい表情を浮かべていた。 「……放っとけないから、かな……」 「放っとけない……?」 「……友達にもよく言われるんだよね。お母さんみたいだって」 「……友達って、今度結婚する人ですか?」 「…………ホントよく気付くよね」 「分かりますよ。先輩のこと、ずっと見てますから」  悔しいのか悲しいのか。横顔からではハッキリと分からないのに、こっちまで切なくなる。  相手は幼なじみだと聞いた。3歳からの付き合いだというから、恐らく25年くらいの付き合いになるのだろう。そんなに長い付き合いになる友人はあたしにはいないから、気持ちを想像することさえ出来ない。  しかも先輩は、その人とは一度もセックスしてないどころか、キスもしてないんだと聞いた。ありえない世界だと思った。  手を繋いだことと、ハグをしたことはあるらしいけれど、よくそれで我慢出来たなと尊敬してしまう。  抱き締め合ったらキスしたくなるし、キスしたらセックスしたくなる。あたしは結局、体の繋がりこそが全てだった。 「ねぇちょっと。……苦しいんだけど。絞めすぎ」 「ぁ……ごめんなさい。力入っちゃいましたね」 「で? いつまで動いちゃダメなの? トイレ行っていい?」 「ちぇーっ……戻ってきたら、また抱き締めさせてくれます?」 「……許可なんか取らないじゃない、いつも」  腕を(ほど)きながらのセリフに呆れた顔して笑った先輩が、そっと髪を撫でてくれる。 「心配しなくてもすぐに戻るよ」 「……はい」  甘やかされているなぁとつくづく感じるのは、こんな時だ。素直に甘える声で頷いたら、パフパフと柔らかく頭を叩いてからトイレに向かった先輩を、じっと見つめていた。  ***** 「旅行?」 「そう、1泊2日とかで。温泉とか」 「式の準備は大丈夫なの?」 「大丈夫大丈夫。独身のうちにさ~、行っときたいな~って。どう?」 「そりゃ……行きたいけど……」 「けど?」  一人で家にいられないと転がり込んできた畑野を思い浮かべて唸る。実家からは散々帰ってこいと連絡が着ていたようだが、着信拒否で一切無視を決め込んでいるらしい。  それでいいのかと思いつつも、私がこういうちょっとした用事で家を空ける時ですら、自分も外へ出ているらしい畑野のことを考えると即答は出来なかった。 「ちょっとね……今後輩と一緒に住んでて」 「えぇっ!? 彼氏!? あれ、ちょっと待って後輩? ……えっ、浮気!?」 「違う! 人聞きの悪いこと大声で言わないでよ! 女の子だよ」 「なぁんだ、びっくりしたぁ。……でも、じゃあ別に遠慮しなくてもいいんじゃないの?」 「う~ん……ちょっと色々あってね」 「そっかぁ……。……じゃあさ、その後輩の子と相談してみてよ。出来れば歩叶と一緒に旅行行きたいし」 「……ん。分かった聞いとく」  佳歩の何気ない一言に浮わついたり凹んだりするのも、きっとこれで最後なんだろう。結婚が決まるまでは未練がましい自分が何度も何度も勝手に浮かれては傷付いていたけれど、結婚してしまえばもう私に望みなんてこれっぽっちも残らない。  この間とは違って、今日はちゃんとケーキも味わって食べられている。  これでいいんだ。  言い聞かせるように頬張ったケーキは酷く甘くて、今すぐ吐き出したいような気持ちに困惑するしかなかった。  ***** 『いい? 絶対に30分で戻るから』 『……せんぱい……』 『絶対よ。あたしが約束破ったことある?』 『ない、です……』 『大丈夫。絶対帰ってくるから』  にっこりと笑った先輩があたしを残して家を出たのが10分前だ。  先輩が戻るまで、後20分。  どうしても無理ならすぐに電話して、と言われてスマホを握り締めながら息苦しさと闘っている。  結婚するという幼なじみの人に、独身最後の旅行に誘われたらしい。絶対に行きたかっただろうに、あたしがいるせいで返事を保留にして帰って来てくれた先輩に、あたしも絶対に報いたい。  今にも発狂して泣き出しそうな恐怖を押さえつけていられるのは、先輩が絶対30分で帰ると約束してくれたお陰だ。  少しずつ時間を延ばしていこうと二人で決めて、練習が上手く行くようになってから返事をしてくれるという。 (ホントに優しいんだから……)  ふ、と悲痛に歪む唇を無理やり笑わせながら、時計と睨めっこする。  先輩のことを思い浮かべていただけでもう5分も経っていて、それなら、と思いついてスマホの画面を操作する。  二人で暮らす前に撮った写真や、暮らし始めてから増えた写真を1枚ずつ見返しながら、その時にあったことを思い出していく。  どれほど恐くて辛くても、先輩が必ず帰ってきてくれることを思えば、乗り切れるはずだ。  ひぐっ、と喉と鼻が鳴ったことはこの際なかったことにして、スマホの画面が涙で滲んでいることにも目を瞑る。スマホがカタカタ震えているのも、きっと部屋が少し寒いせいだ。  息が浅くなっているのはたぶん泣いているからで、別に過呼吸なんかじゃない。 「せんぱ……っ、せんぱいぃぃ……ッ」  かえってきてぇ、と涙声が零れたって別にいい。電話は繋がっていないのだから、先輩には聞こえない。  子供みたいにひぃひぃ泣きながら、スマホに映る先輩の笑顔をひたすら見つめる。  と、ガチャリと鍵が開く音がした。びくんと肩が跳ねてドアの方を見る。──鬼の顔して嗤う母親が入ってくる幻覚が見えて、叫ぶより先に目の前が真っ暗になった。 「──っ、彩月!」  パタリと倒れたあたしを抱き起こす優しい腕を感じながら聞いた焦った声を最後に、記憶がない。 『せんぱいぃぃ……ッ、かえってきてぇ』  微かに届いた声に、後10分を残して躊躇なく鍵を開けた。何かあった時のためにと玄関扉の前でじっと待っていたのだ。  何かあったら連絡しろとは言ったけれど、そもそも連絡する余裕すらないかもしれないと考えてのことだったけれど、当たって欲しくはなかった予想が的中してしまったようだ。  慌てて駆け込んだ部屋の中で、顔面蒼白になった畑野が声も出さずにパタリと後ろへ倒れた。 「──っ、彩月!」  叫んで駆け寄ったものの、完全に気を失っているらしい畑野は、声に瞼を震わせただけだった。  一人暮らしは出来ないと哀しい顔をしていたことを思い出す。  これが上手くいけば畑野自身の選択肢も広がるのでは、なんて軽々しい期待を抱いていた自分をぶん殴ってやりたい。  救急車を呼ぶか呼ばないかを迷っている内に、畑野がうっすらと目を開けた。 「彩月!? 大丈夫!?」 「……ごめ、なさ」 「彩月? 別に謝らなくて、」 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい──」  カタカタと体を震わせながら、焦点が合わないままの目がうろちょろと私の周りをさ迷う。繰り返される抑揚のないごめんなさいに、返す言葉も次の行動さえも見失ってしまったけれど 「ごめんなさいもうしません、おかあさんゆるして」  弱々しい声がおかあさんと呟いたのにハッとした。 「──畑野」  彩月と呼び掛けたことが何かの引き金を引いたのかもしれないと、以前の呼び方で耳元に囁いてみる。  ピクリと肩が跳ねた。 「畑野、落ち着いて。あたしのこと、分かる?」 「おかあ、さん……?」 「畑野」  大丈夫だから、と囁いて震えたままの体を抱き締める。暴れるかもしれないと一瞬だけ怯えた自分を叱咤して、背に回した手のひらで背中を優しく撫でてみる。 「……おかあさん……?」 「……大丈夫。……大丈夫だよ」 「……おかあさん…………きょう、……やさしい……」  呆然と呟いた後にふわりと幼い顔で笑った畑野を、きつく抱き締めた。 「畑野……っ」  ただ抱き締めただけ。ただ背中を撫でただけだ。それだけのことで優しいと言う畑野は、いったいどんな生活をしてきたのだろう。無条件で愛してくれるはずの人が抱き締めてもくれなかったのだとしたら、その痛みの強さも傷の深さも私には計り知れない。  思わず泣き出しそうになるのを堪えながら、何度も何度も背中や頭を撫でる。そうする内にうとうとと穏やかな顔で微睡みだした畑野が、私の肩に恐る恐るの様子で顔を載せた。  きっと、母親にこんな風に甘えたことはないのだろう。 「……よく頑張ったね。……おやすみ」  声が湿らないように気を付けながら、なるべく柔らかい声でそう囁いたら、畑野の体からようやく力が抜けた。 「…………ゆっくり休んで」  ハッと目が覚めたら、先輩が優しくあたしの頭を撫でてくれていた。 「せんぱい……?」 「……あぁ。良かったぁ……」 「え? あれ? あたし、いつの間に寝て……?」 「──ごめん」 「えぇっ!? なんで先輩が謝るんですか!?」  深々と頭を下げた先輩にわたわたと手を振って、頭を上げてくださいと頼み込む。 「いきなり30分は長すぎたね。ごめん」 「そんな! てか、あたし全然記憶ないんです……15分くらいは頑張れた気がするんですけど……」 「いいよ、もう止めよう。あんな風になる彩月のこと、もう見たくない」 「でも! 先輩には、……旅行、行って欲しいです……」 「彩月……」  ふにゅ、と先輩の眉が下がる。こんなしょんぼりした顔は初めて見た。どんな表情でも可愛い、なんて状況も忘れてほんの少し浮かれてしまう。 「あたし、その日は漫喫とか……あ、ほら、カプセルホテルとか! そういうとこで泊まりますよ。人の気配さえあればホントに大丈夫なんです」 「……でも……」 「ホントですって! 飲み会で終電逃しちゃった時に漫喫で一晩過ごせましたから! 絶対大丈夫です」  どん、と胸を張ってみせたのに、先輩はまだ心配そうな表情のままだ。記憶のない時間に、あたしはいったいどんな風に先輩を困らせたんだろう。 「ちゃんと、旅行行ってきて下さい。……じゃないと、あたしは本気で先輩を口説けません」 「……あれ本気じゃなかったの?」 「ちゃんと本気ですけど! もっと猛アプローチしてます、ホントなら!」 「……でも別に旅行行ったからって、告白する訳でもないんだし……」 「それでもです! やり残しがないように、楽しんできて下さい。……その人と行く最後の旅行だって、思ってるんですよね?」 「…………相変わらず鋭いんだから……」  ふぃっと気まずそうに顔をそらした先輩が大きく溜め息を吐いた。 「分かった。じゃあお言葉に甘えて旅行には行ってくる。けど」 「……けど?」 「練習は続けよう。今度はもっとゆっくり慎重に。10分くらいから始めよう」 「……なんでですか?」 「彩月自身が、出来ることが増えるじゃない」  先輩の提案の意図を読みきれずに首を傾げる。先輩は、だからね、と考え考え口を開いた。 「例えば、あたしが出掛ける度に外に出なくて済むだろうし……それに、いつか彩月に大事な人が出来たとして、一緒に暮らすようになってさ。一人で留守番が出来たら……おかえりって、その人のことを出迎えてあげることだって出来るじゃない?」 「でむかえる……」  それは、完全に初めての視点だった。  先輩がかけてくれた『おかえり』の言葉の温かさが蘇って胸が熱くなる。 「──したいです! あたしも先輩に、おかえりって言いたい!」  あたしになの、と困ったような照れ笑いを浮かべた先輩が、まぁいいか、と笑う。 「とりあえず、今日はもう練習はおしまいにして、彩月のしたいことしよう」 「……あたしのしたいこと?」 「そ。頑張った子にはご褒美って言うじゃない」 「……あたし、……頑張れなかったですよ?」 「20分も一人で家に居られたじゃない」 「……」 「ご褒美、何にする?」 「…………抱っこがいいです。あと、一緒にお風呂入りたいです」  いつもと同じじゃない、と優しく笑った先輩は、だけどそれ以上何も言わずに優しく抱き締めてくれた。 「よく頑張りました」 「……せんぱぁい」  *****  9時にいつもの場所ね。──幼なじみとの待ち合わせの約束は、いつもいたってシンプルで、旅行に向かう日の待ち合わせもいつも通りだった。 「気を付けて、楽しんできて下さいね」 「ありがとう。彩月も、夜ホントに気を付けて」 「大丈夫ですよぅ。カプセルホテルなら泊まれるって、ちゃんと確かめてありますから」 「うん……でも、何かあったらすぐ連絡して」 「大丈夫ですってば。先輩はとにかく楽しんできて下さい!」  1泊分の小さな旅行バッグを肩に掛けて家を出た時、彩月はちゃんと玄関の内側から見送ってくれた。練習の甲斐あって、一時間程度なら留守番が出来るようになったのだ。私を見送った後に着替えてから、家を出るらしい。今日は女性専用のカプセルホテルに宿を取ったと言っていた。明日は私が帰るタイミングで連絡をする約束だ。  ワクワクとドキドキと、ちょっぴりの切なさや淋しさが胸を占める中で、彩月の変化は本当に嬉しくて私自身も励まされている。  落ち着け落ち着けと言い聞かせながら待ち合わせ場所に着いたら、佳歩が満面の笑みで手を振ってくれた。 「歩叶~!」  わひょ~、と楽しそうにその場でぴょんぴょん跳ねられて、慌てて駆け寄る。 「ちょっ、恥ずかしいでしょ!」 「だって楽しみだったんだもん」 「……っとにもう……」  えへへと笑った佳歩の頭をわしわし撫でて、さて、とスマホを取り出す。 「まずは電車だね。17分発だっけ?」 「そうだと思う。あ、ねぇ飲み物だけ買っといていい?」 「いいよ、あたしも買っとく」  じゃあ行こう、と佳歩に腕を絡め取られて心臓が跳ねるのも、この旅行が最後だと思うと淋しくて胸がギュッと痛くなる。ナチュラルなスキンシップに心掻き乱されて混乱していた時期が懐かしい。  楽しんできて下さい、と笑顔で見送ってくれた彩月の心遣いを思い出してどうにか涙を閉じ込めたら、佳歩に引きずられるままコンビニに入った。 「……もう着いたかな~」  ぢゅる~、とだらしなく吸い上げたタピオカをモチモチと噛み締めながら、スマホの時計を見つめる。  行き先は京都だと言っていた。高校卒業の時に初めて2人きりで旅行に出かけた先も京都だったらしく、今回は大人の経済力を噛み締める旅になりそうだと切ない顔で笑っていた先輩は、今ごろ楽しく笑っているだろうか。  先輩のお陰で、1人でも1時間くらいは普通に家で過ごせるようになった。先輩の家に無理やり転がり込んで、たくさんの優しさと愛情をもらったからこそだと思っている。先輩には本当に、感謝してもしきれない。  本当なら、あたしがちゃんと家で一晩留守番出来るのが一番の恩返しになったのだろうけど、先輩は焦らなくていいと笑ってくれたし、留守番出来る時間が長くなる度に大袈裟に誉めてくれた。時間が伸び悩んでいた時でさえ、癇癪を起こして泣くあたしを慰めて励まして散々甘やかしてくれた。  だからこそ、今回の旅行は心から楽しんできて欲しい。  お土産買ってくるね、と笑ってくれた先輩に、そんなの気にしないで下さいと笑い返したあの時、あたしはちゃんと笑えていただろうか。 「……先輩……」  やっぱり淋しいです、と小さな声で呟いたら、すすり上げたタピオカをまたモチモチと噛み締めた。  *****  なんでも楽しかった。箸が転がっても面白いだなんて、高校生じゃあるまいし。もういい歳になったのに、こんなにもバカバカしくて下らないことで散々笑って笑い疲れるなんてそうそうない。  たぶん二人ともが何かを惜しんでいて、二人ともが淋しくて、二人ともが切ないからこそおかしなテンションなのだろう。 「すーごい! 豪華な部屋!」 「ホントだね、こんな部屋泊まるの初めて!」  少し値の張る旅館を選んだのは、独身最後に贅沢したい、という佳歩の希望に添ったからだけれど、まさか本当にこんなに贅沢な部屋だとは想像していなかった。ネット予約では分からないことの方が多い。  さすがに露天風呂つきとはいかなかったけれど、ちゃんと温泉が引かれた内風呂がある。 「どうする? まずは大浴場にする?」 「そうだね、内風呂は後にとっておこうよ」  荷物を解きながらの相談の後で、浴衣を持って大浴場に向かう。  大学時代に共通の友人を含めた4人で旅行に行って以来だから、裸で向き合うのは今日が久しぶりだ。  あの頃から体型が変わったりはしていないはずだけれど、ほんの少し照れ臭いような落ち着かない気分だ。  他愛ない会話が途切れることなく続いて脱衣場までが思っていたよりすぐだった分、服を脱ぎ落とすのになかなかの勇気がいった。  佳歩の方はなんの躊躇いもなく服を脱いでいて、相変わらずのスレンダーな体を惜しみなく晒している。 「相っ変わらず細いね……」 「何言ってんの。歩叶だって別に太ってないでしょ」 「あたしは標準だって。佳歩は痩せすぎじゃん」 「だって太んないだもん」 「あんた今、世界中を敵に回したよ? ……あんなに食べるのによく太らないよねホント」 「代謝がいいんだよ、たぶん」  にしし、と笑ってタオルで体を隠すことすらせずにスタスタと浴場へ歩いていく。こっちはまだ、カットソーを脱いだばかりなのに。慌てて残りを脱ぎ捨てたら、タオルで体を隠して大浴場に踏み込んだ。  汗を流してサッパリした後、晩御飯が入らなくなるねと笑いながら抹茶のアイスクリームと豆乳のアイスクリームを半分こして、火照った体を冷ました。  お土産屋さんを冷やかしたり、マッサージで痛みに転げ回ったり。いっそ不自然なくらいにはしゃぎながら、終わりが来ないことだけを必死で願っていた。  終わったら他の誰かのものになるなんて、信じたくなかった。  ──バカみたいだと思う。  もうお互いいい歳だ。誰かが佳歩を抱いていて当然だし、私も誰かに抱かれている。佳歩とはしたことのなかった同性同士のキスも、セックスも──彩月としてしまった。  宿の心尽くしの晩御飯は、胸が詰まりすぎて味が分からないどころかほとんど食べられなかった。佳歩がしきりに心配してくれるのには、アイスと試食が効いたんだと誤魔化すしかなかった。  食事の後でしばらくゆっくりしたら内風呂に入ろうと誘われて、曖昧に頷いたものの積極的に入りたいとは思えなかった。大浴場では他にもたくさん人がいたから何も気にしなかったけれど、二人きりで狭いお風呂に浸かったりしたら、何もかもをぶち壊しにしてしまわないだろうかという不安が拭いきれない。  幸か不幸か女性同士でのセックスのやり方も、気持ち良さも知ってしまった今、自分を押し止めているのは佳歩の信頼を失いたくないというその一点だけだ。  気乗りしないまま視線をウロウロさせていたら、さっきお土産に買ってきたお酒のことを思い出す。 「……あ、ねぇ……せっかくだしさ、ちょっと飲まない?」 「え? いいけど……それ、お土産じゃなかったの?」 「明日もう1回買うよ。せっかくだし、乾杯しよ」  ね、と笑ってグラスを取ってきたら、まぁいっか、と笑った佳歩が素直にグラスを受けとる。そもそも私より佳歩の方が飲むのが好きなのだ。とはいえ二人とも酒に強いわけではないところが難点で、飲み放題は一応元がとれる私と、ギリギリ元がとれない佳歩というラインである。  今日買ったのはあまり度数のキツくないフルーティーな味わいの柚子酒だから、二日酔いの心配もないだろう。旅館備え付けのオシャレでもなんでもないグラスに柚子酒を分けて、カチャンとぶつける。  一口(ひとくち)一口(ひとくち)をゆっくり味わって飲みながら、話題は小さな頃の思い出話になった。  保育園、小学校、中学校、高校。大学は離れてしまったけれど、25年分振り返るには一晩なんかじゃ足りない。  お酒の手伝いもあって佳歩がウトウトしてくる頃には、日付が変わろうとしていた。  内風呂は明日かなぁ、という呟きを残してふにゃんと布団に倒れ込んだ佳歩が寝息を立て始めるまで、時間はほとんどかからなかった。 「風邪引いちゃうよ、布団ちゃんと着なきゃ……」 「んんぅ~」  ちょっと、とつついても起きない。  やれやれと笑って、細くて軽い佳歩をころりと転がして掛け布団をめくったら、逆側にもう一度転がして布団の中に収めた。 「…………ほのか」 「……ん?」 「だいすき」 「ん……ありがと」  あたしもだよと、返す声が震えた。  すよすよと眠る佳歩が、またむにゃむにゃと何かを呟いたけれど聞き取れなかった。  震える手で佳歩の髪を撫でる。気持ち良さそうに眠ったままの目を細めた佳歩が、愛しくて仕方ない。  震える指先で、佳歩の頬をつつく。  リアクションはない。  もう一度つついても、リアクションはなかった。  ドキドキと高鳴る鼓動に罪悪感を煽られながらも、もう止められなかった。 「……佳歩」  囁いて、額に落とした唇。  このまま、永遠に時が止まってしまえばいいのに。  下瞼を越えた涙が、私を正気に戻した。  ──これが私の限界だ。  意気地なさを笑えばいいのか、よく踏みとどまったと讃えればいいのかすら分からないまま、タオルで涙を押さえつける。  佳歩が起きる気配がないことにホッとしながら、涙が収まるまでじっとしていた。  ***** 「ただいま……」 「おかえりなさい!!」 「…………さつき……」 「えへへぇ、ビックリしました!? お出迎えです!」  かちゃり、と開いた鍵の音を聞き付けてパタパタと玄関へ走った。初めて見た先輩のビックリ顔は、目が真ん丸になっていて凄く可愛い。 「荷物持ちます! お風呂どうしますか? 先に晩御は……」 「さつき……」 「せんぱい……?」  それともあたし? なんて冗談を続けようとしたのに、先輩に抱き付かれて固まるしかない。 「どうしたんですか……?」  なんかあったんですか? とワタワタしながら聞いたら、すん、と鼻を啜る音が聞こえて私の喉がヒュッと鳴った。 「ない?! てますか!? えっ、ちょっ……どうし、」 「──ありがとう」 「ぇ? え? 何がですか!? え? あたし何かしましたっけ?!」 「今、ここにいてくれて」 「……せんぱい……」 「旅行も、凄く楽しかった。……幸せな思い出になった。……行けて良かった」 「先輩……」 「ありがとう」  ぱたぱたと溢れる滴が、あたしの部屋着に染み込んでいく。 「…………ありがとうは、あたしの台詞なのに。……先輩はいつも、あたしを甘やかし過ぎです……」  自分まで切ない気持ちになって貰い泣きしそうになりながらも、グッと堪えて無理やり笑って見せる。 「さぁ先輩、どうしますか。ご飯にしますか? お風呂ですか? それともあた、」 「彩月にする」 「せん、ぱい……」 「──ぁ? ちがっ、そういう意味じゃなくて!? あのっ……だきっ……しめて欲しいなぁ……とか? ……あのっ……いやっ」  ごめん! と叫んで飛び退こうとした先輩を、抱き留める。 「……やだなぁ、先輩。抱き締めるくらい、いつでもします」 「…………ありがと」  むぎゅ、と押し付けるように胸に顔を埋めた先輩がもごもごと呟いた後で、遠慮がちな腕が背中に回された。 「……ごめん……」 「大丈夫です。あたしのこと、利用してくれて全然大丈夫ですから。……もっと、あたしにも甘えてください」 「彩月……」 「あたし、ここに来て、先輩にうんと甘やかしてもらいました。今日は、あたしが先輩を甘やかすって決めてたんです」  だから甘えてください、と囁いて髪に唇を落とす。  嗅ぎ慣れないシャンプーの匂いに、一瞬ユラリと立ち上った炎に蓋をするようにもう一度唇を落とした。 「…………じゃあ……お言葉に甘える」 「はい」  胸に埋めた顔をぐりぐりと押し付けてきた先輩が、あたしを抱く腕にぎゅうぎゅう力を込める。 「先輩……お土産話、ゆっくりリビングで聞かせてください。ハグ付きで」 「……ん。ただいま、彩月。出迎え、凄く嬉しかった。ありがとう」 「おかえりなさい、先輩。あたしも、お出迎え出来て凄く嬉しいです」  場所をリビングに移してしばらくは後ろから先輩をハグしていたのだけれど、お土産たくさん買ってきたの、と泣き腫らした顔で笑った先輩の一言で腕を(ほど)いた。  スンスンと鼻を啜りながらあれこれとお土産を広げる先輩の姿は、小さな子供が意地を張って痛みを堪える様に似ていてやけに切なかった。  お土産の柚子酒を開けて小さなグラスで乾杯して、お土産のお菓子を摘まみながら、話は先輩と幼なじみさんの小さな頃から今日までを振り返る流れになった。  絆の深さと付き合いの長さが見事に比例した二人の話は、微笑ましくて羨ましくて気が狂いそうだったけれど、話をする先輩の顔が時間を追うごとに奇妙にスッキリと柔らかくなっていくのが不思議だった。  聞くことしか出来なかったあたしを相手に、どのくらい話していたのだろう。チビチビ飲み続けていた柚子酒はいつの間にか空で、先輩の顔も俯きがちになってきた。旅行帰りなのだし、そろそろ疲れが出てきたのだろう。 「先輩、そろそろ寝ますか?」  そっと肩に手のひらで触れたら、先輩がゆっくりと顔を上げた。 「……せん、ぱい……?」  あたしを真っ直ぐに見つめる目は、お酒のせいなのか真っ赤に潤んでいる上に、お酒にさほど弱くはないはずの先輩の頬も赤く染まっている。 「……どうしました……?」  酔っちゃいましたか? とからかう声を投げたはずなのに、語尾が欲情に震えてしまった。 「さつき……」 「先輩……?」 「ぁの……あのさ……、その」  何度も躊躇う唇を、無意識の舌先がチロリと舐めるのが、欲を煽ってきて頭がクラクラする。 「……その……キス……したい……。彩月と」  耳まで赤く染めた先輩が恥ずかしそうに囁く声に、心がそわそわ揺れる。 「いや、先輩……キスって……」 「彩月と、シたい」 「先輩……?」  潤んだ目に見つめられたら、奥の方がじわりと熱くなるから困る。躊躇っていたら、先輩の指がきゅっと服の裾を掴んだ。 「キス、しちゃダメかな……」 「先輩……あたし、その……佳歩さんじゃないですよ……?」 「分かってるよ」 「……酔ってますか?」 「酔ってないよ」  キッパリと返ってきた返事と、真っ直ぐなままの瞳。 「……キスして、ホントにいいんですか?」 「シたいの」 「……先輩?」 「キスも……その先も」 「せん……?」  続けられなかった。すっと伸び上がってきた先輩の顔を呆然と見つめていたら、唇を唇に塞がれていた。 「……彩月と、シたい」 「…………淋しいんですか……?」 「違うよ! 慰めて欲しいとかじゃない……!」 「でも……」 「彩月と、シたいの。……彩月と、深くまで繋がりたい。……今のあたしを支えてくれてるのは、彩月だって気付いたから」 「先輩……」 「──歩叶」 「せん、ぱい……?」 「歩叶だから。……呼んで」  指先で唇に触れた先輩が、じっとあたしを見つめている。緊張に干からびた唇を、ゆっくりと開けた。 「…………ほのか……」 「……うん」  呼んだ声に返ってきたはにかむ笑顔が、とんでもなく可愛くて愛しい。 「っ、ほのか……!」 「ンッ!? ふ、んぅ……っ、ちょ……いきなりガッつき過ぎ」 「ごめんなさい……でも……ホントにいいんですか? あたしが先輩を支えてたなんて……あたしが支えられてたのはよく分かってますけど……」 「支えてくれてたよ。彩月が色んなことに一生懸命な姿は、ずっとあたしを支えてくれてた」 「せんぱい……」  呼び掛けに、ふ、と笑った先輩が、ちょんとあたしの頬をつつく。 「彩月だって、すぐには呼べないんじゃない」 「ぁ……だって、急に言われても……」 「あたしの気持ち、ちょっとは分かるでしょ」 「……でも、あたしは入社してからずっと言ってましたよ、彩月って呼んで下さいって。……あたしは今日言われたんですからね」 「……そうだったね」  ふふふ、と笑った先輩が、潤んだままの目であたしをもう一度見つめる。誘われるままに口付けたら、積極的な唇に唇を吸われて驚くしかなかった。 「せんぱい……?」 「ごめん……。でもなんか……すごく、彩月とシたくて……変だよね。こんなの初めてなんだけど……なんか……彩月とシたい」  真っ直ぐな言葉に、心が震えた。  腕を伸ばして先輩を──歩叶をキツく抱き締める。 「歩叶」 「っ、ぁ……」  耳元で囁いた声に、歩叶が震えた。  求め合う目が絡み合ったら、もう何も言葉に出来なかった。  裾から潜り込ませて素肌に触れた指を、そういう意図で動かしたのはあの日以来のことだ。  あの日はされるがままだった歩叶が、負けじと触れてくる指先のくすぐったさに身を捩る。 「……歩叶の指、くすぐったい」 「……あたしだって、彩月を気持ちよくしたいんだもん。……じゃあ、こっちは?」 「んふッ……そこはアタリです」  やった、と子供みたいに無邪気に喜ぶくせに、濡れたままの瞳がやけに色っぽい。ちゅう、と唇に吸い付いてきた唇が、あたしのスイッチを更に強く押す。腰の震えを隠さないまま、歩叶を攻め返した。あの日をなぞるみたいに、首筋を撫でて舐めて吸い上げる。赤い痕を歩叶の体に残すのは初めてだった。  おままごとみたいな優しいセックスなのに、愛しさが込み上げてきて苦しい。  チロチロと鎖骨を舐めて囓る。吸い上げて痕を残す。点々とついた赤い痕を見つめて満足していたら、おかえし、と小さく囁いた歩叶に首筋を強く吸われた。 「お揃いだね」 「っ……歩叶……!」 「ひゃっ」  可愛いことばかり言う唇を塞ぎながら、歩叶の服をたくしあげる。あたしの手が胸に触れるより早く、歩叶もあたしの服を捲った。 「あたしも気持ちよくするって言ってるのに……」  早いよ、と唇を尖らせる歩叶が可愛すぎて困る。 「んふふ……じゃあ触りっこですね。歩叶が触ってくれるなんて、興奮しちゃいます」  歩叶の手を取って、乳房へと導く。 「触ってください」 「…………柔らかい……」 「歩叶だって」 「うそ。あたしのは小さいもん」 「感度が抜群なんだから、いいじゃないですか」 「ひゃんっ……っもう!」 「可愛いです。歩叶のおっぱい。モチモチしてて敏感で……すごく可愛い」 「んっ……ふぁッ」  乳首に触れただけですぐに腰が跳ねる敏感さが愛しい。転がしたり摘まんだり、甘噛みした後で優しく啄んだり。その度に可愛い声が上がるから、あたしもどんどん大胆に、どんどん気持ちよくなれる。  歩叶のぎこちない指先は、あたしの胸をさわさわと撫でたり、乳首を遠慮がちに転がしたりしている。慣れていない感じが可愛くて愛しくてどうしようもない。  もっと強くてもいいんですよと、言おうとしてやめる。歩叶は、あたしの手が与える気持ちよさに耐えながら、とっても一生懸命にあたしに触れてくれていた。  愛しい。  愛しくて愛しくて、堪らない。 「ごめんなさい。もう待てないです」 「へ? んむっ……ンッ」  歩叶のデニムのジッパーを下ろして、下着の上から指を這わせる。にゅぷ、と指が沈んだ。 「ほのか……」 「やっ……」  さっと俯いた頬が羞恥に染まっている。 「嬉しい……。……恥ずかしがらないでください。気持ちよくなってくれて、嬉しいんです。……だって、あたしも同じなんですから」 「ぇ? あ……」  部屋着の短パンの裾側から歩叶の手を誘導する。あたしのそこも、歩叶と同じようにじゅぷ、と沈んだ。 「……彩月も……気持ちよかったの? ……あたしの手?」 「当たり前です。……好きな人が触ってくれたら、それだけですごく気持ちいいに決まってます」 「ぁ……」 「大好き。……歩叶が、凄く好きです。……歩叶は?」 「あたしも、凄く好きだし……凄く、大切に想ってる。彩月を大事にしたいって、凄く思ってるよ」  順番が逆だね、と涙目で笑った歩叶が、ちゅ、と唇に触れるだけのキスをくれた。 「大好き」  あたしも、と唇の中に直接囁く。  何もかもが満たされると、涙が出てくるものなのだろうか。ぱたぱたと頬を滑っていく滴に気付いた歩叶の指先が、優しく拭ってくれた。 「彩月……?」 「ごめ、なさ……なんか、幸せ過ぎて……」 「大袈裟だなぁ……そんなんじゃ、これから先泣いてばっかりになっちゃうよ」 「歩叶……」 「一緒に、たくさん幸せになりたいんだから」 「…………ん。約束ですからね」
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