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Four Seasons バージンロード
キュッキュッと背中の紐が締められていくのを鏡越しに見つめる。
「……もう泣いてますか?」
「……泣いてないわよ、さすがにまだ」
「んふふ。でも、もう泣いちゃいそうですよ。……はい、オッケ。……ん。今日も素敵です」
ちゅっと音を立てて唇に唇が触れてくる。
旅行から帰ったあの日、何もかもを失ったみたいな気持ちで帰って来た私を、彩月は温かく迎えてくれた。まさか先に帰っているなんて思ってもいなくて、訳の分からない涙に焦りながらも嬉しさに満たされたのだ。
買ってきたお土産のお菓子を摘まんだり、買い直した柚子酒を分け合いながらリビングで土産話ついでに佳歩との半生を振り返っていたら、驚く程にストンと諦めがついた。たぶん、とりとめのない話をどれだけしても、彩月がニコニコしたままで口を挟むこともなく聞いてくれたことで満たされたんだと思う。
自分からセックスをしたいと思ったのは、その時が人生で初めてだった。淋しさを埋めたいのだろうと勘違いしていた彩月にも、彩月とだからしたいのだと説明して、二人で気持ち良くなりたいのだと懸命に説いた。過去の彼氏相手には抱いたことのない感情だった。
ようやく分かり合えてしたセックスは、本当に気持ち良くて心も満たされて、幸せに満ちた心が震えて泣いた。
あの日から、先輩後輩としてではなく、恋人として暮らしてきた。あれから3ヶ月が経って、彩月は半日くらいなら一人で留守番出来るようになっている。今日はこのまま私を見送った後は家で過ごす予定らしい。
「……もう、佳歩のことはちゃんと気持ち整理できてるからね……?」
最後にボレロを着せてくれた彩月にそっと囁いたら、分かってますよぅ、と柔らかく笑ってくれる。
「そういう気持ちがあってもなくても、大事な幼なじみなんだってちゃんと分かってますから」
大丈夫、と囁いた後のキスはほんの少しだけ色っぽくて困った。
「ん、ちょっと……」
「けどやっぱり、ちょっとは妬けちゃいますから。今日は綺麗になった歩叶を、めちゃくちゃにするつもりですから。覚悟して帰って来て下さいね」
「……ばか」
ちゅっちゅっ、と音を立てて何度も繰り返されるキスにふわりと腰が揺れる。
「……すっかりエッチになっちゃいましたね」
「うるさいな」
「んふふ。嬉しいんですよ。……さ、早くしないと美容院遅刻しちゃいますよ」
「あっ? やばっ……ヒールだから早く出なきゃと思ってたのに」
「待って待って、バッグバッグ!」
玄関に向かって飛び出した私を、準備しておいたバッグと手提げの鞄を持って玄関まで追いかけてきた彩月が、忘れ物ないですか? と聞いてくれるのに頷いて、履き慣れないヒールに足をいれた。
「昨日準備したから大丈夫。じゃあ行ってくるね。何かあったらいつでも連絡して」
「大丈夫です。無理そうって思ったら外に出るつもりですから」
「ん……帰りに連絡するね」
「はい。待ってます」
「……行ってきます」
「…………行ってらっしゃい」
優しいキスで送り出してくれた彩月にヒラヒラと手を振って、美容室へ急いだ。
*****
コンコンと扉をノックされて、はぁい、と返事をする。準備を終えたらしい航太が落ち着かない表情で入ってきたと思ったら、
「…………佳歩」
あたしを見て固まってしまった。
「なぁに?」
「…………キレイだ、すごく……」
「でしょう」
ふふふん、と普段は小さすぎてコンプレックスな胸を、ここぞとばかりに張って見せる。今日は化粧もパットも2割増しだ。
衣装選びの時、航太のタキシードは一緒に選んだけれど、あたしのウェディングドレスもお色直し用のドレスも、お母さんと一緒に選んだ。
航太は、あたしのドレス姿を今日初めて見る。
「どうしよう……キスしていい?」
「ダメに決まってるでしょ。化粧が落ちちゃう」
「……ちぇっ」
子供みたいに唇を尖らせる航太が面白くてふふっと吹き出す。
同じように照れ臭そうに笑ったあとで、航太はやけにもじもじした声を出した。
「…………なぁ」
「ん?」
「……ホントに……あの人にエスコートしてもらうの?」
「ダメなの?」
「……だってさ……あの人、格好よすぎるんだよなぁ……オレ、敵う気しないんだよ……」
小さな子供みたいに不貞腐れた声で不満を呟く航太に、やれやれ、と大袈裟な溜め息をついて見せた。
航太の言うあの人とは歩叶のことで、披露宴のお色直しの時に歩叶にエスコートしてもらって会場を出ることに、まだ納得していないらしい。
今日はもう結婚式当日だというのに。
エスコートのことは歩叶には内緒にしていて、今日の披露宴の最中にサプライズでお願いすることになるけれど、歩叶ならきっと、絶対完璧にエスコートしてくれるに決まっている。
式の相談をプランナーを交えて話始めた頃から、歩叶のことは希望を出していた。勿論、航太もその場にいたのだけれど、最初は散々反対された。オレがエスコートすると言って、喧嘩にまで発展したほどだ。
それでも頑として譲らなかったのには、ちゃんと理由がある。
「──あたしね、歩叶が好きだったの」
「………………うそだろ」
「ホントだよ」
「……女同士じゃん?」
「いけない?」
つん、と顎を逸らす。
懸命に呼吸を整えて涙を堪えた。随分と前にケリをつけたはずの想いなのに、結婚式という特別な日のセンチメンタルさに心が浸りたいらしい。
「ずっとあたしの片想いだったの。……歩叶はあたしを甘やかしてくれるけど、あたしに甘えてはくれなかった。……あたしは歩叶に頼りっきりだったけど、歩叶はあたしを頼ってくれなかった。……格好よくて格好よくて……あたしには、歩叶に迷惑かけることしか出来ないんだって気付いて……あたしと一緒じゃ、歩叶は色んな意味で幸せになれないって思ったら、……告白も出来なかった」
「……佳歩……」
「歩叶には、幸せになって欲しいと思ってる」
「……なんだよそれ……オレより全然、あの人のことが好きなんじゃん……」
「違うよ。歩叶への好きと航太への好きは全然違う」
「……もういいよ。……結婚式の日にこんな話されるなんて、最悪だよ……」
「違うってば! 最後まで聞いて」
俯いて視線を合わせてくれないままの航太が、不機嫌そうに頷いてくれるのにホッとしながら、あのね、と続ける。
「航太のことは、あたしが幸せにしたいって思ったの。一緒に、二人で幸せになりたいって。歩叶の時は、幸せにして欲しいってずっと思ってた。……甘えすぎだよね」
「……」
「あたしは、航太と幸せになりたい。歩叶のことで自棄になって、あっち行ったりこっち行ったりフラフラしてたあたしを、ちゃんと叱ってくれた航太と幸せになりたい。……航太と幸せになるあたしを、誰よりも近くで、歩叶に見送って欲しい。歩叶は、あたしの親友でお姉ちゃんでお母さんだから」
「……ンだよそれ……」
「……ダメ……かな」
「……くそ……そんなんずりぃよ……」
嫌だって言える訳ねぇじゃん、と小さな子供みたいに呟いた航太が、ぐしっと鼻をすすった。
「…………あの人も、佳歩のことが好きなんだと思ってた……」
「あたしの好きとは違う好きだよ」
歩叶があたしを愛してくれているのは間違いないと思う。だけどそれは、母性とか家族とかに近いそれだと感じている。あたしの好きは、キスしたいやつだった。
誰にも言っていないし、これからも誰にも言うつもりもないけれど、1度だけ、歩叶に内緒で唇に触れたことがある。
高校の卒業旅行で京都に行った時のことだ。この間の旅行ではあたしの方が先に寝てしまったけれど、あの時は歩叶が先に寝ていたから。これっきりもう会わないつもりで唇にキスしたのに、結局25年だ。
長くて長くて、短くて愛しい時間だった。
これから先もたぶんずっと続いていくことを信じているけれど、付き合い方は変わってしまうのだと思う。
あたしはあたしで航太を選んだし、歩叶もきっと素敵な誰かを選ぶのだろうから。
「航太」
「……なに」
「一緒に、幸せになろうね」
「当たり前だよ」
我慢できなかったらしい航太に掻き抱かれて、コルセットと相まって本当に窒息しそうだった。
絶対に泣かないと決めていた。
一番綺麗で一番格好いい自分で見送ると決めていた。
よく知っている佳歩のお父さんが神妙な顔つきで佳歩と腕を組んで歩いてくるのを見守る間も、永遠を誓う宣誓も、誓いのキスも。ちゃんと笑顔で見届けて、披露宴までの時間を乗り切った。
「新婦の友人」が半分を占めていた席次表に、私だけ「新婦の幼なじみ」と書かれていた時には酷く動揺したけれど、なんとか乗り切った。
後は感謝の手紙的なところさえ乗り切ればいいと思って気楽に食事を楽しんでいたのに。
「新婦がお色直しに参ります。お色直しへのエスコートには、新婦の幼なじみであります松原歩叶様にお願いを──」
「…………は?」
司会者の声の途中で声が出た。取り落としそうになったカトラリーを握りしめるのに精一杯で、後の声は聞こえなかった。
呆然と顔を上げて佳歩の方を向いたら、まるで旅行の時のように満面の笑顔で私を待っていた。今にもぴょんぴょん跳び跳ねそうな雰囲気に、ガタリと椅子を鳴らして立ち上がる。
佳歩のたっての希望だ、と司会者が会場に説明するその言葉に呻く。
こんな展開は予想していなかった。
足が震える。恐る恐る踏み出した一歩に周囲の注目が集まる中
「歩叶……!」
佳歩に呼ばれて、何もかもが消え失せた。
「佳歩……」
呼び掛けにニコリと笑う顔が見える。腕を広げて、ハグを待ついつもの姿だ。
(…………ばか……)
堪えきれずに走り寄って、優しく抱き締めた。涙が一筋零れただけで堪える。
優しい腕に抱き締め返されて、なんとか鼻を啜った。
「……約束だったでしょ」
「ぁ……」
どうにか呼吸を整えている間に耳に囁かれた佳歩の声に、思い出したのは小さな頃のことだ。
バージンロードを一緒に歩きたいねと、約束したのだ。二人で遊びに出掛けた先で花嫁を見た後のことだったと思う。
どうして忘れていられたんだろう。
「もう……佳歩のバカ。こんな大役……先に言っといてよ」
「……言ったらタキシードで来てくれた?」
「そうね。それもアリだったかも」
冗談にノッて見せたら、惜しいことしちゃった、と佳歩が笑う。
目尻をそっと指先で拭ってから、佳歩の手を取った。
「──行こう」
誰よりも──新郎よりも。
顔を上げて、凛々しく歩きたい。私の人生一番の晴れ姿は、きっと今日のこの瞬間の私だ。
佳歩の足下に気を配りながら、短い距離をゆっくりと歩く。
披露宴会場を出て扉が閉まったら、佳歩にまた抱き締められた。
「大好きだよ、歩叶。ずっと傍にいてくれて、ありがとう」
「……それはこっちのセリフだよ」
ウェディングドレスの佳歩の隣を歩ける日が来るなんて、思いもしなかった。
「大好きだよ、佳歩。いつまでだってずっと」
愛してるよと心の中だけで続けて、頬に唇を寄せた。
*****
「歩叶、おかえりなさい」
「……彩月?」
「足、限界なんじゃないかと思って、スニーカー持ってきました」
「うそ、ありがと……」
スニーカーが入っているらしい紙袋をぶら下げた彩月が自宅の最寄り駅の改札前に立っていて、思わず駆け寄る。とはいえ実際には足が痛すぎて走りきれずに、彩月の方が走ってきてくれた。
「……ちょっと泣いちゃいましたか? 目が赤いですよ」
「ちょっとだけね……」
揃えて差し出されたスニーカーに履き替えてホッと息を吐く。
「それにしても……すっごく素敵ですね。ドレスも髪型も、凄く似合ってます」
「……ありがと」
真正面から誉められては照れ臭い。
もごもごしている間にそっと手を取られて、行きましょう、と促される。
「どうでしたか?」
「ん……いい式だったよ。佳歩らしい、明るくて温かい式だった。ドレスも似合ってたしね……」
「……あたしもいつか、歩叶のウェディングドレス姿が見たいです」
「なに言って……」
「本気ですよ。いつまでもずっと、歩叶と一緒にいたいです」
「…………そうだね……」
愛しい思いは嘘じゃないし、二人で幸せになりたいと願っている。
それでもそれは、佳歩達のように必ずしも祝福だけが溢れた形にはならないだろうし、前途多難だ。
婚姻届けさえ出すことの出来ない関係を、どうやって形作っていけばいいのだろう。
「あたし、だから……一度両親と話をしようと思ってます。……逃げてばっかりじゃダメだなって、やっと決心がつきました」
「彩月……」
「歩叶がずっと心配してくれてたのも、気づいてたんですけど……目を逸らしてました。今が、幸せだから」
「……うん」
繋いだ手に力が込められるのに気付いて、励ますように握り返した。
「あたしも、一緒に行くよ。彩月の実家」
「ぇ……?」
「一番辛い時に彩月を支えたい。一番傍で」
「歩叶……」
潤んだ目に見つめ返されて笑う。
「ずっと一緒にいよう、彩月。佳歩がちゃんと幸せになれたから、あたしも安心して自分の幸せに向き合えるよ」
「歩叶……」
「ごめんね。なんかこれじゃ、彩月より佳歩が大事って言ってるみたいだね。……ただ、佳歩はあたしにとって、幼なじみで親友で……ずっと一緒に育ってきた妹みたいな存在だったから」
「分かってます。……だけど、ほんのちょっぴり嫉妬はしちゃいましたから……今日は覚悟して下さいね。佳歩さんのために着飾った歩叶を、あたしが美味しく食べちゃいますから」
そういうことばっかり言うんだから、と笑おうとした私の顔を、彩月の真剣な顔が覗きこんできて戸惑う。
「……彩月?」
「……歩叶が持ってる、佳歩さんへの気持ちごと、大事に食べます。そしたらきっと、あたしも佳歩さんのこと好きになります」
「さつき……」
「丸ごと全部、愛してます。佳歩さんを好きな気持ちごと、歩叶を愛してますから」
「…………ん、ありがと」
「今夜は寝かせませんよ」
ちゅ、とこめかみにキスが降ってきて、今度こそ泣き笑いした。
「ばか。手加減してよね」
「無理です。今日の歩叶は、可愛すぎて止められません。ベッドまで待てませんよ」
「……やだ。──ちゃんとベッドで抱いて」
「歩叶……」
熱くなった顔を俯けて、スニーカーなのを良いことに彩月の腕を引いて点滅を始めた横断歩道を駆け出した。
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